この間の日曜日に、謎の訪問者(不動産関連の営業らしき人)が来て、しつこく居座って、結局警察を呼んで帰ってもらった件について

 つい二日前の日曜日(2021年11月28日)に、ある不思議な体験をしました。まあ「不思議」というよりは「不快」に近いのですが、とにかく、謎のセールスマンらしき人物が我が部屋に乗り込んできたのです。

 (こと)の始まりはその日の午後8時くらいのことでした。僕はルーティーンに従って、ベンチプレス(正確にはダンベルベンチプレス。胸に利く)をやっていたところでした。一回目のセット(10レップ上げます)を終え、そのレスト(休息)を利用して、サラダを準備していました。フードプロセッサーで、大根の千切り(大量)と、キャベツの千切り(大量)を準備するのです。レモンとショウガとオリーブオイルと、ワインビネガーのドレッシングも用意し終わっていました(胡椒(こしょう)は振るが、塩はあとで加える。野菜から水分が出過ぎてしまうから、食べる直前に直接振りかけます)。まあとにかく、そういった状況下において、突然ドアチャイムがピンポンと鳴ったのであります。

 この時間に人が来るのは珍しいことです。宅急便が来るというメールもない(ヤマト運輸の場合だけですが。それ以外の場合はメールは届かない)。考えてみればそんな時間にやって来るのなんて何かの営業に違いないのです。だから僕は最初から警戒しておくべきだった。しかしあとから冷静になって考えてみるのはまあ簡単なことです。ちなみに僕の部屋にはインターフォンはあるけれど、そこにカメラは付いていません(家賃が安いから当然か・・・)。それで、本当はドアに付いた小さなレンズ越しに誰が来ているのか確認するべきだったのですが・・・面倒臭くてそれもしませんでした。まあ男だし(つまり自分は、ということですが)、営業だったら断ればいい(これまでにもインターネット関係の営業が結構来ました。宗教の勧誘も来ました。でも全部断ったら帰っていきました。まあ普通のことか・・・)。とにかく、そういった事情があって、意外にも油断していたのかもしれません。僕としては早くノルマの筋トレと料理(と食事)を終えて、自分の文章に取り掛かりたかった。そこに混じりけのない空白の時間を確保したかった。本当にそれ以外望んでいることなどなかったのです。

 ドアを開けると、三十歳くらい(たぶん僕と同い年くらい)の、灰色のスーツを着た(たぶんネクタイもちゃんと締めていたと思う。少なくとも見た目だけはこざっぱりしていた)、身長180センチにちょっと届かないくらいの(たしか、だけど・・・)、ニコニコとした男が立っていました。ああ、すぐに営業だな、と分かりました。僕はすぐにそれで断って、ドアを閉めようとしました。すいません、と言って・・・。

 でも男が「以前こちらの部屋に〈本日この時刻にお伺いする〉という(むね)の文書を入れておいたのですが、ご覧になりましたか?」と訊いてきました(ちなみに言葉は正確に全部覚えているわけではない。大体こんな意味だったというところである。正直腹が立って、あまり思い出したくない、ということもある・・・)。

「いや、見ていませんが」と僕は言いました。「どんなものですか?」

「どんなものって、ほら、両面()りの、これくらいの(と言って手で示す)紙ですよ」

「いや、見ていませんね」

「変だな」

「あの、インターネットとかの営業だったら必要ないんで」

「まさか」と大げさに驚いた顔をする。ニヤニヤと笑っている。「きっと何かの営業だと勘違いされていらっしゃるんですね?」

「じゃあ何なんですか?」

「不動産屋です」。彼はそのあと何かを続けて言ったような気がする。たとえばこの建物の各部屋を回らせてもらっている、みたいな・・・。正確な言葉は忘れたけど、まるで――つまりこのマンションの居住者全員が――聞かなければならない話がある、というような口調だった。僕もちゃんと確認すればよかったのに(そういえば男は最初に「PRCのなんとかです」と言ったような気がする。たぶん意図的に早口ではぐらかしていたのだと思う。要するに「PRC」が会社名である。たしか、だけど・・・)、勝手に頭の中で、じゃあそういう訪問を全部の部屋に(おこな)っているのかな、と想像してしまったのだ。それで相手としては第一関門突破である。カモだな、とでも思っていたのかもしれない。なにしろ僕には――まあ自分でも認めるけれど――さほど覇気みたいなものはないしね。

 いずれにせよ、本当はドアを開けて、玄関に彼を入れたりしてはいけなかったのだ。でもそれもあとになってから思ったことで、その日曜日のリラックス――まあ筋トレはしていたけど――した夜においては、僕は油断してしまったのだと思う。そのときは玄関のドアを半開きにして話をしていたのだけれど、男が「ここは共用部分ですから、ほら、声が響いちゃうと大家さんに怒られちゃうから」と言って、しきりに中に入ろうとする。僕は警戒しながらも、もしかしたら本当に営業とかじゃなくて、全戸(ぜんこ)が聞かなくちゃならないこのマンションの管理に関する話があるのかもしれない、と思い込んでしまった。それで--実は最初「営業かもしれない」と思ったときに、バタンと一度ドアを閉めたのだけれど、そのあとでまた--ノックされて、「コンコン(これも演技めいているように聞こえる。あとから思えば・・・)。あの、何か勘違いされていませんか? 私は営業の人間ではありませんよ」みたいなことを言われたときに、中に入れてしまったのだ。

