八月がやってきました

 さて、ようやく梅雨も明けましたが、みなさまはいかがお過ごしでしょうか。東京は暑いです。(せみ)が鳴き、子どもたちは水遊びをしています。そしてコロナは広がり続けています・・・。

 普段からあまり暑いのは好きではないのですが――まあこれだけ暑ければ当然かもしれませんが――それでも今年の長い梅雨の天気は、知らぬ間に僕の心をも曇らせていたようです。涼しいのはそれはそれで悪くないのですが、やはり夏は暑くないと、なんとなく心がすっきりしません。一体いつ暑くなるかいつ暑くなるか、と、ビクビクしながら待っているのもなんとなく落ち着かないものです。まあ結局一度暑くなってしまえば、心も身体も、なんとなく慣れてきてはしまうのですが。

 最近は地方の文学賞に出す短めの作品(といっても原稿用紙50枚ほどと、115枚のもの)を書いていました。文学賞に出すために書く、というのもなんだか(しゃく)(さわ)るのですが――本来もっと自発的に書きたいと思っているので――それでも文体を鍛えるいい機会だと思って、それぞれなんとか書き上げました。50枚のものはもう何週間か前に出してしまっていて、昨日115枚の方を郵便局に行って出してきました。この4年半もの間似たようなことを何度もやっているわけですが、惜しいところまで行ったものはごくわずかあるものの、ほとんどは選考のかなり初期の段階で落とされてしまいます。そのうち選考委員に対する恨みも湧かなくなってくる。そんなことに期待するよりも、今自分ができることをきちんとやろうじゃないか、と。

 まあとはいいつつも、やはり結果は欲しいものです。物理的に成長し続けること、というのが僕のほとんど唯一のモチベーションになってはいるのですが、そろそろ幸運の兆しが見えたっていいじゃないか、と・・・。危ない危ない。まあそんなことは自分にはどうしようもできないことです。とりあえず地に足を着けて、なんとか日々生き延びていくしかない。

 まあそんなことを言いつつも徐々に歳を取ってきてしまったわけですが――君なんかまだまだ若いよ、という声がどこかから聞こえそうですが――それはそれで悪くないことだったのかもしれないな、と最近は思います。そもそも生活を確立する、というところから始めなくてはならなかった4年前と比べれば、まあ少しは自分のシステムというものができつつあるからです。「優先順位」とでもいえばいいのか。もちろん今この時点での優先順位がずっと同じように続くわけではないことは分かっています。それはきっと微妙に形を変えていくものなのでしょう。それでもそういったシステムがあるのとないのとでは、やはり生活の質に差が出てくるような気がしています。充実感というか。

 じゃあお前は充実しているのか、というと、やはりそこまでは言えないと思う。いつももっと時間があったらな、と考えているし、もっとお金があったらな、もっと自由になれたらな、とも考えている。でもまあ、重要なのはきっと姿なのでしょう。僕が求めていたのはおそらく、どのようにして形にならないものに形を与えるのか、ということだったように感じているからです。音楽でいえばグルーヴ。文章でいえばドライブ。人の精神を前へ前へと押し出していくもの。それを一定の枠組みの内部で捉えること。捉えながらもなお、身体的にそれを実感すること。まあ書くのは簡単ですが、やるのはなかなか難しいことでしょう。

 でもとりあえず、僕が求めている充実感というものは、おそらくそういったものです。お金があればいろんなものを買えるかもしれない。就職すれば安定した生活が手に入るかもしれない。しかし精神の自由というものは、そう簡単に手に入るものではありません。そのための準備というか、テクニックというか・・・要するに自分がそれに見合った強さを持っていなければならないわけです。固定されない強さ。偏見に縛られない強さ。孤独に耐える強さ・・・。そういったものを手に入れるためには、毎日頑張って生きるしかないのでしょう。なんとなくそういう気がします。

