東京から仙台まで、ママチャリで帰る

2023年5月20日、土曜日。僕は八王子の自宅マンションの駐輪場にいた。実のところこの日までに退去を済ませ、仙台の新しいマンションに移動する予定だったのだ。最初のうちは僕ももちろん車で移動するものと考えていた。というかまあそれが普通だろう。新幹線か車、あるいは高速バスとか・・・。

僕の場合両親が宮城県の実家から(仙台市ではないが)引っ越しの手伝いに来てくれていたので、当然そのままそのワゴン車に乗っていけば何の問題もないはずだったのだ。しかし自転車が残る●●●●●●。これが大きな懸案事項である。引っ越し業者に頼むとすると・・・正直処分してあっちで新しいものを買った方が安い。見積もりをしてみてこんなに料金が上がるんだな、と変に感心してしまった。もちろんロードバイクみたいな、分解が容易な軽い車体のものは別である。あれならいろんな方法で輸送できる。しかしママチャリとなると・・・そもそも素人が手軽に分解できるようにはできていないのだ。できたとしてもきちんと戻せるかどうかは・・・ちょっと難しいかもしれない。まあそんなこんなで、「じゃあ乗って帰ったらいいじゃないか?」というクレイジーな考えがふつふつと頭に湧いてきたのであります。はい。

もちろんみんなには反対されましたが(いろんな人に吹聴して回ったのですが)・・・反対されればされるほどやりたくなってくるというのが僕のさがでして・・・出発の一週間前にはひたすらYou Tubeで自転車屋さんの動画を見て、ママチャリのタイヤ交換の方法を学んでいた。要するにスペアのタイヤ(およびチューブ)を積んでいって、もしパンクしたときには(それがパッチで修復不可能だった場合)、その場で交換しちまえばいいのだ。それさえできればなんとでもなる。夜はネットカフェに泊まればいいし・・・まあ実際にやった人の体験談を見るに、四日ぐらいあればなんとか着けるのではないだろうか、という気がした。もちろん天候に恵まれれば、ということだが・・・。

僕はなぜか変なことを計画し出すと元気になる、という性質を持っているので、不安が九割だったとはいえ、それなりに高揚した気分で出発の日を待っていたのであります。しかし実際に荷物を送り終え(ヤマトの単身パックで積めるだけ積んでいってもらい、残りを両親のワゴン車に載せた。それでも荷物が多すぎてパンパンになってしまった。物を捨てられないせいである。ごめんなさい・・・)、一人で自転車と共に残されてみると、俺、本当に今から仙台まで帰るのかな? と本気で不安になってきてしまった。でもとりあえず行くしかない。だってこのマンションはすでに引き払ってしまったのだから。僕の帰るべき場所は宮城県仙台市でしかないのだ。と、いうことででかい荷物を背負って(カゴにも載せて)、よっこらしょとペダルを漕ぎ始める。

購入後10年以上経っている僕のママチャリ。実家からハイエースに載せて7年前に持ってきた。何度もパンクし、この間はチェーンまで替えた。愛着、というものはたしかにあるかもしれない。苦楽を共にしてきた、というか・・・。持っていったのは着替え、食糧、水分、替えのチューブ(タイヤはさすがにでかすぎて入らなかった)。簡単な工具類。モバイルバッテリー、カッパ、洗面用具、歯ブラシ、あとは・・・パスカルの『パンセ』かな。彼の時代には自転車というものはあったのだろうか?

出発して、最寄りの駅まで行って、ATMでお金をおろしたところで、ポケットに郵便受けに入れてくるはずだった部屋の鍵が入っていることに気付く。まったく。ということでさっそく後戻り。大した距離ではないけれど、なんとなく精神的には疲れる。でも必要な後退なのだと言い聞かせて、なんとかマンションに戻る。そして不動産屋に言われたように郵便受けに入れて(立ち会いをしてもらわなかったのだ。要するに)、今度こそ出発だ! ゴーゴー!