 まずかったことに、なぜかそのときちょうど廊下の奥の方から別の部屋の住人(若い女性である)が出てきて、後ろを通り(ぎわ)に「こんばんは」とその男に挨拶をしていった。男もにっこりとして「こんばんは」と言った。たぶん全然他意はなかったと思うのだけれど、なぜだかそれで、僕は勝手に「この男とほかの部屋の住人は顔馴染みなのかもしれない」と思い込んでしまったのだ(勝手な想像)。とにかくいろんな情報を曖昧あいまいにして、都合の良いように想像させる。それが奴らの手口である(そして僕はまんまとそれにはまった。まあ最初の段階は、ということだけれど)。

 それで、奴は第一関門を突破して、僕の玄関の中に入ってきた(ドアは当然閉められた。「声が響かないように」というのがその理由だ)。

「それで、ご用件は何なんですか?」と僕はたしか聞いたと思う(なにしろ疲れ切ってしまって、記憶があやふやになってしまっているのだ。でも大体合っていると思う)。

「あ、まだ営業だと思っていらっしゃるんですね。参ったな。どうも日中はお仕事でいらっしゃらないみたいだから、この時間に(わざわざ)訪問したんですが」(注:カッコ内は表情で表現されている。雄弁な顔である)

〈ここで補足だけれど、インターネットで「不動産」「訪問」「しつこい」のようなワードで検索したら、おそらくまったく同じ業者であろう、という体験談がたくさん載っていた。最近――つい一カ月ほど前――のものもあった。どれも一緒で、最初は名前や会社名を早口でごまかし、以前入れたはずの文書を読んだか、と訊いてくる(そんなもの入れてない場合もあるらしい。僕の場合ろくに読まずに捨てたかもしれないけれど・・・。でも別にそいつらの話を聞かなくちゃならない義務はこちらにはまったくない。ない。それは断言できる)。そしてまず玄関に入り込み、本来の目的を説明しないまま、居住者にいろいろな質問を浴びせる。そして持ってきた白い紙を使って、謎の不動産関連の図を描き始めるのだそうである。年収を訊かれたり、源泉徴収票を持ってこいと言われたりもするらしい。そしてひどい場合にはその男の「上司」とやらもやって来て、二人一緒にいろいろと情報を訊き出す。どうやら最終的な目的は、不動産投資の話に持っていくことみたいだ。お金がなくても、借金をさせれば利益にはなるのかもしれない。被害に遭った人が救われればいいのだけれど・・・〉

 じゃあもしかしたら、本当に営業じゃなくて、このマンションの管理に関して必要な説明なのかもしれないな、と僕はちらっと頭の中で思ってしまう。でも冷静に考えれば、そんなものは電話だって済むし、こんな風に名前や会社名を曖昧にしてやることでもあるまい。男は意図的に自分の目的を隠し、僕にいろいろと想像させているみたいだった。僕はその手にまんまとひっかかって、この「不動産」関連の男が、このマンションの管理を委託された業者だと思い込んでしまったのだ。でもそのあたりで、何かがおかしいぞ、と頭の中で僕の正直な部分が言う。

「それで、できればご用件を手短(てみじか)に説明してもらいたいのですが」

「あ!」と言ってものすごく傷ついた表情を浮かべる。役者なのだ(その演技はものすごくイライラする。見ていて)。「やっぱりまだ営業だと思っているんですね。こちらとしてもですね、(あなたが日中にいなかったせいで、わざわざ)こんな時間にやって来て、そういった敵対的な態度を取られると・・・説明するものも説明できなくなってしまうじゃないですか? そうでしょう?」

〈ここでまた補足。この男はたぶん徹底的に教育されていて、ある種のマニュアルのようなものを叩き込まれているのだと思う。僕は勝手にそれを想像する。でもなにしろ底の浅いペラッペラの言葉をしゃべる男なので、その内容は透けて見える。その第一関門はまず、自分の出自を曖昧にしながら、ドアを開けさせること。そしてその中に入ること。玄関に入ったら、何があっても次の約束を取り付けるまで出ないこと。堂々と立って、威圧感を与えること。あくまで自分が「通常人」なのであって、罪悪感を抱かせること。こういったことが記載されていたのではないかと思う。、というのがキーワードだ。自分たちは営業なんかではなく、仕事で仕方なく日曜日のこんな時間に足を運んできたのだ、と相手に――カモに――思わせること。そのためにはできるだけ丁寧な口調で、穏やかに話すこと。相手が突っかかってきたらもうこっちのものだ。その言葉を拾い上げて、いちいち()げ足を取ればいい・・・〉

「それで・・・本当によく分からないんですが、ご用件は何なんですか?」と僕。さすがにこの時点ではきっと何かの営業なんだな、と気付き始めている。そして玄関に入れてしまったことを心底後悔している。怖さよりは面倒臭さの方が(まさ)っている。なにしろ自分一人の(貴重な)時間を奪われているのだから。しかし、にもかかわらず、相手は悪いような態度を取ってくる。密室で、相手が悪い、というムードを作り上げること。これもきっとマニュアルに書いてあるのだろう。

「え? あなたはどうしてそんなファイティングポーズを取られるんですか?〈僕の心の声:「ファイティングポーズ」って一体何だよ・・・本当に・・・〉 ところで本当にここの居住者なんですよね? 違うんですか? (どうも挙動不審なようですが)」(注:カッコ内は表情でそういったニュアンスが伝えられる。「動揺させること」というのもマニュアルに書いてあるのかもしれない)

「そうですよ」とたしか僕は言ったのだと思う。この時点ですでにこの男にもうこれ以上関わりたくない、という思いが生まれてきている。格好こそは綺麗だけれど――短髪で、見た目だけでいえばまあ、良い若者である――ペラッペラの言葉しかしゃべれない。その真の目的が何なのか分からないけれど(きっと何か契約させたいのだろうけど、そうはいかないぞ・・・)、とにかく早く帰ってもらいたい。

