今日僕は居残りを命じられた。宿題だった漢字練習のプリントを家に置き忘れてきてしまったのだ。よりによってこんな日に。というのも、いつもはクラスに何人かほかにも忘れる人がいるのだが、なぜか今日に限ってそれを持ってこなかったのは僕一人だけだったのだ。そのことに気付いたとき、全身から急に血の気が引いた。なぜならその担当の先生というのが、僕の最も嫌っているあいつだったからだ。
あいつは国語の授業を担当していた。僕の学校では担任の先生以外にそれぞれの科目を担当する先生がいる。そして僕の国語の成績が悪いのは、ひとえにあいつのせいなのだ。
自慢するわけではないけれど、僕の国語以外の成績はほとんどクラスのトップだ。算数も得意だし、英語も得意だ。英語なんてすでに中学生の問題を解けるくらいなのだ。That’s right.
でも国語の教科書を前にすると僕の胃はきりきりと痛むことになった。どうしてかは分からない。教科書以外の本を読むのは全然大丈夫なのだが――僕はたくさんの大人向けの本を読んでいた――なぜか教科書になると駄目なのだ。それは実は、あいつの顔が頭に浮かんでくるからではないのかと僕は踏んでいるのだが。
あいつは大体四十歳くらいの眼鏡をかけた男で、がっしりした体つきをしている。学生の頃は水泳の選手だったということだ。もちろんそれはいいのだが、問題は彼の授業だった。それは正直なところ、拷問のように退屈だったのだ。一分一分がほとんど百年のように感じられる。その声は嫌ったらしく間延びしていて、聞いた人すべての眠気を誘う。彼が何を言うのかは、ほとんど口を開く十分前に想像できる(なにしろ決まり切ったことしか言わないのだ)。チョークで書かれた字はとても丁寧で読みやすいのだが、僕にはなぜかそれも退屈に感じられた。字の一つ一つにおおらかさというものがなく、なんかこう、身をぎゅっと縮めているような感じなのだ。
みんなは彼のことを裏で「石像」と呼んでいた。表情が石のように変わらないし、身体つきも石みたいにごつごつしているからだ。一度あいつに後ろ襟を掴まれた友達がいるのだが――彼はそのまま宙に吊るされた――彼によればその力はほとんどショベルカー並みだったということだ(僕はもちろんそれを信じる)。
ということで我々は彼のことを恐れていた。ひとたび居眠りでもすれば、じっとこちらを睨み、やがて膨大な量の宿題を出すことになる。そしてそのほとんどが意味のない漢字練習で、腕の鍛錬にしかならないんじゃないかと思うこともある。でも奴は、自分は完全に正しいことをやっているのだと思っている。自分ほど立派な人間はこの世にいないのだと確信している。一体どうしたらあんな大人になれるんだろう?
