七月の雨

 七月も半ばを迎えたというのに、まだ雨が降り続いています。九州ではたくさんの家屋が流されました。もちろんほかの地域でも被害が出ています。雨が少なすぎるのも問題だけれど、多すぎるのもまた問題です。もちろんこんな悠長なことを言っていられるのは、自分がまだ具体的な被害を受けていないから、ではあるのですが(被害を受けられた方々に心からお見舞い申し上げます)。

 さて、コロナウィルスの蔓延はいまだ留まるところを知らず、東京では第二派ともいえる状況が連日続いています。きっともっときちんと検査をしたら、相当な数の感染者が確認されるんだろうな、という気はしていますが。そういう点でいえばトランプ大統領が言うことにもまったく根拠がないというわけでもありませんね(彼はアメリカの感染者が多いのは、世界で一番多く検査をしているせいだ、と主張している)。かといって経済だけを優先させたら、また感染者数が増えていきます。なんだか難しい問題ですが・・・。

 それはそれとして、僕はまあほとんど今まで通り生きています。本当はこの状況から抜け出したいのですが(つまりアルバイト生活のこと)、そう簡単にもいかないみたいで、日々なんとか自分を励ましながら頑張っています。ちょっとランニングと筋トレに時間とエネルギーを使いすぎかもしれない、と思うことはあるけれど、まあその辺は追々(おいおい)調整していきたいと思います。

 考えてみればこの四年と三カ月で、僕は結構変化したと思います。なんというのかな、核にある部分は変わらないのだけれど、その周囲にある筋肉が変わった、というか。姿勢がちょっとずつ変わってきた、というのか・・・。まあ考えていることそのものは大学生くらいから大して変化していません。でもある種の精神的な部位に向き合う準備ができてきた、というのかな。そういう感じは徐々に得られています。

 結局こつこつと仕事をしていくしかないわけですが、おそらく重要なのはその方向性です。一体どこに向かうのか。要するに自分の中心を目指すしかない、ということではあるのですが、その方法は人によって違っています。ここで重要なのが意識的な姿勢です。責任をどういったレベルで負うのか。誰かに分け与えてしまうのか。それとも自分一人で持ちこたえるのか・・・。なんか抽象的な話になってしまいましたが、僕が最近考えているのはそんなことです。おそらく人間にはコントロール可能な部分と、自分でもコントロール不可能な部分があります。そしてその境目は少しずつ移動しているのだと思います。我々がすべきなのは――と少なくとも僕が思うのは――そのコントロール可能な部分を、一体どのような方向に向けて動かすのか、ということです。そこに姿勢が関わってきます。多くの人が地上の物事にプライオリティーを置いています。なぜならそれは目に見えるからです。数字で計れるからです。しかしそれだけだと心は空虚になっていきます。なぜかそうなっているのです。僕はひしひしとそれを感じてきました。だからこそ地下の部分に、意識を向ける必要があります。少なくとも一日のうちの何パーセントかの時間は。

 小説というのは当然一つの手段であるわけですが、その特質は簡単に定義できない、というところにあります。つまり動き続けているのです。大事なのはきっとダイナミズムそのものなのでしょう。だからこそ喩え話、という形態がこれだけ長い間人類の中で受け継がれてきたのだと思います。そこには「経験」があるからです。単なる頭だけの「理解」ではない。

 文体が重要になってくるのは、おそらくその意味においてです。優れた作家は固有の文体を持っています。それは彼ら自身の個性と密接に関わっています。要するに人工的に作りだすことのできないものです。ゴッホのタッチや、ピカソのタッチとも似ています。それは世界の切り取り方そのものなのです。我々はそういった自分とはちょっと異なった視点から世界を眺め、そしてまた戻ってきます。もしそれがポジティブな経験なら、何かを得られるかもしれない。それはおそらく形のあるものではないかもしれないけれど、形のない分応用可能なものです。心を温めてくれるものです。

 要するに、これだけ音楽にせよ、小説にせよ、「動くもの」に心を惹かれる、ということは、基本的に人の心が固定されていない、というところに起因するのではないか、と思います。肉体は一つの固定された物体としてそこにあるように思える(もちろんミクロのレベルで見れば新陳代謝が常に行われているわけですが)。しかし意識はそうではない。というかたぶんそうではないだろうと僕は思います。我々は実はスライムみたいなものなのではないか、と。