 でもそれもきっと奴らの罠だったのだろう。「イライラさせること」というのもマニュアルに書いてあったはずだ。そしてできれば口論に持っていき、自分のフィールドである営業トークを披露ひろうすること。時間を可能な限りかける、というのもマニュアルにあったのかもしれない。とにかく粘って、相手が根負けするのを待つ。もうなんでもいいから帰ってもらいたいと思わせる。こいつの話さえ聞けば、もう解放されるんだ、という精神状態に持っていくこと。でもそうはさせたくない。

「じゃあなんでそんな敵対的な態度を・・・。あ! 分かった。きっと前に営業で嫌な思いをされたんですね。私はそんな目的で来たわけじゃないのに・・・」

「じゃあ何なんですか?」と僕は言う。「できれば、手短てみじかに、目的をおっしゃって頂けませんか?」

 、という顔をして男は言う(まるで僕が話の通じないモンスターのような様子である。あくまで自分は通常人で、おかしい、という空気をつくること。マニュアルに載っているはずだ。しかも密室でそれを(おこな)う。そこがポイント。ちなみにインターネットで見ると、大体一人暮らしの独身の若い男性がターゲットになっている。女性だとオートロックのマンションとかに住んでいるし、そもそも警戒され過ぎるのかもしれない。しかし男なら警戒心も薄いし、部屋の中に入り込める。それにカモはできるだけ大人しそうな男がいい。そこで営業トークを駆使して、とにかく居座れるだけ居座る。相手を消耗させる。もしかしたら自分がおかしいのかな、と思わせる。そしてたぶんまずは次の訪問の約束へと持っていくのだ。約束さえ取り付ければ、それは法律上は「正式な理由のある訪問」ということになる。そのあとでまた営業トークを繰り出し、たぶん投資用マンションの話とかに持っていくのではないだろうか? あるいは個人情報を訊き出して売るのだろうか? その辺は定かではないけれど・・・)。

「だからさっきからその説明をしようとしていたじゃありませんか? それなのにあなたがそういう態度を取られるから・・・。これじゃあお話もできないでしょう? そうじゃありませんか?」

 無言(このあたりで僕はもうしゃべるのが嫌になってくる。こいつのように言葉を無駄遣いしている姿勢が許せなかったのだ。まあペラペラとよくしゃべるのである。今書いているのは思い出せる限りの言葉だけれど、実際にはもっといろいろとしゃべっていた)。

「その来訪の目的を説明するためにですね・・・この玄関の前のスペースに紙を広げて説明させて頂きたいのですが? ねえ、いいでしょう?」

 無言。

 僕はすでに悟っていたのだが、こいつはいつまでも居座るつもりなのだ。さっきちらっと浮かんだ、この男は本当にこの建物の管理を委託されている業者なのかもしれない、という思いは徐々に消えていっていた。だってもしそうだったらこんな風に目的を曖昧にするわけがないからだ。まったく。

「それで、お名前はなんとおっしゃいましたっけね?」と僕は言った。

「え!」と言って、また心外だ、という顔をする。あくまで彼の中では、僕はむやみやたらと警戒しているモンスターであり、自分は正常な世界からやって来た、仕方なくこんな時間に訪問してくる羽目になった、可哀想な「不動産」関連の会社の社員である。そういう空気をひしひしと(かも)し出してくる。「そんな風に訊かれると、こちらとしても答え(づら)いじゃないですか? そんな明らかに警戒した様子じゃ」

 でも男は一応名を名乗った。本名かどうかは分からないけれど・・・。そのとき会社名も聞いたけれど、たしか「PRC」と言っていたような気がする。「株式会社」もなし。もしかしたらアルファベットの並びは違っていたかもしれない(「RPC」とか)。そういえばあとから考えれば、だけれど、やはり会社名を言うときには奇妙に早口だった。やっぱり後ろめたいところがあったのだろう。

「じゃあ名刺か何か置いていってもらえませんか」

「名刺は置くものじゃなくて渡すものです(ニヤニヤ)」

 はあ、と僕は溜息をついた(ような気がする)。もはやこいつに何を言っても無駄なのだ。とにかくもう関わりたくない、という思いがつのってくる。でもやはりまだ頭のどこかに、こいつは本当に営業ではなくて、何かの説明をするために、全部の部屋を回らされているのかもしれない、という思いが残っていたのだと思う(それが奴の思うつぼだったのだが)。僕はまあ、人が良いのか、信じやすいのか、まったく。自分でもあとでそれが嫌になったのだけれど・・・。

「じゃあチラシとか置いていってください」

「チラシはありません」とたしか奴は言ったような気がする。もしかしたら違ったかもしれない。でもいずれにせよチラシは置いていかなかった。ただ紙ばさみと、そこに挟まれた白い紙があっただけ。「だからその辺の説明をするために、紙にちょっと図を書きたいんですがね」

「何の話なんですか?」

「だから不動産です」

「不動産?」

「今の時代不動産と言ったら、買うか借りるしかないじゃないですか?」

 どうやらそれが彼の決まり文句のようだった。買うか借りるしかない。まあその通りだろう。でも意味が分からない。意味が分からないけれど、特に知りたいとも思わない。ここから先の説明を許したら、きっと夜通し語られるに違いない。そして根負けするところを狙って、何か投資の話とか始めるのだろう。それは目に見えていた。