実際僕はほかの授業ではまず宿題を忘れたりはしない。そんなにまじめであるというわけでもないのだが、やらなければならないことはとっとと終わらせてしまおう、という性格なのだ。それでそのあとにゲームをやったり、好きな本を読む。でも今回ばかりは完全に頭から抜け落ちていた。おそらく家に帰ってまであいつのことを思い出すのを、無意識のうちに嫌がっていたのだろう。
僕が宿題を忘れた、と聞くと奴はほんの少しだけニヤリと笑った。そう、石像が笑ったのだ。奴が笑うのを見たのはそれが初めてだった。実際のところ奴は、ほかの成績は良いのに国語の成績だけぱっとしないせいで、僕のことを恨みに思っていたのだ。僕にはそれが分かった。あるいはほかの先生からそのことを指摘されていたのかもしれない。
「放課後に居残りだな」と奴は舌舐めずりをしながら言った。僕は床を見つめながらそれを聞いていた。教室は、完全に静まり返っていた。
そして放課後がやってきた。最後の授業が終わって掃除をしている間中、僕は胃の中に重たい石が入ったような気分を味わっていた。まるであの石像が自分の従兄か何かを僕の中に送り込んだみたいだった。「おれは見ているぞ」とあいつは言っていた。おれはいつもお前を見ているぞ。
僕は深い溜息をつき、教室の机をずるずると後ろに移動した。
居残りに指定されたのは、普段はめったに使われないがらんとした教室だった。子どもの数が減ったせいでもう全然使われなくなってしまったのだ。そこにはまるでお墓のような雰囲気が漂っていた。薄暗く、埃っぽい。線香の匂いまで漂ってきそうだ。僕はその一番前の椅子に座って、じっと奴がやって来るのを待った。
奴は正確に時間通りにやって来た。そもそも奴が時間に遅れるのを僕は見たことがない。まるで、みんなが奴のことを首を長くして待っているとでもいうみたいに。実際にはむしろ、やって来ないことを期待しているのだが。
奴は無表情のまま両手に何枚かのプリントを抱えていた。それは漢字練習のプリントで、はっきりいって僕にとってはほとんどもう覚えているような漢字ばかりだった。でもそんなことは奴には関係ない。これは一種の懲罰なのだ。
僕はこれは右腕のトレーニングなのだと考えることにした。実際のところ僕はサッカー少年だったからあまり腕の筋肉は必要なかったのだが、それでも少しくらいは何かの役に立つだろうと思うことにした。正直なところ、僕はこれで結構前向きな性格なのだ。
奴は何も言わないまま、大げさな歩き方で――まるで観客に見せつけるかのように――僕の前に来て、そのプリントを置いた。僕はちらりと奴の顔を見たが、彼は僕のことなんか見てはいなかった。その目は僕を通り越して、何か別のものを見ていた。
僕は何も質問せず――というのも分かり切ったことを聞かれるのが奴は一番嫌いだったから――ただ鉛筆を出してそのプリントをやりだした。同じ字を何度も繰り返し書く。想像。想像。想像・・・。建築。建築。建築・・・。純粋。純粋。純粋・・・。滞る。滞る。滞る・・・。
一枚目のプリントが終わると、奴はすかさず二枚目を机の上に置いた。僕はそれも黙ってやり始めた。監督。監督。監督・・・。保障、保障、保障・・・。挑戦、挑戦、挑戦・・・。厳格、厳格、厳格・・・。
二枚目の途中で奴が突然話しかけてきた。
「なあ、お前はサッカーをやっているんだろう?」と彼は窓の外を見ながら言った。
「はい」と僕は驚いて言った。
「ポジションは?」
「右サイドバックです」と僕は言った。
「私はキーパーだった」と奴は言った。「身体ががっしりしていたから、その時点で否応なくキーパーだ。本当はフォワードがやりたかったのに」
それは残念です、と僕は言おうとしたのだが、すぐに彼が僕の話なんか全然聞いてはいないことに気付いた。彼はただ自分の思い出話をしたいだけなのだ。
「よくいじめられた」と彼は続けた。「自分ではそれほど悪いキーパーだとは思っていなかったが、失点すると全部私のせいにされた。シュートを外してもフォワードは一切文句を言われないのに」
彼はそこで少し話を止めたが、僕は漢字練習の手を止めなかった。なにしろいつ怒り出すか分からないのだ。
「あいつらは無能だった」と彼は続けた。「今思えば監督も無能だった。いつもどなり散らしていて、無意味に威張っていた。怒鳴ったところで急に上手くなるわけじゃないだろう。そうじゃないか?」
僕は少しだけ頷いた。
「だから中学校に入ったあとはずっと水泳をやっていた」と奴は言った。「それなら遅くても文句は言われない。団体戦のメンバーにはできるだけ入らないようにしていた。自分の力をセーブしていたんだ。もしメンバーになったとしたら、きっとろくでもないチームメートに文句を言われるだろうからな」
彼は今完全に追想の中に浸っていた。僕はまだ漢字練習を続けていた。重厚、重厚、重厚・・・。浄化、浄化、浄化・・・。
「俺の人生はずっとそんな感じだった。とにかく誰かに文句を言われるのを避けて通ってきた。本当はIT企業に勤めたかったんだが、それもあきらめた。母親が公務員になれと言ってうるさかったからな。今思えば惜しいことをしたと思うよ。きっと今では収入が倍くらい違っていただろう。あいつらはいつも近視眼的なんだ。そうだろう?」
僕はほとんど反応をしなかったのだが――実際どうすればよかったのだ?――奴は構わず先を続けた。
「でもまあ教師も悪くなかった。こんな田舎に住まなきゃならないのは残念だが、それでも教室の中では誰も文句を言わない。そんなことは断じて俺が許さない」
そこで二枚目が終わったのだが、奴はすかさず三枚目を取り出した。三枚目? と僕は思った。これはいくらなんでも多すぎはしないか?