 でもそれはいうなれば、僕がずっと考えてきたことでもあります。就職もせず家にいさせてもらった頃から。自分はほかの人間が見ようともしない、を求めているのだ、と。それは今ここで明確に言葉で表すことはできないかもしれないけれど、本当に、切実に、人生にとって重要なことなのだ、と。そのためになんとか出口を塞がずにこれまで頑張ってきました。風の通り道を作っておくこと。それが何よりも重要なのだと自分に言い聞かせてきました。

 そうやって生きながら、僕はなんとかいろんなものを観察し、吸収しようと努めていたのだと思います。具体的な経験。物理的な時間・・・。まあそれが最も僕に不足していたものであるわけです。そしてまあ、その過程はこれからも引き続き同じように続いていくものでしょう。なにしろまだまだひよっこですから。

 いずれにせよ最近、かつてしがみつくようにカール・ユングの本を読んでいた頃のことを思い出します。もちろんそんなことをしたところで何かが解決するわけではない。彼が僕に何かを教えてくれるわけではないのです。僕は自分の責任において(ここが重要)自分の進むべき道を選び取らなければならない。

 それでも過去にそういった、いわば魂の奥底に何かを探し求めた人がいた、と実感できるだけでも、一種の安心感を得られたことを覚えています。彼はたしかにどこかと結び付いていた、と二十歳(はたち)の頃の僕は思っています。そしてこれから先、ずっと努力し続けたなら、自分もまた似たようなところに行けるのではないか、と。そしてそこにこそ、人生を生きるということの、本当の意味が潜んでいるのではないか、と。

 ユングはそれぞれの患者が、自らの固有の人生を生きることを最重要視しました。ドグマを持たず、一種の畏敬の念を持って、彼らの精神と相対したのです。そしてそういった姿勢こそが、おそらくはもっとも正しいものだった。もちろんすべての患者が(ただ)ちに幸福な人生を生きられたわけではないでしょう。むしろそこにはより厳しい現実が待ち受けていたかもしれない。逃げたくなるような真実が待ち受けていたかもしれない。しかしそこにある責任のようなものを積極的に負えるようになって初めて、人は次の段階に進むことができるのではないか。最近つくづくそう思います。

 と、いうことで僕は次の作品を書こうと思います。いや、でももうちょっと休んだ方がいいかな・・・。なんだかその辺の按配はちょっと難しいところです。でもいずれにせよ、最近書くことがちょっとずつ楽しくなってきました。これからもっといろんなことを書けるようになって、もっと楽しくなったらいいのにな・・・と思っています。とにかく、僕は一歩ずつ先に進んでいきたいと思う。外は素晴らしい夕暮れで、(せみ)が鳴いています。梅雨が明けたことで、僕の心もなんだか少しだけ晴れたような気がしています。先のことを考え過ぎず、なんとか今できることをやっていこうじゃないか、と思っています。そうやって成長した先に、より高次の自由が待っているのではないか、と。

 生きることの質は見た目だけでは計れないものであるみたいです。有名になったところで、お金持ちになったところで、すぐに幸福になれるわけではない。もしそこに真の自由がなければ、すべては単なる徒労に終わってしまうでしょう。なにしろ富も名声も、墓の中にまで持っていくことはできないのですから。

 結局のところ、いかに風に近づくのかが大事であるような気がしています。質量を持たない風。そうすれば誰にも捕えられることはありません。そう考えると、人間の意識というものは、すごく不思議なものだよな、という感慨が湧いてくることになります。それは目に見えないものなのに、確実にそこに存在しているのです。そして常に動き続けている。何かを求めながら、あるいは何かから逃げながら。ある場合には何かに執着し、ある場合にはすっと壁を越える。知覚の集積、記憶、夢、責任・・・そして自由意思。

 これからも探求は続きそうです。それでは。

夏なのでとりあえずレバニラ作りました。レバーなんて昔は嫌いだったのに・・・。味覚は変わるものですね。
gen hyung leeによるPixabayからの画像
村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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