 僕はその時点でだんまりを決め込んだ。とことん自分に正直になろう、というのが僕の決めたことだった。こういったタイプのマニュアル人間には、何を言ったところで無駄なのだ。すべて答えが明確に決められている。論理性に頼っていては勝てない。目的が何か、と訊けば「それを説明させてほしい」と来る。帰ってくれ、と言えば心外だという顔をして、あなたは勘違いしている、と言う(何が勘違いなんだか。まったく・・・、とあとになってから思う)。自分はただ「説明」しに来ただけであって、営業なんかではない、と繰り返す。じゃあ目的は何か、と訊けばそれを説明させてほしい、と言う。あとでインターネットで見たけど、警察を呼ぶ、と言うと、民事不介入だから警察なんか来ない、と答えるらしい。忙しい、と言えば、「じゃあいつならいいんですか」と訊いてくるのは目に見えていた。そういえば「僕はお金がないから無駄ですよ」と言った気がするけど、そのときにはまたニヤニヤ笑って、「まさか、私がここで何か、不動産なんかの契約をすると思っているんですか? (そんな馬鹿げたことがあるわけないじゃないですか?) こんな玄関先で、そんな契約なんかしませんよ」と言われた。どうもこれにも裏があって、大体一回目はなんとか次の約束を取り付けるところまでがノルマみたいだ。そのあとで「上司」なる人物と一緒に訪問する。約束しなくてよかった。本当に・・・。

 それで、まあ、僕は自分に正直になろうと決意した結果、何もしゃべらない、という結論に達した。僕が怒っていたのはその男そのものではなくて、むしろ彼が採用している個人的なルールのようなものだった。彼は生きている人間というよりはむしろ、ただの「マニュアル」だったのだ。そして言葉がペラペラだときている。まあ実によくしゃべる。しかし彼の正直な真心のこもった言葉ではないことは明らかだ。一見「仕方なく仕事でここを回っているだけだ」みたいな振りをしているけれど、もしそうだったらもう少し言葉に正直さが(にじ)み出てくるだろう。そしてもっと謙虚なはずだ。当然のことながら。

 彼は言葉の功利性を利用して、僕を罠に(おとしい)れようとしていた。それはよく分かった。しかし、この状況で何を言っても無駄だろう。なにしろ全部揚げ足を取られるからだ。それなら何も言わなければいい。こんな奴いないということにしよう・・・。

 それでたぶん十分くらい黙って、目をつぶって、下を向いていた。玄関先だったけれど、その男はずっと突っ立っている。「ねえ、どうしたんですか?」とか言っている。「こちらとしても早く仕事を終わらせたいのに、そうやって黙ってしまっては説明ができないじゃありませんか」と。

 だからその説明が聞きたくないんだよ、と僕は思っている。ここは僕の部屋で、今は僕の時間だ。あなたに奪われる筋合いはない。僕はそういう信念があったからよかったけれど――そして帰ってくれと言っているのに帰らないと刑法130条の「不退去罪」に当たることも知っていたのだけれど――これがもしもっと気の弱い男の人だったら、まるで自分が悪いみたいに感じてしまうんじゃないだろうか、と思った。密室で、ほかに仲間はいない。相手は自分は営業ではないと言っている。まるでさも当然のことであるかのごとく、ここで「説明」をさせてほしい、と言っている。まあそれくらいなら許してやってもいいか。この人もきっと仕事で仕方なくやっているんだしな・・・。とか。

 でも僕はその「説明」をさせなかった。そうしたら絶対に長々としゃべり続け、聞きたくもない話を――ペラッペラの話を――延々と聞かされることになるのは目に見えていたからだ。それには仙台にいた頃に来た「フレッツ光」関連の営業のペラペラトークが役に立った。彼らは我々が聞いているかどうかなんて関係なく、持論を次々に展開していく。心の動き、といったものにはまったく興味はない。とにかく契約を取ること。法律的にグレーゾーンでも構わないから、何がなんでも契約を取ること。それが駄目なら次の訪問の約束を取り付けること。それができなかったら帰って来るな(ときっとマニュアルに書いてあるのだろう・・・)。まあとにかく、そういった「たぶん本人はそれほど悪人ではないのだけれど、やっていることは限りなくグレーゾーン」という人間の存在を知っていたから、今回も対処できたのだと思う。こういう時に役に立つのはやはり論理ではなく本能である。というかまあ、今回のケースはそんな偉そうなことを言うほどのものでもないのだけれど(だって明らかに怪しかったから)、まあとにかく。

 僕が言いたかったのは、決して相手の土俵に乗ってはいけない、ということ。計算してもいけない。鹿。これしかないんじゃないかと思う。相手は百戦錬磨の――あるいはマニュアルで完全に論理武装した――ほとんど倫理りんりのかけらもないスムーストーカー(smooth-talker)である。言葉で勝負したらまず勝ち目はない。僕はそういった言葉の安易な利用になによりも腹が立つのだけれど(正確に言えばその男個人に腹が立った、というよりは、そのシステムに腹が立ったのである。男が採用している、閉じられたシステムだ。ほとんどカルト宗教に近いものが、そこにはある。契約を取ること。そのためには手段を選ばない。法律的にはグレーゾーンをするすると通り抜けていく・・・。でも倫理的には完全にアウトだ。正直な言葉を語っていない時点でアウトなのである。もしそういった言葉を感じ取ったなら――まあ日常生活でもいつも感じ取ってはいるのだけれど――できれば耳をシャットアウトした方がいい。そんな奴の言うことは聞かない方がいい。なぜならプライオリティーがものすごく卑しいところに置かれているのだから)。

 僕は思うのだけれど、善と悪という二元論では、こういった詐欺師(限りなくグレーゾーンに近い詐欺師)に打ち勝つことはできない。なぜならたしかに彼らもまた生身の人間で、感情を持っているからである。そしてまるで自分は善人で、思って行動している、という振りをしている。でももちろんそれは罠である。彼らはあなたのことなんか思ってはいない。金、契約、まあそんなことしか頭にないのだろう。しかしまあ、僕が言いたいのは、本当に悪なるものは、彼らが採用しているなのだ、ということである。魂の自由よりも、心の自発性よりも、数字を優先する。そういった姿勢なのだ。そしてそれに言葉を従属させる。もちろん行動もまた。その結果非常に卑しい、見え透いたペラペラトークを繰り広げる、一種の珍妙な役者が、生まれることになる。