でも僕は文句を言わなかった。彼に文句を言う勇気はさすがの僕にもない。奴は話を続けた。
「大体この学校の教師なんて全員無能な奴らだ」と彼は言った。「校長は耄碌しているし、教頭はただの権威主義者だ。あとの残りは、自分の頭を使えないぼんくらばかりだ」
校長が耄碌している、というのには同感だったが、実際僕にはほかの先生はそれほど無能だとは思えなかった。少なくとも彼の授業よりは、ほかの先生の授業の方が数倍ましだったからだ。宿題も少なかったし、面白い雑談だってしてくれた。でも彼はそんなことは考えもしないみたいだった。
「ときどき夢を見るんだ」と彼は続けた。「俺は故郷の街に戻っていて、その学校にいる。誰もいない教室の中にいるんだが、そこで一人で漢字練習をやり続けるんだ。もう大人になっているにもかかわらず、だ。目の前には山と積まれたプリントがある。俺はせっせとそれをやり続ける。鉛筆でたくさんの漢字を書き続けるんだ。でも俺は、急に誰かの笑い声を耳にして後ろを振り返る。しかしそこには誰もいない。それでまた漢字練習に戻るんだが、また誰かが笑い出す。でも後ろを見ても誰もいないんだ。俺は自分の中に怒りが湧いてくるのが分かる。その笑い声が――実際にはどうだったのか知らないが――俺のことを馬鹿にしているように思えたからだよ。
俺はすべての恨みを込めて漢字を書き続ける。クラスメートに対する恨み。先生に対する恨み。両親に対する恨み。好きだった女の子に対する恨み。そのうち目の前のプリントが腐ってくるのが分かる。そう、紙が――あるいは俺の書いている字が――腐っていくんだよ。それはどんどん黒ずんでいき、やがてドロドロに溶けて床に落ちる。それでも俺は机の上に字を書き続けている。ガリガリガリと。ガリガリガリと。やがて床に落ちた黒いプリントから、影のような人間が湧き上がってくる。そいつは黒い人間で、俺にはそのシルエットしか見えない。そいつは俺に言うんだ。
『その怒りを子どもたちにぶつけたらいい』とな。『あいつらはただ親のすねをかじって生きているだけで、何の役にも立たない。騒々しくて、すぐに物を壊すし、それに一人残らず甘ったれだ。甘やかされた奴はろくでもない大人になる。そしてどうなる? 当然またろくでもない子どもをつくるのさ』
『どうしたらいい?』と俺は訊く。
『小さいうちに握り潰すんだ』と奴は言う。『いろんなことが手遅れにならないうちに』
『でもどうやって?』と俺は言う。『子ども殺したりするのは重罪だ』
『俺に任せてくれよ』とそいつは言う。『そうすれば何もかもうまくいくからさ』と。
そこでそいつは俺の中に入ってくる。俺はそれを妨げない。影が中に入ると、全身に力が湧いてきたように感じる。俺は今誰よりも強いのだと感じる。そしてなによりも使命感に満ちている。何の役にも立たない子どもをひねり潰すのだ、と。それは社会のためでもある。より良き社会のためだ。俺はもうほとんど何も考えない。というのも今は奴が俺の身体を動かしているからだ。そして俺はその教室を出て、計画を実行に移すことにする。何の役にも立たない子どもを、この手でひねり潰すのだと』」
彼はそこで話を止めた。その目は茫然としてほとんど何も見ていないように見えた。僕はぞっとして、漢字練習の手を止めた。救出、救出、救出。