 僕らはそういった心の中の動きを、ときどき何かに託すことによって、相対化したいと思うのではないか。なんとなくそういう気がします。つまり僕らは普段固い枠組みの中に自分たちを押しこめて生きているわけです。そうしないと健全な社会生活を送ることができないからです。そしてそれ自体は決して間違ったことではないと思う。毎日身なりを整えて、仕事に行って、帰ってくる。誰かと会話をする。買い物をする。バスに乗る。電車に乗る・・・。それは生きるために必要なことです。でもときどき目的の部分が不明確になってしまうことがある。というかそうではないかと僕は思う。あまりにも真面目になり過ぎると、往々にして動きを失うことになります。どれだけお金を得て、安定した生活を手に入れたとしても、それが精神的な充実感につながるとは、必ずしも言えないわけです。

 小説や音楽はその突破口になるものだと僕は信じています(もちろん絵だって、映画だっていいわけだけれど)。結局のところ重要なのは最終的な形ではなく、その奥にあるもの、ということになるのかもしれません。だからこそ姿勢というのが大切になってくるのかもしれない。僕はこれまで自分に十分な自信を持つことができなかった。年齢的なこともあるのかもしれないし、生まれつきの部分もあるのかもしれない。あるいは甘えて生きてきたことのつけがやって来ただけだったのかもしれない。しかしそうやって常に周囲をキョロキョロと見回している状態では、何一つ意味のあることはできまい、と悟ったのです。というかまあ、日々悟りつつあるわけです。そしてその「悟り」を、今度は具体的な行動に結びつけていかなくてはなりません。僕に関しては、おそらくそれは書くことでしょう。

 注意深く周囲を見回せば、なんとなくそういった部分が見えるようになってきます。一見ごく普通に生きている人々の中にも必ず奇妙なところがあります。そしてその部分は発展することを求めているように思える。でもほとんどの人はそんな部分には目を向けません。なぜならそんなことをしたって、(基本的には)一銭にもならないからです。

 まさにその部分にこそ物語が潜んでいるのではないか、と最近思いつつあります。つまり勝手ながら、僕は人々のそういう部分を収集して、自らの物語を語ることを仕事にできるのではないか、と。結局のところ、そういったことをずっとやりたかったのではないか、と。

 僕は別に社会的正義感がある人間でもないし、みんなのために何かをしようと思ってきたわけでもありません。ただ自分の内部に集中することによって、結果的に誰かとつながることができるかもしれない、と思うことはあります。それは、その行為が必要とされているとときどき強く感じるからです。自分の書くものが普遍的な共感を得るのはもっと先のことかもしれない。でも辛抱強く頑張っていればいつかその領域に達することができるかもしれない、と信じてやっています。これからもまあ、とりあえず頑張っていきます。はい。

 話は変わりますが、この前シンガーソングライターのジョン・プライン(John Prine)が亡くなりました。73歳だったそうです。コロナウィルスによる合併症が原因だったとか。彼の歌のdistinctive(特徴的)なところは、シンプルで、素朴で、人の共感を誘うような物語性を持った歌詞にあります。鎮痛剤の中毒になってしまったベトナム帰還兵とか、停滞期を迎えた夫婦生活に嫌気が差している中年の女性とか、そういった人々が登場します。あとは孤独に暮らしている老人もいたな・・・。彼は若い頃に郵便配達をやっていて、あくまで最初は趣味で音楽をやっていたそうです。配達をしながら頭の中で曲を作っていたとか。だからこそごく普通の人々の喜びや悲しみなんかが理解できたのだろうな、と勝手に想像しております。だとすると今の僕の経験もきっとあながち無駄というわけでもないのだろう・・・。

 それはそれとして、彼の歌には、あるいはギターには、自分を格好良く見せてやろうというような意図はほとんど感じられません。というかまあ、少なくとも僕には感じられない。もともとカントリー、フォークというジャンルの音楽が、もっと激しいロックなんかと比べると穏やかだ、ということもあるのかもしれないけれど、そこには明らかに彼の人柄がにじみ出ているような気がします。他人に感心されようとしたり、技術を見せびらかす必要はないんだ、と言っているような気さえします。そしてその個人的な哲学のようなものが、しっかりと生身の歌声を通してこちらに伝わってくるのです。その芯のある姿勢のようなものを感じたときに僕らは、やり方によっては自分も同じような姿勢を取ることができるのかもしれない、と感じることになります。そしてそれはとてもポジティブな経験です。頭だけで理解するのとは違う、本物の経験です。そういったものの集積が、個人として生きることの、一種の土台になっていくのではないか、と最近つくづく感じています。それでは。

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です