 ただ僕が実のところ本当に恐れているのは、こういった男そのものではなくて、自分の中にもまた、そういったシステムが存在している、ということなのかもしれない、と思わないこともない。たしかに僕の中にも悪はあるし、彼の中にも善なるものはあったのだ。いや、きっと今でもあるだろう。僕はむしろ進んでそれを認める。人間というものはそんなに簡単に悪と善に分けられるわけではない。昔だったらそう考えたかもしれないけれど、三十を過ぎるとそうも思えなくなってくる。一人一人の人間の中に様々な要素が組み込まれている。そしてそのそれぞれが、常に覇権を争って、動き回っているのだ。僕はその男を見ながら、そんなことを考えていたような気がする・・・。

 それで、話の続きだ。彼は僕が十分ほども黙っていたせいで、さすがにちょっと当惑したみたいだった。口論に持っていくのならマニュアル通りだけれど、黙り込まれるのは(しかも目の前で、目をつぶって)、予想外だったのかもしれない。その間も何かしゃべっていたけど、僕はほとんど聞いていなかった。本当に中身というものがないのだ。そしてどうしようかな、と考えていた。できればこいつにもう関わりたくないけど・・・じゃあどうしたらいいだろう?

 そういえばそのあたりで男の携帯がピロンと鳴った。メールか何かの受信を知らせる音みたいだった。「ちょっとこんな時間ですからね、失礼しますよ」と言っていた。あくまで悪いのは時間を引き延ばしているこっちであり、わざわざ日曜の夜にやって来た自分には非はない、という格好だ。まさか電話し始めるんじゃないだろうな、と思ったけど、さすがにそこでは電話はしなかった。でもあとで見た別の人の事例では、「上司」なる人物が応援に駆けつけて、「うちの若いのがどうもまずい対応をしたみたいで・・・」とかなんとか言って、さらにスムーストークが続くこともあったみたいだから(24時まで粘られた人もいたそうだ。24時! ほとんど犯罪じゃないか!)、もしかしたら応援を要請していたのかもしれない。それとも本当に別の――くだらない――用事があったのかもしれない。まあそんなことそのときには知る(よし)もなかったのだが・・・。

「あの、こっちだって仕事だから本当は早く終わらせて帰りたいんですよ」と男が言っていた。「あなただってこんな風に時間を無駄に過ごしたくはないでしょう?」

 無言(しゃべるものか、と僕は思っている)。でもそこで男は一つ間違いを犯した。自分のやっている仕事が、早く終わらせたいつまらないものであることを、自分から告白したのだ。だとしたらなおさらこっちに聞く必要なんかないじゃないか? 

 結局重要なのは、お金でもなく、(本質的には)時間でもなく、僕が僕の意思によって行動する自由、のようなものである。そんなもの論理的でもないし、うまく説明もできないかもしれないけれど、僕はそう信じて生きてきた。だから今さらこんな男に何を言われたってどうだっていいのだ。

 ということで、僕は意を決して――というか本当はこの男の演技にこれ以上付き合っていられなくなって――「すいません、すいません」となぜか謝りながら(本当は謝る必要なんかないのだけれど、僕もきっとかなり動揺していたのだと思う。かなり疲れてきていた、ということもあった)、相手の目を見た。

「そんなに謝ってばかりいたってどうしようもないでしょう? あなた何かあったんですか?」(あくまで自分は正常人で、その説明を聞こうとしない僕がモンスターという姿勢である。まったく・・・)。「だからね、私はただ説明をさせて頂きたいだけなんですよ。このスペースを使って。ね? それくらいいいでしょう? すぐに終わりますから?」

 すぐに終わる? と僕は思う。? すぐに終わるからやらせろってか? そんなの論理にもなっていない。どうしてこちらが一方的に犠牲を払わなくちゃならないんだ? 若く見えるからって舐められては困る(と言いながらも内心は結構ドキドキしている)。

「ねえ、すいませんけど、今日は帰ってください」と僕は言う。まずそう言わないことには始まらないことを知っていたのだ。その前にも「帰ってください」とは言っていたはずだけれど、男はなにやらごにょごにょとスムーストークを連発して(ニヤニヤ笑いながら、そして例の「心外だ!」という表情を浮かべながら)、その僕の要求を曖昧に受け流してしまったのだ。でもとにかくまず居住者たる自分が「帰ってほしい」と意思表示をすることが重要だと知っていたら、そのようにした。本当はそんな男一生無視していたかったのだけれど、このままでは筋トレの続きもできないし、サラダも食べられない。小説の書き直しもできない。まったく。どうして俺がこんな目に・・・。

「〈今日は〉ってどういうことですか?」と食いついたようにそいつが言う。おそらくは「今日じゃなければいつならいいんですか?」というマニュアル通りの返事をするはずだったのだろう。でもそこで帰らないのを見て取って、居住者たる僕は玄関を離れて――それまでは二人で奇妙にもずっとそこに立っていたのだった。本当は僕は自由にしていていいはずなのに、まるで場を支配しているかのように。まあ怖かった、というよりは何か盗まれるのが嫌だった、というのもあるのだけれど・・・――短い廊下を進んで、そこにまたあるドアの先に進んで、ベッドの上に置いてあったスマホを取りに行った。男はどうやら焦ったらしく、靴を脱いでその先に上がろうというジェスチャーを見せた(あるいはジェスチャーではなくて、本当に上がろうという気だったのかもしれない。その辺は分からない。でももし上がったとしたら、完全に「住居侵入罪」である。僕だって法学部卒なのだ。勉強はさっぱりしなかったけれど・・・)。「上がらせてもらいますよ」と男は言った。でもそのジェスチャーが僕の決意を決定づけた。これはアウトだ、と僕は思う。警察に連絡しよう。