出発の間際に慌てて入れた「自転車Navitime」というアプリによれば、東京都八王子市のマンションから、今度の最寄りとなる南仙台駅まで370kmとある。370km・・・。もちろん実際にそんな距離を自転車で走った経験はないから、うまく想像がつかない。ネット上の解説によれば(「ママチャリで長距離を走ることは可能ですか?」という質問に対して)、不可能ではないが、かなりの苦行となるでしょう、とのことだった。かなりの苦行●●●●●●。まずい。そんなことを言われると、僕の中の特殊な好奇心が変に刺激されてしまうことになる。かなりの苦行? もしそれが苦行なのだとしたら、どのような●●●●●苦行なのか、自分の身を持って経験してみたくはないか? だって実際にママチャリ日本一周とかしている人だっているのだ。とにかく漕ぎさえすればいいんだろ? 金もないし、本当は時間だってないんだけど、そんなことを言っている場合じゃないだろう? これはかねてからの好奇心を満たすチャンスなのだ。たしかに以前から(引っ越しが決まる遥か以前から)、実際に東京ー仙台間をママチャリで走破した人のブログを見たりしていた。彼は最後の方でパンクしてしまって、歩いて残り30kmほどを進んだのだったが・・・僕はそれを読んで、いつかやってみたい、とたしかに思っていたのだった。そしてそのチャンスが巡ってきたのだ。そもそも君は作家志望だったんじゃないか? それで7年間芽が出なくて、気持ちを変えるためにも(プラス、生活費を少しでも抑えるためにも)仙台に行くというのは君にとって重要な転換点となるはずなんじゃないのか? それを「みやこ落ち」みたいな、トボトボグズグズした精神状態で、ただの「退屈な移動」におとしめてしまっていいのだろうか? というか八王子にいたくらいで君は自分が何かを成し遂げたとでも思っているのか? ただ精神的に落ち込んでいただけじゃないか? いいか。何も終わってはいない。君のクレイジーな部分は死んではいないんだ。仙台でも書き続けるんだろ? 人間は熱意を内に秘めている限り、どこにいたって何かを生み出せるはずだ。しかしその熱が死んだら終わりだ。君にはできる。ママチャリで、あっちまで帰ることができるんだ。そしてその異常な興奮状態のまま、新しい生活を始めるんだよ。そうしないと大事な何かが死んじゃうぜ? ほら、漕ぎ始めろよ。実際に・・・。

と、いうことで5月20日、土曜日の16時20分にあらためて出発です。本当はもっと早く出たかったのだけれど、いかんせん僕の荷物があまりにも多すぎて、とてもじゃないけどワゴン車には載らなかった。大きな段ボールに入れて、ヤマトの普通の宅急便で十箱くらい送ってもらったかな。本当に失礼しました。はい・・・。

でもまあ出発してしまったらこっちのものだ。あとはひたすら漕ぎ続けることだけを考えていればいい。そういったシンプルな精神状態は、実はここ最近の僕が何よりも欲していたことだったのだ。7年間八王子にいたことで、なんだかんだ言って、僕のような作家志望の怪しい男にもそれなりにたくさんの知り合いができて・・・結構多くの方々が別れを惜しんでくれた(これは実は予想外のことだった。自分はかなり適当な、良い加減な人間だと思い込んでいたので)。こっちに来たときには一人も知り合いなんかいなかったんだけどな、と思うと不思議な気分になる。僕はどちらかといえば、一人でいることがクールで、そのようにして初めて真の自由が得られるのだと考えていたふしがあったのだけれど、やはりその中でもある程度の人間関係というものが築けなかったなら、きっととっくの昔に駄目になっていただろうと思われる。具体的にどのように駄目になったのかまでは分からないけれど・・・。それでもやはり人間は人間との関係抜きにしては生きることはできないんだな、とシンプルに実感した日々ではありました。たしかに・・・。

もちろん僕の一番の望みは作家になって、独立して生計を立てられるようになって、またみなさんのところに挨拶に伺う、ということです。そのために僕は仙台に帰るのだ。結局引っ越し資金だって、初期費用だって両親に借りなければならないような情けない状態ではあるのだけれど・・・それでもまあこうならざるを得なかったのだから仕方ないじゃない、という思いも僕の中にはある。結局「正常」にはなれないのだから、オリジナルな人間になるしかないじゃないか、というのが僕の達した結論である。まったく面白味のない、すでに言い古されてしまった論理かもしれないけれど、それでも実際にそう感じているのだから仕方がない。まあよく考えてみれば、7年前と違っているのはまさにその「経験」の部分なのかもしれない。今までは頭では分かってはいたけれど、「身を持って」というところにまでは至っていなかったような気がする。しかし7年間グズグズともがき続けて、アルバイト生活を続けて、それでも芽が出なくて・・・いろんなことを考えて、いろんなわけのわからないことをやって(ミュージックビデオを作ったりもした。絵も描いた)・・・ヤケになりそうになったり、なぜかふっとそこから回復したりして・・・結局同じような場所に戻ってきた(そして物理的に生まれ故郷に近い場所に帰ることになる)。どれだけうまくポーズを取ったところで、自分自身をごまかすことはできない。まあそういうことになるのではないかと思う。自分の中の生きている部分だ。要するに。僕はやはりどうしてもこういった道を辿らざるを得なかったんだろうな、という気が今ではしている。きっと正社員になっていたとしてもすぐに辞めて、似たような経路に入り込んでいたはずだ、と思う。自由になること●●●●●●●。うん。やはり目指すのはそこだろう。そしてそこで羽ばたくのは透明な僕の精神である。肉体は・・・たまたまそこにある容れ物に過ぎない。そう、容れ物●●●である。僕の本質は意識なのだ。意識が何かを理解したいと欲する。意識が自由になりたいと欲する。意識が移動したいと欲しているのだ・・・。

