その年私は重度のパンケーキ中毒に苦しめられていた。
寝ても覚めても頭の中にはパンケーキのことしかなかった。白い皿に載せた焼きたてのパンケーキ。バターとメープルシロップの香り・・・。
もちろんカロリーのことを考えて日々ハードな運動をこなしていたから、きっとまわりの人々の目には私が毎日こんなに高カロリーのパンケーキを食べているようには映らなかったはずだ。
しかし実際にはいつもいつもパンケーキのことばかり考えていた。当時私はある地方銀行に入社して二年目だったのだが、仕事中も頭の中にあるのはほぼパンケーキのことだけだった。ボーナスはすべてパンケーキの材料に消えた。良質な小麦粉。良質なベーキングパウダー。良質なバター・・・。すべてはまだ見ぬ完璧なパンケーキのためだ。
もっとも三食すべてパンケーキを食べていたわけではない。パンケーキを食べるのは基本的に朝だけだ。昼食と夕食にはなんとか我慢して別のものを食べた。牛丼とか、パスタとか、そういったものだ。というのもおいしくパンケーキを食べるためには、味覚をある程度別のものでリセットしなければならないことをよく知っていたからだ。私はパンケーキ中毒ではあったものの、おいしく食べられないパンケーキにはほとんど興味がなかったのだ。
一番の楽しみは休日の昼食だった。その日だけは朝に別のものを食べ、長いウォーキングに出る。途中で公園に寄って懸垂をする。すべてはお昼に食べるパンケーキのためだ・・・。そう思うと坂道を上るのも楽しくなってくる。あえて回り道をして、可能な限りカロリーを消費する。そんな風にしてようやくマンションの部屋に帰ってくると、お楽しみのパンケーキ作りが始まる。
それは正直なところ試行錯誤の連続だった。小麦粉の種類。ベーキングパウダーの割合。ラム酒の垂らし方。卵をいくつ使うか。それにトッピング用のくるみ、アーモンド、カボチャの種はどの国のものを選べばいいのか。アメリカ、ヨーロッパ、あるいは中東がいいのか。オーストラリアも捨てがたい・・・。何通りもの試作品を作っては食べ、また作っては食べた。そして徐々に理想のパンケーキに近いものができ上がっていった。その週末、私は満を持して自らの集大成を作ろうしていた。BGMはマーラーの交響曲第一番、『巨人』だ。レナード・バーンスタインの指揮、ニューヨークフィルの演奏。実際のところ、私はこれ以上にパンケーキ作りに合う曲を知らない。たしかにシベリウスも悪くないが、そうするとでき上がったパンケーキにフィンランドの香りが付与されることになる。それはそれでおいしいのだが、今日私が使おうと思っているメープルシロップはカナダ産のため、(共に北国とはいえ)そこには微妙な齟齬が生じることになる。
私は第一楽章の妖しげなメロディーを聞きながらメレンゲを作った。こうするとでき上がりがふわっと軽くなるのだ。そのあとで高品質な牛乳と混ぜ合わせる。卵黄はすでに溶かしバターとバニラオイルを加えて、なめらかになるまでかき混ぜてある。あとは小麦粉を複数回ふるいにかけ・・・。
そのとき突然電話が鳴る。私はそのつい最近買ったばかりのスマートフォンを憎しみさえ込めて見つめていたと思う。もちろん出ないという選択肢だってあった。なにしろ私は今世界で最も重要な案件に――これは冗談ではない――取りかかっているのだから。
しかし出なければあとでもっと面倒なことになるだろう、ということを私は知っていた。というのもその電話は私が当時付き合っていた女性からのものだったからだ。
「もしもし」と私は言った。
「もしもし」と彼女は言った。「ねえ、今からそっちに行っていい?」
「いや」と私は言った。そしてそのあと何と続けようか一瞬迷った。でも結局正直に話すことにした。「今はちょっと駄目なんだ。ほら、ちょうどパンケーキを作っているところだから」
「パンケーキ」と彼女は言った(ちなみに彼女は私が重度のパンケーキ中毒であることを知っている)。「パンケーキ、パンケーキ。いつもいつもパンケーキ。あなた私とパンケーキどっちが大事なの?」
「そんなの決まってるじゃないか」と言いかけて慌てて口をつぐんだ。なにしろパンケーキの方が大事なのは、私にとっては自明のことだったからだ。
「ねえ、そんなにパンケーキのことが好きなのなら、いっそのことパンケーキと結婚すれば?」
もし本当にそうできるのなら、と私は思った。喜んでそうするだろう、と。
彼女はそこで一度話すのをやめた。あるいは自分の口調が強くなりすぎたことを反省しているのかもしれない。
「それはそれとして、今日は何を入れるの?」
「ラム酒とくるみ」と私は言った。「この間良いものを手に入れたんだ」
「それを私は頂けないわけ?」
「ねえ、これは前にも言ったと思うけど・・・」と私は言いかけた。
「分かってる、分かってる」と彼女は言った。「パンケーキとあなたとの関係はとても個人的なもので、そこに誰か他人が入り込んじゃ駄目だ、っていうんでしょ? もしそこに完璧な関係が生まれたとしても、私が一言『これはあんまりおいしくない』とか言った瞬間に、それは完全に崩れ去ってしまう。ええ、分かりましたよ」
