その日職場では無許可で診療を行っている医師のことが話題になった。彼らは司直の目を逃れ、人々に非科学的な治療を行っているということだった。もちろん保険は効かない。人々は全額自己負担でその治療を受ける。
「彼らの治療に本当にそんな高い金を払うだけの価値があるんだろうか?」と私は同僚に聞いた。
「そこが分からないところなんだ」と彼は言った。「もし身体に悪いところがあったら、なにも普通の病院に行けばいいんだ。全額国が負担してくれるし、治療は徹底的に科学的だ。それでも奴らのような商売が成り立っている、ということは、つまりそれなりの需要があるということなんだろう」
「世の中には物好きな人がいるものだね」と私は言った。
「まったくだ」と彼は言った。
その日定時に仕事を終えると、私はその足で市立図書館に向かった。私はそこで歴史の本を何冊か選び出し、閲覧席に座ってそれらの本を読んだ。紙の本なんて時代遅れだと言う人もいるが、古い時代のことを知るにはこれが一番なのだ。今やそういった不要な情報はインターネットにすら載っていない。
私はアルコール中毒という病気を知って以来、古い時代のことに興味を持つようになっていた。今では考えられないようなことが次々に起こった時代だ。一般的にはその時代は人類の暗黒時代として片付けられている。より幸福な時代――つまり現代だ――に至るための試行錯誤の一段階に過ぎなかったのだと。
だから今では古い時代に興味を持つ人なんてほとんどいない。いるとすれば物好きな学者くらいだ。でも最近私の中ではこの時代に対する好奇心が膨らんできていた。人々は様々な病に苦しめられながらも、なお懸命に日々を生き延びていたのだ。そういった先人たちの努力に多少の興味を持ったとしても、さほどのばちは当たるまい。
その本を読んで私は、かつての人類が非常に不幸な境遇に置かれていたことを知った。その当時には実に様々な病気があり、そのせいで大勢の人々が亡くなっていた。現代とは大違いだ。今では人間が老衰以外で亡くなることはほとんどない。それでもその本の中で最も私の興味を惹いたのは当時の犯罪の多さだった。実に多くの人が人を殺したり、盗みを働いたりしていた。中には自分の子供を殺した母親なんていうのもいた。国家規模の戦争ももちろん悲惨だが、一見平和そうな時代にこのような犯罪が日常的に頻発していた、というのも大きな驚きだった。この本の著者はこう述べていた。「当時にあっては人々の知能指数は現在よりもはるかに低く、法律を守らなければならないというごく初歩的な認識さえままならなかったのだろう。彼らは教育というものを受けなかったのだろうか。否、その多くは正規の教育を受けていたのである。しかし悲しいかな、それは現在のように科学的ではなかったのだ」
私はこの本の著者に完全に同意した。科学的に正しい教育だけが、科学的に正しい人間を造ることができる。それでも彼はその先でこのように述べてもいた。
「しかし我々は当時の人々が抱えていた技術的な欠陥というのも考慮しなければならない。彼らが真に幸福になるためには、まだ『悪の吸引器』の到来を待たねばならなかったのである」
「悪の吸引器」のことはもちろん知っている。私も子どもの頃よく使ったものだった。もっともこの本を読むまではそれがそんなに重要な発明だったとは知らなかったのだが。
「『悪の吸引器』は二十一世紀にある心理学者が発明した。彼は、世の中に悪や犯罪が存在するのは人間の心の中に有害な物質があるためだ、という結論を下した。その物質のせいで人々は日々ストレスを感じ、落ち着きを失い、様々な中毒症状に苦しめられるのだと。そこで彼は人間の中にあるその有害物質を取り除く器械を発明した。その器械を使うことで人々の心理的ストレスは極端に減少し、意識は比較にならないほど鋭敏になった。その結果、人々は極めて論理的な思考をすることが可能になったのである。そしてさらに――ここが一番重要なのだが――その論理的思考と実際の行動との間の齟齬をほとんどゼロと言っていいくらいに消し去ることが可能になったのだ。これはとても偉大な発明だった。なぜなら論理的に思考することは(ある程度の知能さえあれば)当時の人々でも可能だったが、それを実行に移すことは――現代では考えられないことだが――かなり困難なことだったからだ。これについては想像するしかないわけだが、当時は肉体が精神のコントロールを超えて動くということが往々にして起きたらしい。考えるだに恐ろしいことだが、そのコントロールを失った肉体が至るところで様々な悪事を犯したのだ。