そういえば出発の数日前に読んでいたパスカルの『パンセ』に、こういった一節があった。

“私は、人間をほめると決めた人たちも、人間を非難すると決めた人たちも、気を紛らすと決めた人たちも、みな等しく非難する。私には、うめきつつ求める人たちしか是認できない。”
『パンセ』(パスカル著、前田陽一、由木康訳、中公文庫、p258、421)

呻きつつ求める人たち」。僕はその言葉をスマホにメモしておいた。呻きつつ求める人たち●●●●●●●●●●・・・。結局のところ意識が何かを求める——何か目には見えないけれど、大事なものだ——過程において、さまよったり、呻いたり、悩んだりすることはむしろ必然的な流れなのだろうな、と僕は思う。何も歴史的に僕だけが例外なわけではないのだ。まあ当たり前のことではあるのだけれど・・・。それでもパスカルさんにそう言われると勇気付けられるようなところがある。そうだ、お前は間違ってはいないんだ、と。そのまま自転車で突っ走れ、と(これは想像の飛躍である。はい・・・)。

まあいずれにせよ僕にとっての「呻きつつ求める」行為の具体的な例が、要するにママチャリで東京から仙台まで移動する、ということになるわけです。もちろんこの場合は、ということであって、普遍性があるわけではないです。でも「思いつき」というのも、結構重要な要素になるのではないか、と僕は思う。はい・・・。

しかしまあ実際に出発してしまって、八王子市をあっという間に抜け出てしまうと、一種の爽快感が身を包むことになる。自由、とまでは言えないけれど、普通とはちょっと違うことをやっているという興奮。そして移動し続けていることの中にある透明なグルーヴ。とにかく気持ち的にはスッキリしていた、ということです。もちろんどんどん暗くなっていくわけで、不安は尽きませんが、それでも。

八王子市との別れ。7年間ありがとう。市役所前の河原。いつもこのあたりを走っていました。作家になれなかったら浅川に飛び込んで死のうと思っていたのですが、あまりにも浅すぎて死ぬに死ねなさそうですね。はい・・・。

ただ坂道が結構多くて、大変だった。カゴの中にも大きな荷物。背中にも大きな荷物。ロードバイクとは違って、車体そのものもかなり重い。立ち漕ぎをして、一種の意地で、足を着かないで上っていく。途中すれ違った高校生の集団に、「今から仙台まで漕いでいくんですよ」と教えたくなる。でも何も言わない。結局のところこれは僕の個人的な旅なのだ。どのような意味を持っているのかは、まあ詰まるところ自分にしか分からない。というか正確に言えば自分にだってよくは分かっていないのではないか? そんなことを考えながらひたすらペダルを漕いでいく・・・。

東京都あきる野市。17時14分。雲が不気味で素敵です。絵に描きたい・・・。

東京を越えて、埼玉に入る。かなりの田舎ではあるけれど、とにかく別の都道府県に入ったことが嬉しい。

埼玉県入間市。17時57分。

そういえば入間市のある家の庭から、結構大きな音でレゲエが流れてきていた。ボブ・マーリーさんでした。はい。”No woman, no cry”。僕はしばらくの間、その曲を口ずさみながら、ペダルを漕いでいた。良い音楽は身体と意識の隙間に染み込んでいくようなところがあって、とても気持ちが良いです。でもしばらくすると、その(歌いたい)気持ちも収まってきて、ただひたすら漕ぎ続ける、というサイクルに入り込んでいくことになります。苦行●●。自分は機械なんだ。ペダルを漕ぎ続けるためだけに生まれた機械だ。余計なことは考えるな・・・。

入間川。18時45分。川の反映はなぜこんなにも素敵なのだろう?
こちらも入間川。

ありがたいことに暑すぎもせず、寒すぎもせず、雨も降らず、終始曇っていました。この日は、ということですが。埼玉に入って少しして、一回目の休憩。

入間川にこにこテラス。18時52分。家族連れや、散歩をしている人たちがいました。夕方で、そんなに多くはいませんでしたが。

以前勤めていたコンビニの方々が送別会のようなものを開いてくれたので(一週間ほど前の話ですが)、そのときにもらったお菓子たちを、大量に食糧として携帯してきていた。甘ったるいお菓子たちですが(普段はあまり食べない)・・・こういった場合にはすごく役に立つ。なにしろカロリー消費しまくっているからな。太ることよりもエネルギーが涸渇こかつしてしまうことの方が怖い。ちゃんと水分も取る。そして・・・また出発である。はい。

埼玉県においては結構立派なサイクリングロードをずっと辿っていたような気がする。僕としてはただナビに従っていただけなのですが。自転車用、というだけあって、車用とは違った、自転車にとって走りやすい道を案内してくれる。まあ国道4号線まで辿り着いてしまえば、あとはそこを北上していくだけで仙台に行けるのですが、とにかく。

このあたりでほぼ完全に日が落ちてしまう。当初の計画によれば、行けるところまで行って、まあ22時くらいまでにはネットカフェに泊まろうかな、というつもりだった。でも漕いでいるうちに、「なんか泊まる場所探すの面倒くさくないか?」という気持ちになってきた(悪魔のささやき)。お金だってかかるし、お前はそもそも早く仙台に帰って、新しいバイトを探さなくちゃならないんじゃないのか? ゆっくり観光しながら帰っている暇なんてないはずだ(その通りである)。ここは一路ひたすら突き進んで、最短記録を狙うべきじゃないのか?