「でもそんなの単なる夢だ」と彼は口調を変えて言った。「本当に子どもを殺したりなんかしない。俺は、影に自分の身を明け渡したりはしない。さすがにそこまではいっていないんだよ。まあその直前くらいまではいったかもしれないがな」
そして彼は僕の横に来て、机の縁を触った。僕は思わずびくりと身を震わせた。
「なあ」と彼は続けた。「きっと君は俺のことが嫌いなんだろう。だから国語の成績だけが悪いんだろう。ほかの先生は不思議に思っているよ。ほかの教科はずば抜けて成績が良いのに、どうして国語だけが悪いんだろうってな」
そんなことありません、と僕は言おうとしたのだが、なぜか言葉は出てこなかった。誰かここに来てくれないか、と僕は心の中で願い続けていた。誰かここに来て、僕を救出してくれないものだろうか?
でもその教室はほかの教室からずっと離れたところにあって、廊下には誰もいなかった。校庭からは下級生たちが遊ぶ声が聞こえてきたが、彼らは僕を助けには来てくれないだろう。僕はもう漢字を書いていなかった。ただ逃げ出す機会をうかがっていた。
「人生とは苦痛の連続だ」と彼は言った。重みを持った声だった。「そのことをよく覚えておくんだ。俺は今君らにその訓練をさせてやっているんだよ。無意味なことに辛抱強く耐える訓練だ。もっとも耐えたところで、次にまた同じようなものがやって来るだけなんだけどな」
僕はもうほとんど話を聞いていなかった。とにかくこいつから離れなければいけない。そうしないと僕の中の何かが――大事な何かが――失われてしまう。
そのとき午後四時の太陽が雲にさえぎられて空が急に暗くなった。それは本当に急に起こったのだ。白いレースのカーテン越しに入ってきていた光が、突然弱くなった。奴は教室の電気を点けていなかったから、僕らはいきなり影に包まれた。そのとき僕は奴の影がぐんぐん大きくなっていくのを見た。それは奴の足元から黒板の方に伸びていき、そこで一人の人間の形を取った。それは大きな人間だった。そしてそいつは、僕の方を見てニヤリと笑った。もちろんただの暗いシルエットだったから、本当に笑ったかどうかなんて分からない。でも僕はそれを見たのだ。確かに見たのだ。その影は笑い、今奴の背中に両手を置いていた。奴本体は今、無表情で僕の顔を――あるいはその先にある何かを――じっと見つめていた。その瞬間、僕は席を立って走り出した。リュックをひっつかみ、プリントが床に落ちるのも構わずに。何本かの鉛筆と消しゴムは置いたままだったが、そんなものはまた買ってもらえばいい。今は自分の身を守ることが先決だったのだ。僕は近くにある机に何度も身をぶつけながら廊下を目指した。もうほとんどなんにも考えなかった。あそこに、光のある世界に戻らなければならない。あの、無邪気に叫び声を上げている下級生たちのもとに戻らなければならない。自分はこんなところにいるべきではないのだ。
僕が席を立っても奴は何の反応も示さなかった。暗い影の中、さっきまで僕がいた机を――あるいはそこにある何かを――ただじっと見つめているだけだった。最後の瞬間、僕は誰かが笑う声を聞いた。それが誰の声だったのか、今ではもう分からない。