彼ははじめ成人に対してこの器具を使用したのだが、当初は失敗続きだったらしい。犯罪者や重度の精神病者を対象に実験を行ったのだが、生気がなくなって全くしゃべらなくなる人や、植物人間のようになってしまう人が続出した。自殺者も何人か出たようだ。そこで彼は実験の対象を子どもに絞ることにした。まだ自我が固まる前の柔軟な意識を持った子どもに吸引を行うのである。この実験は完全に成功した。彼は子どもがわがままを言ったり癇癪を起したりするたびに、この器具を使って有害な物質を吸引した。すると子どもは従順になり、瞬時に落ち着きを取り戻した。そして――ここが彼の慧眼と言うべきところだが――その状態において子どもたちに論理的思考の訓練を受けさせたのだ。この吸引と論理的教育のコンビネーションによって、子ども達の精神状態は極端に改善した。そしてこの子ども達が成長し、真に論理的な大人となり、全く科学的に幸福な社会を実現させることになったのである。もはや悪は姿を消し、整然とした論理の世界がそれに取って代わった。それに精神衛生が改善されることには別な利点もあった。人々は論理的に行動することによって馬鹿げた中毒症状から抜け出し、身体の健康をも取り戻すことができたのである」
私は一度本から目を上げ、自分の子供時代のことを思い出した。はじめは吸引されるのが嫌でたまらなかったことを覚えている。でも慣れてくるとだんだん自分からやってもらいたくなってくる。そういえば私は、ほかの子どもたちより吸引される量も回数も多かったような気がする。生まれつき他人より多くの悪が割り当てられていた、ということなのだろうか。私は本の続きを読んだ。
「しかし中には上手くその有害物質を吸引しきれない人間もいる。人口の何パーセントかに過ぎないのだが、彼らは大人になってもなお特別な治療を必要とするのである。通常の人は成人するまでの吸引と、論理的教育のおかげで悪とは無縁の存在になっている。しかしその一握りの気の毒な人々は成人してもなお有害物質を抱えたまま生きねばならないのである。成人の有害物質は子どものものとは違って単純な吸引だけでは取り除けない。脳に直接電波を送り、逐一破壊していくしかない。これには非常に大きな手間がかかるし、治療者の熟練した技能も要る。しかしもしそれを破壊しなければ彼らの中にある論理的枠組みは瞬時に破壊され、狂人になったり、ひどいときには(全く馬鹿げたことだが)自殺企図をしたりすることになるのである。いっそのことこういう種類の人間は(老人や障害者のように)施設にお引き取り願えばいいのかもしれないが、実はこのような人々が健康を取り戻すと非常に有能な仕事をするケースが報告されているのである。だからこそ、政府は高い治療費を負担してまで彼らを救う努力を続けているのである」
私はそこまで読んでしまうと本を閉じた。この本によれば、私は明らかにこの「一握りの気の毒な人々」のうちの一人だった。私が通っている病院の医師は一切このような詳しい説明をしてくれなかったが、病院に行くたびに頭に取りつけられる器具や、成人してから悪化しはじめた頭痛などを考え合わせると、細部が明らかにこの本の記述に合致していた。やはり私は生まれつき他人より多くの悪を背負っているらしい。私は自分が自分のコントロールを超えて他人を殺したり、衝動的に盗みを働いたりするところを思い浮かべた。それはぞっとするような光景だった。私が私でありながら、もはや私ではないのだ。それはどんな気持ちのするものなのだろう?でも私は無駄なことを考えるのをやめ、とにかく論理的思考をすることを心がけた。この本によれば――きちんとした治療を続けさえすれば――私は国のために正常に働くことができる。それもほかの人達よりも有能に。物事の良い面を見ようではないか。