それでもさすがに一晩中漕ぎ続けて、翌日体力が持つか心配だったので、やばくなったらネットカフェに泊まろう、という保険は自分の中にかけておいた。さほど満足のいく人生ではなかったとは言え、こんなところで死んでしまうのはあまり面白くない。まあそれでも、身体は(そして心も)それなりに元気である。一晩中だって行けるかもしれない。ということで、とにかく暗くなっても行けるところまで行ってみることにする。まあ一種の好奇心である。言ってみれば。

埼玉県加須市。利根川に架かる橋。22時39分。利根川はひじょぉぉぉぉに幅が広かった。

ここらで二度目の休憩。加須市のコンビニ。もう夜勤の時間だな、とコンビニ店員だった僕は思う。まだ機嫌が良い頃だ。もう少しするとだんだん眠くなってきて、客に腹を立てるようになる。あるいはそれは僕だけだったのかもしれないけれど・・・。

夜にあんまり多く食べると胃がもたれるのだけれど、今はそんなことを言っている場合でもなく、結構たくさん食べたような気がする。送別会でお餞別にもらったクオカードで色々と買っていく。なんとかこれで生き延びようというのが今回の計画である。貧乏くさいというかなんというか・・・。でもまあ時間的にも、金銭的にも僕には余裕なんてない。もっと先に、もっとビッグになるんだ、と自分に言い聞かせて、先に進むことにする。このあたりで直近の目標地を栃木県の宇都宮市にしようと決める。宇都宮にも複数ネットカフェがあったはずだ。とりあえずそこを目指そう。そして駄目だったらそこで泊まる。もし行けたらそのままゴーだ。でも宇都宮って結構先だよな。まだ埼玉県だし・・・。

それでもまあ人通りの少なくなった道路は快適で、どんどん進んでいくことができる。妙な興奮状態にあって、さほど疲れも、眠気も感じない。ほとんどヤケになってどんどん進んでいく。周囲は完全な暗闇である。でもまあ街灯もあるし、段差に気を付けてさえいれば、問題なく走っていける。こういうときの注意点は下り坂でスピードを出しすぎないことだ。ちょっとした段差でパンクした経験があるから、より注意して下っていく。まあロードバイクならきっと大丈夫なんだろうけどな・・・。

知らぬ間に日付けが変わり、知らぬ間に栃木県に入っている。というかその前にちょっとだけイバラギ県にも入ったはずなのだけれど、 あっという間に通り抜けてしまった。たしかどこかの大きな橋で、歩道が全然なくて、トラックに追いかけられながら、必死でペダルを漕いでいたような気がする。ほんの少し路肩ができたところで、可能な限り左に寄って、止まって、先に行ってもらったからよかったけれど・・・まあきっとママチャリが夜中に通ることは想定されていなかったのだろう。当たり前と言えば当たり前なのだけれど・・・。

栃木県小山市。5月21日、日曜日。0時42分。無人のガソリンスタンド。僕のガソリンは炭水化物である。食パンとおにぎり。お土産のお菓子たち・・・。

このあたりになるともう吹っ切れてどんどん進んでいく。目指すは宇都宮。何を見たのかもうあまり覚えていない。暗い道路をひたすら進んでいく。ほかに自転車を漕いでいる人の姿なんて全然ない。いるのはタクシーとか、トラックとか、運転代行の業者の車なんかだ。彼らはかなり飛ばす。でもまあ僕は僕のペースで進んでいく。相当怪しい格好をしていたとは思うのだけれど(でかいリュックを背負って、ニューイングランド・ペイトリオッツのキャップを後ろ向きにかぶっている。夜だからまだサングラスはかけていない。さすがに星条旗までは付けなかったけれど)・・・。

宇都宮。このあたりで残り238km。132km漕いできたことになる。でもまだ半分も進んでいない。まったく・・・。

ほとんど無になって進んでいって、ようやく深夜の3時28分に、宇都宮駅前を通り過ぎる。実は土曜日(20日)の夕方に僕の引っ越しの荷物を積んだ両親の車は、ここに停まっていたのだ。仙台に帰る途中で、宇都宮で一泊することになりました、という連絡を僕は受け取っていた。その両親をここで追い越したわけだ。きっとびっくりするだろうな、と思いながら、どんどん先へと進んでいく。ここのネットカフェで泊まるという計画は、もうすっかり消え去ってしまっている。このま郡山こおりやままで行ってしまったら面白いじゃないか、と僕は思う。一度目的地に着いてしまったことで、疲れるよりもなんか、変な元気が湧いてきている。僕はそれを可能な限り利用し、どんどん前へと進んでいく。さようなら宇都宮。餃子も食べなかったけれど。僕は先に行くよ。そこでより自由になるんだ。うん。