 そういえば言い忘れていたけれど、「今日は帰ってください」と言いながら、僕は男の脇に足を一歩踏み出して、玄関のドアを開けたのだった。ちょっと想像してみてください。自分は(つまりセールスマンとしての自分は)他人の家の玄関に立っている。玄関は狭いが、まあスペースはある。そこに主人の方が進み出てきて、腕を伸ばし、ドアノブを回して、外側に向けて開こうとする。もしそうだったとしたら、普通の人間は身を脇に寄せますよね? そして大人(おとな)しく出ていく。しかし彼はそうではなかった(それもきっとマニュアルに書いてあったのだろう)。彼は身体をぶつけてきたのです! そしてわざとよろけるような振りをした。「あ! 危ない! そんな乱暴な!」と言いながら。あくまで彼の中では――その狭いファンタジーの中では――彼は正当な訪問者であり、僕の方が怒り狂ったモンスターというわけです。そういう役割を決めておいて、わざと僕の腕にぶつかりにきたのです。そしてあたかもこれは「暴行罪だ」とでも言わんばかりの顔をする。まったく。どんな役者なんだか。そもそもあれくらいの衝撃でよろけていたら震度一の地震が来るたびに死んでいますよ。それは断言できる。そのわざとらしい顔といったら・・・。とにかく僕が腹が立ったのは、自分が望んでもいないのに、こんな演技に付き合わされている、ということです。家に入れたのが悪かったのだけれど――そもそもそいつの目的が何なのかその時点でも分かっていない。まったく。ポストモダンだ・・・――するするとスムーストークを連発されているうちに、我が物顔でそこに居座ってしまったのだ。そしてまるでこちらが悪者であるかのような振りをしている。本当にこんなことがあるのだろうか? でも本当にあったのです。いやいや・・・。

 それで、その「今日は帰ってください」宣言のあとに、ああこれは駄目だな、と悟って――きっとマニュアルに何があっても玄関から離れるな。身体をぶつけられたら痛いという振りをしろ。あとで警察に通報されたときに役に立つから、とでも書いてあったのだろう――彼に背を向けて、携帯を取りに行ったのでした。

 彼はそこで「上がらせてもらいますよ」と言って、靴を脱ぐジェスチャーをした。これはアウトだ、と僕は思った・・・けれど、ちょっと気を落ち着かせるために、なぜか男の前でメールの有無をチェックした(来ていたのだったかな・・・。忘れた)。僕もだいぶ動揺していたんだと思う。だってできることなら穏便に済ませたかったら。

 でも男は「ねえ、こっちがこうして説明しようとしているのに、メールのチェックなんて、失礼じゃないですか」と言って、ぷんぷん怒っている。何が失礼だ、と僕は思う。ここは僕の部屋で、今は僕の時間だ。あなたに指図さしずされる筋合いはない(もちろん言葉には出さなかったけれど。きっと揚げ足を取られるだろうと知っていたから)。おそらく、相手に自由がないかのような雰囲気をつくり上げること、というのもマニュアルに載っていたのだと思う。僕はまだ大丈夫だったけれど――なにしろそいつの演技臭さに辟易(へきえき)していたくらいだから――もっと気の弱い人なら、こんなことで警察呼んじゃっていいのかな、とか思うのだと思う。インターネットで検索した事例によれば--そういえばさっきも書いたけれど--警察は民事不介入だから来ないとか言うらしい。でも本当は「不退去罪」あるいは「住居侵入罪」は、現行犯であるならば、私人だって逮捕できちゃうらしいのだ。彼らは本当に都合良く法律を解釈しているのである。

 でもまあ、暴力沙汰になるのは僕だって避けたい。正直に言えば、肉体的な観点でいえば、さほど恐怖を感じたわけではなかった。まあ顔つきそのものは相手も穏やかそうだったし(最後は真っ赤になって怒っていたけれど、とにかく)、背はちょっと高いとはいえ、僕だって基本的に毎日筋トレをしている。問題はちょっと腕がぶつかっただけで「暴行だ」とか言われかねない、ということである。その時点で雰囲気で僕はそれを感じ取っていた。だから「帰ってください」宣言をして、帰らなかったところを見て取って、携帯を取りに行って、なぜかメールをチェックして、よし、やろう、と思って、警察に電話をかけました。110番。前に何度か(バイト先とかで)かけたことはあったけれど、まさか自分の家でかけるなんてね。「もしもし」と僕は言った。「はい、警察です」と警察のオペレーターのおじさんは言った。

「ちょっと! 何をやっているんですか!」とその男は言った(あくまで主導権は自分が握っているつもりなのである。僕の部屋なのに・・・)。「そんなの失礼じゃないですか! どこにかけているんですか?」