図書館を出ようとしたときに少しだけ気になることがあったので、引き返してもう一度あの本を開いた。私が気になったのは「悪の吸引器」の発明者のことだった。彼はその後どうなったのだろう。本にはこう書いてあった。
「ちなみに、この『悪の吸引器』を発明した研究者は、自ら有害物質を吸引した後、数ヶ月後に自殺した」
私は図書館を出ると、人ごみの中を足早に駅に向かった。頭の中ではさっき読んだ本の記述がまだぐるぐると回り続けていた。私は「悪の吸引器」の発明者について考えていた。彼は人々を幸福にしたが、自分自身は研究の犠牲になって死んでしまった。彼の人生とは一体何だったのだろう。彼自身は幸福だったのだろうか。
私はそこで考えるのをやめた。過去のことについてあれこれ考えるのは時間の無駄だ。もっと論理的にならなくては。私は急いで駅へと向かった。しかしそこでまたしてもあの頭痛がやってきた。一体どうしたというのだ。昨日治療を受けたばかりなのに。これまでは一旦治療を受けさえすれば、その後一週間は痛みはやってこなかった。しかし今では私の中で明らかに何かが起ころうとしていた。それはひどく非論理的な何かだった。
私はふらふらと路地裏に入り込み、ビルの陰にしゃがみこんだ。頭の奥では例の人間の叫び声のような音が鳴り響いている。一体これは何なんだ?私は堅く目をつぶり、両手でぴたりと隙間なく耳を塞いだ。でももちろんそんなことをしても何の役にも立たなかった。私はもう自分が自分でなくなってしまったような気がしていた。俺は一体どうなってしまったんだ?
そのとき誰かが私の肩を叩いているのに気付いた。見ると一人の中年の男が私を心配そうに見つめている。「君、大丈夫かい?」と彼は言っていた。「私は医者だ。私のところに来ればその痛みを和らげてやれるかもしれない」
しかし彼はどう見ても正規の医者には見えなかった。くたびれたコートを着て、くたびれた帽子をかぶっている。彼自身もなんとなくくたびれて見えた。私はなんとか声を絞り出し、尋ねた。「免許は持っているのですか」
「いや、免許はない」と彼は正直に言った。「でも正規の医者のところに行ったってその痛みは引かないよ。でも私は治す方法を知っている」
「本当に痛みは引くんですか」と私は聞いた。
「保証する」と彼は言った。
私は藁にもすがる思いで彼に身を任せた。彼は私に肩を貸して立ち上がらせると、うらぶれたビルのうらぶれた一室に私を連れて行った。
彼は私をカウチに横たえた。頭の痛みはいまだ引かず、あの気味の悪い音がわんわんと頭の奥で鳴り響いていた。「早くこの痛みをなんとかしてください」と私は言った。「麻酔薬か、あるいは鎮静剤のようなものはないんですか」
「申し訳ないが、ここには麻酔も鎮静剤もない」と彼は言った。「もしあったとしても私はそんなものは使わない」
それを聞くと気が遠くなり、危うく意識を失ってしまいそうになった。私はそれでもなんとか声を絞り出した。「この痛みと、この頭の中で鳴り響いている音を消してほしいんです」
「麻酔薬や鎮静剤、あるいは彼らがやっている電波を使った療法だが、そんなことをしても根本的な治療にはならない。唯一の解決策はあなた自身が強くなることだ。私がやるのは痛みを取り除くことではなく、あなたを鍛えることだ」と彼は言った。
「鍛える?」
「そうだ」と彼は言った。「痛みを避けるのではなく、正面から受け入れるんだ。そこにのみ本当の解決がある」
「そんなのは全然論理的じゃない」と私は小さな声で言った。
「論理なんてくそ食らえだ」と彼は言った。「あんたが苦しんでいるのはその薄っぺらな論理的思考のせいなんだ。あんたはほかの人とは違って自分というものを持っている。これからそれを回復させなくてはならない。それは論理も非論理もなく、ただそこにあるものなんだよ」