ひたすら漕いでいく。なんだ人間って、一晩眠らなかったくらいでは死にはしないんだ、と実感しながら、脚を動かしていく。4時過ぎくらいに空が明るくなってくる。牛舎の牛さんたちがじっと僕を見ている(彼らは来たる死を予期しているような目をしていた。非常に哀しげである。でももしかしたら乳牛だったかもしれない。僕もだいぶおかしくなっていたので細かいところまでは分からない・・・)。景色は本当に田舎である。もちろん当たり前ではあるのだけれど(だってどんどん都心から離れていくわけだから)、それでも実際に、自分の脚を使って、ここまでやって来たのだ、という事実が、僕を高揚させている。まあさほど面白い景色があるかも、と期待していたわけではない。僕の地元だってそうだし、まあほかの田舎の景色だって似たり寄ったりだろう、と正直思っていた(そして実際にそうだった)。でもそれをこの目できちんと眺めることこそが大事なのだ、という気がなぜかしている。それは作家志望だからかもしれないし、もともとがそういう性格なのかもしれない。そんなの分かりきったことじゃないか、と簡単には言えない。ママチャリで帰るのがきつい? 見える景色がつまらない? カエルの鳴き声がうるさい?(田んぼで盛大に鳴いていた。東京から来るとこれが非常に珍しく感じられる。すぐに慣れるのだけれど) そんなのは行く前から分かっていたことじゃないか? でもそうじゃないんです。本当はその隙間●●にある何かが、きっと大事なのです。まあ言ったって分からないとは思うけれど。そういう断定的な人には。

栃木県さくら市。4時22分。
これもさくら市。4時43分。
さくら市。人気〈ひとけ〉のない国道を走る。

大田原市のあたりで母親から連絡が来る。宇都宮を追い越したよ、と告げる。もちろん驚いただろうけれど、寝ずに漕いでいることの方が心配だったみたいだ(まあ当然だろうと思う。クレイジーな息子でごめんよ)。でもまあ大丈夫だよ、と言って先に進む。朝7時をすでに越えている。直近の目標は福島県郡山市だけれど、心の中には「もはや限界を試したら良いんじゃないか?」という気持ちがふつふつと湧いてきている。あるいは俺はずっとこれを求めていたのかもしれないぜ? 肉体的に限界に近づけば、あるいは「神」か、それに近い何かが見えてくるかもしれない。もし見えなかったら・・・まあそのときはそのときさ。どこまで行けるのか試してみようじゃないか・・・。

栃木県太田原市。7時11分。本心としてはやはり「無事故」以外のおみやげも欲しいところだが・・・。

早朝の空気は特別である。しかし前日とは違って、少々暑くなりそうだ。もう朝からその気配があったような気がする。でもまああまり気にしないでどんどん漕いでいく。汗はかなりかいているけれど、まだ身体にさほどの痛みはない。一晩ずっと起きて漕いでいたおかげで、変な高揚感に包まれている。しかしまあ・・・実際に走ってみると栃木県長いです。はい。地図で見るとちょっとのような気がするのだけれど・・・。でもまあ栃木県に文句を言ったところで始まらないので、4、50kmごとにコンビニで(大体が勤めていたコンビニの系列店で)休憩しながら進んでいく。夜勤の人たちが早朝勤務の人たちに代わっている。土地によってやはり訛りがある。僕はその辺の言葉の違いがすごく好きだ。本人は普通にしゃべっているつもりなのに、ちょっとだけイントネーションが違っている。北上すれば北上するほどその傾向は強くなっていく・・・。

栃木県那須町。7時58分。ここがちょうど当初の計画の中間点。残り185km。そしてまさにその同じ距離をここまでひたすら漕いできた。時速に換算すると・・・11.66km/hということになる。まあ比較的順調である。パンクもしていないし。

那須町で中間点を過ぎ、バイク乗りたちに追い越されながら、なんとか坂道を上っていく。暑いので水分と塩分を補給する。汗が身体に張り付いて動きにくいことこの上ない。もっと軽い服装をすればよかったのだけれど・・・。ちなみに下は普通のチノパン。上は普通の長袖のシャツ(薄手のもので、袖まくりはしていましたが)。靴は普通のバンズのスニーカー。そんな格好でした。明るくなってからはサングラスをかけていた。そしてペイトリオッツの帽子。ブレイディとグロンクのいなくなったペイトリオッツにどんな魅力があるのか、と問われるとちょっと言葉に窮してしまうのだけれど・・・。まあそれはそれとして(僕はどちらかといえばNFL全体のファンであって、特定のチームのファンではない)、そんな格好で汗だくになりながらひたすらペダルを漕いでいたのであります。はい。