「警察です」と僕は言う。「もしもし・・・」

「はい、どうされました?」とおじさん。

「ええっとですね・・・。なんかセールスの人が全然帰ってくれなくて」

「はあ、セールスの人が帰っていかない、と。それであなたの住所は?」

「ええと・・・」

 ここで男。赤くなりながら。さすがにまずいと悟ったらしい。「ちょっと、こっちに替わってください」と言いながら玄関のところから腕を伸ばしてくる。その先に足を踏み入れたら「不退去罪」だけではなくて「住居侵入罪」に当たることを僕は知っている。もちろん僕は彼に替わったりはしなかったけれど、もし携帯を奪われていたらどうなっちゃったんだろうな、と恐怖を感じなくもない。そいつは「こっちの方が被害者なんですよ!」と怒りながら叫んでいたけど――つまりさっき腕が当たったのが「暴行だ」ということなんだろう。それもきっとマニュアルに載っているのだ――もし携帯を取られてしまったら、きっと「手が滑った」とかなんとか言って、床に叩きつけたりしたんじゃないだろうか・・・。さすがにそこまではやらないだろうか。あいつらも罪が重くなるのを知っているからね。でもそれくらいはやりかねない勢いだったな。とにかく。

 僕はそいつが怒っているのを尻目に――でも実はかなり動揺しながら――その人の(つまりそのセールスの)名前を繰り返している。「――さんです! ――さんという人です!」

 実はオペレーターのおじさんはずっと「いや、そうじゃなくて、あなたの名前は何なんですか?」と言っていたのだけれど。

 まあ僕の脅しが効いたのか、そいつは赤くなりながら「じゃあもう帰りますよ」と言って、ドアを開けて外に出ていった。まだ「こっちの方が被害者だ!」と叫びながら。

 僕は結局、警察の(かた)には、今怒って帰っていったから、来なくて大丈夫だ、と伝え、とりあえず一人部屋に戻った(スリッパのまま玄関の外に半分身を乗り出していた。そいつが出ていくのを、階段を下りていくのをたしかめていたのだ)。ふう。まったく疲れたよ・・・。また戻ってこなければいいけどな。本当に何だったのか? というか今になってもあいつの本当の目的が何だったのか分からないままじゃないか? 

 いずれにせよ最後の最後に至ってもなお、その人の狭いファンタジーの中においては、「自分はただ不動産について〈説明〉しに来た正常な、仕事に疲れた会社員であって、相手が乱暴な、まるでモンスターのような、敵対的な、わけの分からないことを言う奇妙な男だ」ということで物語が完結していたみたいです。まあ実際にそうだったのかもしれないけれど、モンスターにはモンスターの自由があってしかるべきはずです。そうじゃありませんか?

 そのあとで似たような事例を調べたところ、同じ業者の手口と見られるしつこい勧誘がたくさんヒットしました。一人暮らしの若い男性が狙われているみたいでした(だからといって女性が安心だというわけではないのでご用心を)。とにかく粘って、例の「説明」とやらをして――どうも紙を使って「あなたの現在の年収では老後が危ない」とか、そういうことを語るらしい。余計なお世話である――場合によっては上司がやって来て、次の約束を取り付けて、あとは投資とかそういうところに引き込むみたいです。お金がなくても借金をさせれば大丈夫。返済できなくなったって、こっちの知ったこっちゃないもんね。へへんだ。ということなのでしょう。

 もしかしたら、厳密にいえば、法律的にはグレーゾーンすれすれなのかもしれない(まあ僕のケースにおいては明らかに不退去罪でしたけど)。でも倫理的には、完全に心が腐っています。あるいはまだ腐りきっていなかったとしても、徐々にれて、腐っていきます。それはもう、間違いのないことです。そのセールスマン(風の)男は、大体僕と同い年くらいでした。一体どんな人生を歩んできたんだろうな、と想像しちゃいますよね。こんな仕事よりも、もっと正直な仕事はいくらでもあるだろうに・・・。あるいはお金というよりは、マニュアルという一種の閉じられたフィクションに惹かれて、この仕事をしているのかもしれない、とすらときどき考えます。とにかく自分の頭を使わないこと。何かに自由を委ねてしまうこと。コミュニケーションを――真のコミュニケーションを――遮断すること。相手をカモとして、都合良く支配すること。自由を許さない。契約さえ取れればそれでいい。あとのことは知ったことではない。相手の感情も・・・。

 そう、大事なのは感情です。もちろんその件のあと、心がむしゃくしゃしました。なんであんな奴を玄関に入れてしまったんだろう、と自分が嫌になりました。そして正味(しょうみ)一時間ほど粘られたわけです(黙っていた時間が長かったので)。もちろん自分が男で、貧乏だということもあって(まあこれは事実ですが・・・)、別に狙われることもあるまい、と油断していた、ということもあります。でも金がなくたって借金させればいいわけで、あいつらにはそんなこと関係ありません。まあいずれにせよ、彼が残していった気持ち悪さは、まだなかなか抜け切ってくれそうにありません。なんかバイト先でお客さんを見ても、この人たちも実は詐欺師かもしれない。あるいは限りなく詐欺師に近いグレーゾーンの営業かもしれない・・・とか疑ってしまいます。もう誰のことも信用したくなくなります。まったく・・・。

 でも良い勉強になった、というのは事実です。あるいは彼はそのために誰かが――一体誰だろう?――送り込んだ刺客(しかく)みたいなものだったのかもしれない・・・。そんなことも考えている今日この頃です。社会は安全な場所ではない、と身を持って僕に知らせるためです。そしていくらお前が正直な言葉を発したいと思っても、それを聞く人なんかほとんどいやしないんだ、と教えるためです。どうなんだろうな、実際は・・・。

 でもちょっと冷静になって考えてみると、途中でもちょっと書いたけれど、たぶん真に気持ち悪いのは、やはり彼の従っていたシステムが、形を変えて、、という事実なのだと思います。この僕の中にも存在しているし、その辺を歩いているおばさんの中にも存在している(もちろんおじさんにも、子どもたちにもね)。それはもう、間違いのないことです。意識というものの中に、あらかじめインプットされているのかもしれない・・・。