「では具体的にどうすればいいんです」と私は痛みに耐えながら言った。
「最近夢を見なかったか?」と彼は言った。「その話をしてほしい」
私はこの前見た夢の話をした。自転車でぐるぐるとサーキットを回っていたあの夢だ。
「ふうん。あんたは闇に呑み込まれながら医療費の心配をしていたわけだ」と彼は言った。
「当然でしょう」と私は頭を押さえながら言った。
「まあいい。あとはその変な音というのがどういうものなのか教えてくれないか」と彼は言った。
私は彼にその音について詳しく説明した。まるで人間の叫び声のような音なのだと。耳をつんざくように鳴り響き、平衡感覚を失わせ、論理的思考の邪魔をするのだと。
「それは今も聞こえているのか」
「あなたと話しているうちに少し小さくなりました。でもまだ鳴っています」
すると彼は部屋の奥にあった棚から穴のあいた大きな円盤を取り出し、近くにあった器械に乗せた。彼がその器械のスイッチを押すと、円盤がくるくると回り出し、スピーカーから私の中で鳴っているのによく似た騒音が鳴りだした。
「その音はこれに似ているんじゃないのか」と彼が聞いた。
私は耐えきれずに耳を塞いだ。「そうです。そういう音です。頼むから消してくれませんか」
彼は器械を止めた。「これは『音楽』というものだ」と彼は言った。「良い音楽は人の心の扉を開けるんだよ」
「音楽のことなら知っています。学校で習いました。ベートーベンやモーツァルト。でもあれはこんなにひどい音じゃなかった」
彼は首を振った。「今の学校で教えているのは音楽なんかじゃない。あれは本当のベートーベンやモーツァルトじゃないんだよ。彼らの音楽のデモーニッシュなところを切り取って、人畜無害なものに編曲したものなんだ。あそこには本当の生命が欠けている」
彼はそこであの円盤と、その紙製のケースを私に見せた。「これはレコードというもので、さっきの音楽はオペラというものだ。『魔笛』の中の『夜の女王のアリア』。これもモーツァルトだ。人間が声を出して音楽を演奏するんだ」
「それはもしかして『歌』ですか」と私は聞いた。そして聞いてしまってから、なぜ自分は「歌」なんて言葉を知っているんだろうと思った。頭の奥で何かが疼いた。
「そうだ、歌だ」と彼は言った。「よく分かってるじゃないか。歌というのは何かのためにあるものじゃない。あくまで自然に湧き出してくるものなんだ」
「どこから?」
「自分自身からだ」
私は目をつぶり、自分の内奥で響いているその騒音に耳を澄ました。これが歌なのだろうか?私には悪魔の叫び声のようにしか聞こえない。
「あんたは毎日ここに来て、音楽を聞く訓練をしなくてはならない」と彼は言った。「痛みや、非論理的なものから逃げてはいけない。それを正面から受け入れるんだよ。それができたとき、あんたは新しい世界を眺めるだろう」
「新しい世界」と私はつぶやいた。意識が朦朧としてきていた。
彼は棚のところに行き、別のレコードを取り出した。そして「いいか、逃げるんじゃないぞ」と言った。「これはマーラーの『亡き子をしのぶ歌』だ。耳をかっぽじってよく聞くんだ」
彼がレコードをかけると、再び頭の痛みがやってきた。そしてそれに合わせて私の内部にある奇妙な音もまた大きく鳴りだした。私は歯を食いしばってマーラーの音楽に耳を傾けていた。全身から汗が吹き出し、顎ががくがくと震えた。頭が何かにきつく締め上げられるような感覚があった。私の内部の声はマーラーに対抗するかのように音量を上げていた。いまや外部の声と内部の声が互いに絡み合い、耳障りな不協和音となって意識の壁に反響していた。私はいっそのこと耳を塞いでしまいたかった。しかし私は自分に対してそれを許さなかった。俺は今大きな挑戦の渦中にいるのだ、と私は思った。ここで負けてしまうわけにはいかない。そのようにしてなんとか辛抱しているうちに、内部の声が外部の歌の後を付いて鳴り始めたのに気付いた。それはマーラーが辿った足跡を、一歩たりとも違えずに付いて行こうとしていた。スピーカーから鳴る歌声が、私の内部の声をどこかへと導いているようだった。