この辺になるともう意地である。さすがに疲れた。パンクもしていないし、身体も故障していないけれど、当初の勢いはちょっと失いつつある。何よりも坂道が辛い。上り、上り、上り。でも上り切れば必ず次は下り坂がやって来る。これは人生みたいだな、と勝手に思いながら進んでいました。はい。きつい坂を上り切れば・・・しばらくは楽な時期が続く。平坦な道はリズムさえ見失わなければさほど問題ではない。そしてしばらくすると・・・また坂道だ! 頑張って上っていきます。極力足を着かないで・・・。

正直道が悪いところも結構あって、そういう場所はフラストレーションが溜まる。車道を走った方が本当はいいのだけれど、結構車たちもスピードを出しているし、まあ危険である。でも歩道は・・・。木の根で段差ができていたり、補修の跡がデコボコしていたり、草がひざくらいの高さにまでボーボーに伸びているところだってある。だから車が来ないうちは大抵車道を走ることにする。そこだってわだちとか窪みとか、結構危険なのだけれど・・・。

長かった栃木県を抜け(あばよ! 栃木県!)、福島県に入る。県を越えると不思議な達成感が身を浸す。いつもは車とかバスで越えているはずの県境。自分の脚でここまでやって来たのだ・・・。

ここを越えれば福島県白河市である。ようやく東北地方に足を踏み入れることになる。長かった・・・。

正直かなりヘトヘトだったのだけれど、ここで「福島県現象」と僕が名付けた不思議な現象が起きる。さすがに体力的には限界だろうと思っていたのだけれど・・・いざ県境を越えてしまうと、なんか「抜けた」みたいな感じになって、ほとんど自動的に足が動くようになってしまったのだ。これなら本当に●●●寝ないで——もちろんちょくちょく休憩を入れるつもりではいましたが——仙台まで行けちゃうかもしれないぞ。時速12kmくらいをキープしさえすればいいのだ。だってもう半分も越えちゃったもんね。あとはパンクにだけ注意していれば・・・。

去年の夏に仙台育英野球部が越えた白河の関を僕も越えて(実際にどこが関なのかはよく分からなかったけれど、とにかく)、ひたすら北上していくことになる。「福島県現象」は科学的には説明できないけれど、確実に僕の意識と肉体を動かしていってくれた。もちろん次の目標地点は郡山である。そこにはまたネットカフェがある(事前に調べておいた)。もしヤバかったらそこに泊まろう。そういう精神的な保険がちょっと心を楽にしてくれる。このあたりは(暑さを別にすれば)比較的平穏に乗り切ったような、気が、今ではしている。はい。

たぶん白河市で撮った謎の塔。おそらくは火星人がやって来るのだと思うのですが・・・。
郡山駅前。13時04分。このあたりではまだ元気だった・・・。南仙台駅まで残り120km。なんとか日付が変わるまでは着けるかも、と思っていた。でもその計画が非常に甘いものだったことが後に判明する。

13時過ぎに郡山駅前を通り過ぎる。福島に入ってから、なんとか「福島県現象」のおかげで頑張ってきたけれど、さすがに疲れてきている。それに暑い。汗が身体に張り付いている。駅前は結構たくさんの人たちが歩いていた。僕はまあ・・・さぞかし怪しかっただろうとは思うのだけれど。

もちろんここのネットカフェに泊まるという選択肢はまだあった。でもそれを取らず、もはや行けるところまで行ってしまおうと決意する。死ぬのなら死んだっていいじゃないか? それまでの人生だったということだ。でも君は作家になりたいんだろ?(注:これは悪魔の囁きである。ちなみに)。だとしたらこれくらいできなくてどうする? イニシエーションみたいなものさ。こんなことも達成できなかったら君はただのヘニョヘニョ人間になってしまうぜ? なんにも成し遂げられない、欲求不満のよくある男さ。ポテンシャルとしては自分はすごいんだとか言って、そのまま人生をやり過ごすんだ。云々うんぬん・・・。

まあここまで来てしまったのだから行けるところまで行ってしまいたい、というのが一番大きな理由だったと思います。純粋な好奇心。と、いうことでひたすら北上します。4号線を通るときもあれば、ナビによってもっと外れた道を指示されることもある。基本的にはそのナビの指示に従って、走っていきます。でもまあさすがにあまりにも身体が重くなったので、夕方近くに、郡山の外れのコンビニで、着替えることにする。裏の方に行って、人目に付かないところで・・・。運動用の軽い服装。というかもっと早く着替えておくべきだった、とこの時点でようやく気付く。すごく動きやすいじゃないか・・・。でもお弁当とか、シュークリームとか(カロリー確保)、色々と食べたあとで、さあ出発、と思ってポケットをたしかめてみると、どこにも自転車の鍵がない。まったく。さっき着替えたときに、チノパンから出したのは覚えている。あるいは風が強くて、どこかに飛ばされたのだろうか? でもないしな。そうだ! ゴミと一緒に捨ててしまったんだ! ということで、店員のおばさんに頼んで、ゴミ箱の中まで確認させてもらったのだけれど・・・全然ない。だとしたら荷物の周辺にあるしかないのだ。合理的に考えて・・・。一つ一つ取り出して確認してみる。でもない。いやいや。本当に焦った。こんなところで鍵を失くしていたんじゃ本当に先に進めない。歩いていくにはまだ100km以上あるしな。どうしよう・・・。