 僕が言いたいのは、言葉の功利性のようなものを都合良く――都合良く――地上の利益のために使おうとする姿勢なのだと思います。「言葉の功利性」というのは村上春樹さんが、たしかオウム真理教の信者の言葉について使った表現だけれど、たしかに日曜日に来た彼の言葉(づか)いには、そういった一種カルト宗教的なところがありました。出口が閉じられてしまっている。しかしその分、いくらでも自分の好きなように流用できる。

 だからやっぱりいくら朴訥(ぼくとつ)でも、ぎこちなくても、自分の正直な言葉を語るべきなんでしょうね、人間は。少なくとも僕はそうやって生きていきたいし、そういう文章を書いていきたい。自分の中の閉じられたシステムを開くためにこそ、言葉は本来使うべきなのです。僕はそう思うな。

P.S. だから「こう言われたらこう言い返して追い払いましょう」的な、一種のマニュアルとしての撃退法は――よくテレビなんかで紹介されるけど――あんまり役には立たないんじゃないか、というのが僕の意見です。なぜならそんなものは相手は事前に把握してきて、きっとまたペラペラトークをまくしたてて、心の隙間に入り込もうとするからです。もちろん物理的にドアの隙間にもね。こういう場合「忙しいから帰ってくれ」では駄目だし、「今は必要ない」でも駄目です。なんとでも言い返してきます。「じゃあいつだったらいいのか」とか、「なぜ必要ないのか説明してくれ」とか。あと僕の場合みたいに、あたかも「聞かなくてはならない話」みたいな雰囲気でやって来ることも多いです。ほかの部屋の住人はみんな、聞き終わったんだから、あなたも当然僕を部屋に入れて、話を聞いてくれますよね。なにしろ「不動産屋」なんだから(会社名はなぜかものすごく早口。名刺も置いていかない)。たとえばほかのケースだと「区画整理に伴う話」とかね。自分の出自を曖昧にして、相手に都合良く想像させる。奴らの手です。

 だとしたらとことん正直になるしかないんじゃないか、と僕は思います。決まった言葉を持つんじゃなくて(たとえば「旦那が同業者です」とか。きっとすぐに対策されますよ)、とにかく自分の心の動きに注意を払うこと。そして何かがおかしい、自立性が脅かされていると感じたときには、相手の要求を拒否する。ブロッコリーを拒否する三歳児みたいに、ほうれん草を拒否するゴールデンレトリーバーみたいに、拒否する。つまり何の理由もなく拒否する。それしかないような気がする。今必要ないから、とか、ではなくて、拒否する。なぜならあなたの自由が脅かされているからです。様々な専門的用語を使って、彼らはあなたの牙城(がじょう)を崩しにくるでしょう。でもそれはただのペラペラトークです。数字です。言葉です。透明な精神の流れに勝るものはどこにもない。少なくともこの世においては、ですが。これからもいろんな詐欺師たちが――詐欺師的な素質を持った人々が――僕のところにやって来そうですが、まあきっとなんとか対処していかなくてはならないのでしょうね。全然呼んでもいないのにやって来るのが奴らですから(その点()(はえ)に似ている)。

 しかし同時にその経験を通じて自分も大人にならなければならないかもな、と思っていることも事実です。今回の件は、非常に疲れはしたけれど――これからはまずインターフォンを使おう。間違いなく。そして可能なら会話を録音する。よし・・・――たしかに勉強になった。貴重な人生経験の一つ、というか。大事なのは――大事なのは――、ということです。こんなこと言うと変人扱いされそうだけど――まあたぶんきっとそうなんだろうけど――実際にそう思うのだから仕方がありません。彼は絶対的な悪ではなかった。そして僕は絶対的な善ではなかった。そのような流動性の中で、彼は狭い言葉遣いと、完結された物語を選んだ。僕は、それをことの方を選んだ。それだけの違いに過ぎません。まあたぶん彼が飢えて道端に寝転んでいて、食べ物を恵んでくれと言われても(そんなシチュエーションありそうにないですが)、僕はきっと無視すると思う。冷たいかもしれないけれど、一度ああいう経験をしてしまうと同情心というものはなくなっていきます。しかし、にもかかわらず、彼は生身の人間だった。どこまで良心というものが残っているのかは分からないけれど、少なくとも傍目(はため)には、まだ完全な悪ではなかった。そこが結構重要なポイントのような気がする。なぜ、彼はそのような狭い世界にはまり込んでしまったのか? なぜ自分自身をあのようにペラペラの男にしてしまったのか。その理由、あるいは文脈みたいなものが、今の僕に興味のあることです。なぜか? なぜなら僕自身の閉鎖性とそれは密接に結びついているからです。今階段で足音が聞こえて、またあいつが来たんじゃないか? (さか)(うら)みして、俺を殺しに来たんじゃないか、とか怯える心が叫んでいます。でもまあたぶんそんなこともないのでしょう。あったとしても正直に生きた結果だからまあよしとします(あんまりよくないか・・・)。いずれにせよ、自分は絶対に大丈夫だ。詐欺師は――グレーゾーンに近い詐欺師的なセールスマンは――絶対的な悪で、自分は完全に善の側に属している。そう思っている人ほど、詐欺に遭いやすいような気もします。彼らは心の隙間に入り込もうとします。ほら、今でも。

 じゃあ、おやすみなさい。ようやく自分のことをやれそうです。まったく・・・。

さらなる追記:「木瓜ぼけ咲くや、漱石せつを守るべく」という俳句が頭にずっと浮かんでいました。この事件のあとです。「せつ」を守って生き続けるのはなかなか難しそうですが、そうしないよりはそうした方がずっといいような気がします。偉そうなことは言えませんが。とにかく・・・。

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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