よく分かっているじゃないか、と私は思った(もちろん口には出さなかったが)。
「あのね」と彼女は少し口調を変えて続けた。「ちょっと思ったんだけど、私たち最近全然会ってないじゃない」
「そうだっけ?」と私は言った。そしてなんとか記憶を探った。「この前一緒にイタリアンに行ったのは一週間くらい前じゃなかったっけ?」
「あれは二カ月前です」と彼女は言った。そして溜息をついた。「でもそれだって、私が一人でパスタを食べていたようなものでしょ? あなたは次の日の朝にパンケーキを食べるために、今は炭水化物を取ってはいけないんだ、とか言って、サラダだけモリモリ食べていたじゃない。あなたお店の人たちにコソコソ何か言われていたわよ」
「ええと・・・」と私は言って、そのときの記憶をなんとか引っ張り出した。うん、まあ、そう言われてみればそうだったかもしれない。「いや、もし君が気まずい思いをしたのだったら申しわけなく思う。謝るよ。でも決して僕は君のことを忘れたわけじゃないんだ。ただ今はパンケーキのタームだ、ということなんだ」
「なにそれ」と彼女はひどく冷たい口調で言った。北極点にあるかき氷よりも――もしそんなものがあったとしてだが――冷たい口調だ。「なにその『ターム』っていうのは」
「つまり」と私はなんとか頭を働かせて言った。「今は僕の人生における『パンケーキのためのタームだ』ということなんだ。つまり『期間』ということだね。ほら、いろんな時期があるじゃないか。たとえば落ち込んでいる時期。将来のことを考えて不安になる時期。それを乗り越えて、むしろ元気に前向きになる時期」
「それで今のあなたは『パンケーキを食べたくなる時期』だっていうのね」
「そうなんだよ」と私は言った。「これがずっと一生続くわけじゃないってことは自分でもよく分かってる。あくまで一過性のものなんだ。でも少なくともこのタームが続いている間は、僕は精一杯パンケーキと向き合わなくちゃならない。そう決まっているんだよ。なぜならそうしないとうまく次のタームに進むことができないからだ」
しばらく沈黙があった。自分の説明が彼女にうまく伝わったのかどうか、私にはあまり自信が持てなかった。正直であることはたしかなのだが、それがほかの人間に理解されるかどうかはまた別の問題だ。
「もしもし」と私は不安になって言った。
「聞いているよ」と彼女は安心させるように言った。でもその口調が淡々としたものだったため、私はあまり安心することはできなかった。次に何がやってくるのだろう?
「ねえ、あなたが言っていることは大体分かった。普通の人には理解できないかもしれないけれど、なにしろ私はもう一年もあなたと付き合っているからね。ちょっとくらい変なことには慣れっこになっている」
「うん」ととりあえず私は言った。まだ不安は残ったままだ。
「でもね」と彼女は続けた。「私が知りたいのは、その『パンケーキのターム』が終わったあとに、果たして『私のターム』がやってくるのかどうか、ってことなの? それについての予感はないの?」
もちろんやってくるさ、と言えればよかったのだが、私はそれほど嘘をつくのが得意ではない。そして「正直である」ということが私の人生の数少ない指針のようなものになっている。いくら立場が悪くなったとしても、簡単にそれを破るわけにはいかない。
「本当に正直に言うと」と私は言った。「今はただパンケーキのことしか考えられないんだ。そのあとのことまでは分からない。あるいは前みたいにもっと君と一緒にいたい、と思える時期がやってくるのかもしれない。そういう可能性は十分にある。でもね」
「でも?」と彼女は言った。
「でも、本当に本当を言うと、僕はたぶんこのタームが終わったとき、全然別の人間になっているだろう」
「それはどういう意味?」
「それは・・・」と言って私はなんとか頭を働かせた。「それはつまり、パンケーキを作ることが単なる娯楽ではない、ということなんだ。あるいは君は僕がただ単にパンケーキの味に夢中になっている、と思っているのかもしれない。違う?」
「まあ」と彼女は言った。
「でもそうじゃないんだ」と私は言った。「そうじゃなくて、『パンケーキを作る』という行為全体が僕にとっては意味を持っているんだよ。良質な材料を買ってきて、それを適切に混ぜ合わせる。温度を慎重に調整して、焦げ過ぎないように、しかしきちんと中まで火が通るように焼き上げる。そして重要なのはフライ返しを使って上下をひっくり返す瞬間だ。あの快感といったら・・・。いや、それはそれとしてとにかく言いたいのは、僕にとってはその全部が重要だ、ということなんだよ。ある意味では僕はパンケーキを作りながら自分自身をも作っているということになるんだ」
「自分自身」と彼女は言った。その口調にはまだ淡い疑念の色が存在している。