結局40分以上探し回った挙句、着替えの山の奥の奥の方に鍵を発見しました。「僕のせいじゃない、あなたのせいだ!」と言われているような気が——鍵に、ですが——僕にはした。でもとにかくその安心したこと。ものすごくホッとして、先に進む。このせいで時間をロスしてしまって、日付が変わるまでに仙台に着く、という計画は怪しくなってきてしまった。でもとにかく漕ぎ続ける。だってそれ以外今はできることなんてないのだから。ボクハキカイダ。ボクハキカイダ。アセモカカナイ。ヨワネモハカナイ。キカイキカイキカイ・・・。


でもこのあたりでシンプルに嬉しいことが起こる。ナビに従って少し外れた道を——すごい坂道だったのですが——無理矢理立ち漕ぎで、頑張って漕いでいると、地元のおじいさんが杖を突きながら、僕に追いついてきた(要するにそれくらい僕はゆっくりとしか進めなかったのですが。このあたりで右膝が痛くなってきている)。歯が欠けている、70代半ばくらいのおじいさんでした。驚いたような表情をして、「よくもまあ、こんな田舎みぢ(田舎道)、知ってたごだ」と言ってくれました。僕は「ほら、携帯で調べると出てくるんですよ」と言って、ハンドルのところにホルダーで留めていたスマホを見せた。そしてすかさず「実は仙台まで行くところで」と付け加えた。「あらまあ、仙台まで?」と彼は驚いていた。「実は東京から漕いできたんですよ」と僕は言う。彼は「東京から?」と非常に驚いた様子を見せながら——でもニコニコしながら——福島弁で言った。僕は手を上げて彼を背にし、そのまま坂を上っていった。まあ一人くらいには訊かれたいと思っていたので、よかったです。はい。

福島市。17時55分。夕陽が綺麗です。このあたりで残り100kmを切る。身体はまだ元気である。膝が少し怪しいが・・・。ちなみに神はまだ見えていない。限界まで追い込んでいないということか・・・。

綺麗な夕陽を見ながら、おそらくは福島市で残り100km地点を通過する。比較的身体は元気である。これならまだまだいけるなとか思いながら漕いでいる。途中三台くらいロードバイクに追い越されたかな。専用のウエアを着て、立派なヘルメットを着用している(僕はただのキャップである。はい・・・)。見るからに軽そうで、実際にあっという間に姿が見えなくなってしまう。今度来るときは(そんな機会があるかどうかは分かりませんが)絶対にロードバイクで来ようと決意して彼らを見送る。また日が落ちてきている。まあ焦らずに進もうじゃないか、と僕は思う。このペース(時速12kmほど)を続けていれば、きっと日付が変わる頃には仙台に着くはずだ。というか計算上●●●そうなっているのだ。それは科学的な事実だ。あとは僕の身体が機械としての役割を果たしてくれるのを期待するのみである。ほら、文句を言わずに、さあ・・・。

福島市。17時56分。
福島市。19時10分。夜景が綺麗ですね。

しかし現実はなかなか計算通りにはいかないものである。それを身を持って悟らされることになる。まず坂道。これがきつい。福島ー宮城間の坂道は、ここまで270km以上走ってきた脚には辛い。このあたりで右膝が真剣におかしくなってくることになる。左は大丈夫なのだけれど(それはむしろ自分でも驚くくらいだったのだが)、右膝は人並みに悲鳴を上げている。踏み込むたびに痛む。それで長い坂道なんかは、泣く泣く断念して、自転車を引いて歩くことにする。もはやあたりは真っ暗である。トボトボと歩く。その脇を猛スピードで車たちが通り越していく・・・。

このあたりは道路もひどくて——というか歩道がひどくて——ボコボコしすぎていたり、草が本当にボーボーになっていたりする。でもまあ極力文句を言わずに進む。パンクしないで、雨に降られないでここまでやって来ただけでも良しとしなければならないはずなのだ。お腹も壊していないし、駄目なのは膝だけじゃないか? そのほかの部分は・・・まあ多少はお尻が痛むけれど、まだなんとかなる。意識もかろうじて保っている。だんだん眠くなってはくるのだけれど・・・。

そしてついに我が宮城県に入る。白石市。まったく。ここまで長かったぞ福島県。「福島県現象」でやってきた謎のエネルギーはすでになくなってしまっている。もはや気力だけで進んでいく。仙台までは・・・あと何キロだろう?