頭の痛みはいまだに続いていた。それでも私はじっと耳を澄まし、内部の声が外部の声を模倣するのに任せていた。それは苦しい経験だった。苦しい経験だったが、私はそこにある種の充実感を感じないわけにはいかなかった。自分が今何かに繋がりつつある、という感覚があったからだ。そして突然、あるポイントで、内部の声は自らを取り囲んでいた論理性の堅い枠組みを飛び越えた。その瞬間私は今まで一度も見たことのない世界を垣間見た。その世界の光景は私をひどく混乱させ、怯えさせた。それは名付け得ぬものがそのままの形で存在している世界だった。そこにはどんな名称もなければ、どんな形式もなかった。正しさもなければ、非正しさもなかった。私はそれらのものを必死に論理的に分類しようとした。しかしそれは不可能だった。なぜならそれらは固定されたものではなく、常に動き続けているものだったからだ。私は堪らず目を閉じた。とてもその光景に耐えられそうになかったのだ。しかし内部の声が歌を歌い、私を励ましていた。あなたにはそれを見ることができる、とその声は言っていた。そしてそれを生きることができる、と。私は意を決して再び目を開けた。
目を開けたとき見えたのは海の姿だった。哀しみの海だ。その灰色の海はどこまでも遠くに続き、果てというものがない。ときどきクジラが水面に現れ、哀しみの潮を吹いた。私はそこにひとつの小さな孤島を見た。孤島には例のごとくヤシの木が生えていて――哀しみのヤシの木だ――その根元に一つの人影が見えた。一体誰だろう、と私は思う。目を凝らしてみると、それは私自身だった。そうだ、私自身だったのだ。私は一人その哀しみの孤島にいて、空を見上げていた。上空では強い風が吹き、世界にかん高い音を響かせていた。よく聞くと、それは私の頭の中で鳴っていたあの女の声だった。
その声はマーラーの後に続いて歌を歌い続けていた。そして気付くと私もまたそれに合わせて歌を歌っていた。下手な歌だが、別に誰に聞かれるわけでもない。私はそこで気持ちよく歌を歌っていた。歌を歌うと、なぜか周囲を取り囲む哀しみがそれほど気にならなくなった。私は歌い続けた。大声で、風と共に歌い続けた。そしてそこでふと、今自分は生きているのかもしれない、と思った。
私は歌を歌いながら砂浜へと向かい、哀しみの海にそっと手を触れた。指先に波が当たり、やがて引いた。また波が当たり、やがて引いた。それは哀しみの水だったのだが、その中には何か「哀しみ」だけではない成分が含まれているような気がした。でもそれが何なのか言葉で説明することはできない。それを説明するためには、私はまた別の孤島に行かなければならないだろう。
私はまた顔を上げた。風は歌い続け、青い空の向こうでは太陽が燦々と輝いていた。ずっと遠くの方でクジラの尾びれが水面を叩くのが見えた。哀しみのヤシの木が、風を受けてゆらゆらと気持ちよさそうに揺れていた。
医者がレコードを止めたとき、私は涙を流していた。それが非論理的な行為だとは分かっていたのだが、どうしても涙を止めることはできなかった。それは山奥の湧き水のように、私の内奥からごく自然に溢れ出てきた。この前涙を流したのは一体いつだったろう、と私は思った。でも全く思い出すことはできなかった。ではなぜ泣いているのだろう、と私は思った。でもそれも全く分からなかった。
やがて医者が私の肩に手を置き、何かを言った。でも私には彼が何を言っているのか全然理解することができなかった。この男は一体何をしゃべっているのだ?私はカウチに背をもたせかけたまま再び目を閉じた。そして目を閉じながら、意識の辺境でまたあの孤島を訪れていた。私はヤシの木の根元に座り、上空を見上げ、ただじっと待ち続けていた。いつまでも、辛抱強く待ち続けていた。風がもう一度歌い始めるまで。誰か他人の歌ではなく、風が私自身の歌を歌い始めるまで。