「そう」と私は言った。「僕は自分自身を作っているんだ。だからこれはある意味では君にも関わってくる問題なんだよ。なぜなら君は、ええと・・・たぶん僕にある程度好意を感じてくれているんだと思う。というかだからこそこうして付き合っているわけだけど、その君の好意に応えるためにも、僕は自分自身を更新し続けていかなくてはならないんだ」
「更新」と彼女は言った。
「そう、更新だ。僕はパンケーキを作りながら、自分自身を作り変えているんだよ。そして今日、これまでずっと頭の中で思い描いていた完璧なものが作れそうな気がするんだ。空は青く晴れ渡っていて、雲一つない。暑過ぎもしないし、寒過ぎもしない。ニューヨークフィルの演奏も完璧だ。レニーの指揮だって素晴らしい。グスタフ・マーラーは自らの狂気を完全に正気に音符に移し替えている」
彼女は何の反応も示さなかったが、きちんと耳を傾けている、ということはなんとなく雰囲気で分かった。私は先を続けた。
「それでだね、今日それを作り終え、一杯のコーヒーと共に食べ終えたときには、僕はきっと別の人間になっているはずなんだ。そういう予感がするんだよ。ついさっき長い散歩を終えて、今は腹ペコだ。そういう状態も好ましい。でもそれだけじゃなくて、僕はある意味で自分自身に餓えているんだ。僕はずっと自分の人生には何かが足りないのだと思っていた。何か非常に重要なものだ。そして今日それが得られるかもしれないんだ。もしそれが得られたとしたら、あるいはなんらかの形で君にフィードバックできるかもしれない」
「だから今日は会えないと」と彼女は言った。
「悪いとは思うけど」と私は言った。
「ねえ」と一度溜息をついたあとで彼女は言った。「あなたの言いたいことは分かった。とてもよく分かった。でもね、これだけは言わせて。私だって一人の生身の人間なのよ。いつまでも自分に構ってくれない男の人を好きでいられる自信はない。たしかに前はあなたのことが好きだったけれど、今は・・・」
でもそこで突然電話が切れた。こちらが切ったのではないし、あちらが切ったのでもない。それは確かだ。あるいはパンケーキの精霊が斧を振り下ろして電波を絶ち切ったのかもしれない。実のところ私はいまだにその説を信じているのだが。
彼女が一体これから私のことをどうするつもりなのかは分からなかったが、いかんせんこちらには別にやることがあった。私は中断してしまった流れを再開し、一つ一つの行程に意識を集中して、理想のパンケーキを作り上げていった。始めこそさっきの会話のことがぼんやりと頭に残ってはいたものの、すぐにそれもどこかに消えてしまった。私は今一個の機械と化していた。完璧なパンケーキを作る機械だ。感情もなければ、余計なことも考えない。ミスは決して犯さない。決められた仕事を淡々とこなしていく・・・。
やがて焼き上がったパンケーキを無心で食べているとき、私は自分が一度死んだことを知った。もちろん実際に死んだわけではないが、私の中のある部分は確実に死んでいた。私はその死んだ部分をパンケーキと一緒に咀嚼し、ブラックコーヒーで胃の中に流し込んだ。それはやがて十二指腸かどこかで吸収されていくのだろう。
それは実のところ、私がこれまで食べた中でもっとも完璧に近いパンケーキだった。自分はまさにこれを求めていたのだ、とさえ思った。しかしあとわずか、ほんのわずかだけ何かが足りない。その事実が私を苦しめた。一体何だったんだろう、と私は思う。ラム酒が一滴だけ多かったのだろうか? それともメレンゲを泡立て過ぎたのだろうか? 一秒だけ焼く時間が長かったのだろうか?
そこに足りなかったのが一滴の愛であったことを知ったのは、すべてを食べ終えたあとのことだった。私は純粋な機械になることにばかり気を取られて、本当においしいパンケーキに必要不可欠なものを失念してしまっていたのだ。なんということだ、と私は思った。こんなにも大事なものを忘れてしまうなんて。
私は急いで彼女に電話をかけようとした。というのも私にとっての愛はそこにしか存在しないように感じられたからだ。しかしどれだけかけても電話はつながらなかった。どうやら彼女は私からの電話には出ないことに心を決めているらしかった。何度も何度も試したあとで、私はようやくあきらめた。私は知らぬ間に涙を流していた。自分の身勝手さに腹が立って仕方がなかった。でも本当に思っていたのは、愛とは一体何なんだろう、ということだった。
私は自分がひどく孤独になったことを知ったが、かといってそれについて誰をも非難することはできなかった。自分自身すら非難することはできなかった。というのもこの結果が避けがたいことであったことを今さらながら身を持って悟ったからである。これで「パンケーキのターム」は終わった、と私は思った。私は今、つい数時間前の自分とは全然別の人間になっていた。一部が死に、一部が生まれ変わった。そしてまた別の一部は死に、生まれ変わらなかった。これからやってくるのは「孤独のターム」だろうと私は思った。そしてそれは、五年経った今でも変わらずに続いているのだ。