ようやく宮城県に入ったのが21時57分。当初の予定よりもかなり遅れてしまっている。でも膝もかなり痛むし、もやは急ぐというよりはむしろ、生きて辿り着きさえすれば成功だろう、という気持ちになっている。でもなぜか——ここも理由は分からないのだけれど——県境を越えてしまうとまた謎のエネルギーが湧いてくることになる。今度は「宮城県現象」といったところだろうか? しかしさすがに眠気もやってきていたし、道の悪さと、膝の痛さに閉口していたので、その特殊なエネルギーも長くは続かない。何回休憩入れたっていいから、このまま辿り着こうぜ、と決意する。途中寄ったコンビニでレッドブルを買って飲んだ。普段は高いし、なんか身体に悪そうだからまず飲まないのだけれど、今回は話が別だ。目を覚ましていないとトラックに轢かれそうだし(実際に歩道のない場所で、肩をかすめるようにして猛スピードで大型トラックが通り過ぎていった。危ない危ない・・・)、肉体に備わっているエネルギーだけでは到底足りなそうだったのだ。僕はここで新たな自転車の漕ぎ方を編み出すことになる。

岩沼市。何かの食べ物とレッドブル。何を食べたのかはもはや覚えていない。5月22日、月曜日。1時05分。仙台まではあとちょっとだ・・・。

「新しい漕ぎ方」というのは要するに、右足を極力使わない漕ぎ方、ということである。両手で思いっきりハンドルを引っ張り(そういえば手にもマメができてすごく痛かったので、修理するとき用に持ってきていたゴムの手袋をはめた。どっちにしろ痛かったけれど。まあないよりはマシか・・・)、お尻をサドルから前にずらして、そのタイミングで左足(健康な方の足)をつっぱる。右足は本当にペダルに載せているだけだ。そのような不恰好な漕ぎ方で、なんとか宮城県南部を乗り切っていった。坂道はそれか、あとは右手で無理矢理右膝を押すか。ビュンビュン車は脇を通り過ぎていったけれど、本当に変な光景だったろうな、と僕は思う。まあ暗くてあまり見えなかったのかもしれないけれど・・・(ペイトリオッツファンの若い男性が車を止めて差し入れをくれる、というような奇跡は・・・起こらなかった。ちょっと期待していたのだけれど)。

このあたりからほとんど写真が残っていない。頭もフラフラしていたし、身体も満身創痍そういだった。国道沿いの景色は特に面白くもない。似たような光景。ずっと●●●、似たような光景なのだ。コンビニ、中古車の販売店、チェーンのレストラン。家電量販店。ガソリンスタンド。住宅。そしてまたコンビニ・・・。でもその道を実際に脚を動かして進んでいく。それが大事なのだ、と自分に言い聞かせて。

残り10kmを切ったところで、ナビの画面に(そういえばバッテリーも切れかけていたのですが)小数点以下まで表示されるようになって、ものすごく嬉しかったことを覚えています。深夜で、変な漕ぎ方でずっと走ってきて、ようやく名取市のあたりまでやって来て・・・それでこれまで11km、10kmというだけの表示だったのが、たとえば9.8kmとか、9.7kmとかまで表示されるようになった。俄然やる気が出てくる。もはや最後まで行ってしまおうと当然のことながら思っている。何時になったって構わないからとにかく辿り着こうじゃないか、と。

実はその少し前から思っていたことではあったのだけれど、せっかく東京ー仙台間を走破しようとしているのに、目的地が「南仙台駅」じゃちょっと格好がつかないんじゃないか? ここはもう少し頑張って仙台駅まで行こうじゃないか? お前ならできる。だって今まで370km走って来たんじゃないか・・・。

南仙台駅。2時09分。もう少し頑張る・・・。

ということで、悪魔の囁きに負けて、そのまま7.5kmほどだったか、先に進むことにします。当然のことながら人通りは少ない。痛む膝をなんとか動かしながら、見覚えのある街を通り過ぎていきます。眠い。疲れた。汗が今は冷えている。レッドブルの効果が切れかけている・・・。でもなんとか進む。この数十分はかなりきつかったけれど、なんとか乗り切りました。そして・・・ゴール! 神は見えなかったけれど(限界はまだ先、ということか)、いずれにせよ生きて仙台駅に辿り着きました。378kmくらいだろうか。寝ずに走り通した。

5月22日、月曜日、午前2時48分。ようやく到着。JR仙台駅前。パンクしないで持ってくれました。いやはや。疲れた・・・。

かかった時間は34時間30分(休憩込み)です。いやはや。疲れた。疲れたの一言に尽きます。「不可能ではないが、かなりの苦行となるでしょう」。まさにその通りだ、と僕は思う。駅前とはいえ、こんな時間だからほとんど人はいない。でも通りかかった大学生らしきグループがいて、そのうちの一人がすごく堂々と東北訛りで話しているのを聞いて、ああそうか、ここは仙台なんだな、と実感した次第であります。東京だと基本的には隠すからね。東北人は・・・。そこで写真を撮って、あとはまた8km近い道のりを、マンションに向かって走ります。この8kmほど長かった道のりはなかったと思う。自分の生涯において。膝も首も、お尻も、肩も、色々と痛んでいた。でもやり切った、という達成感はたしかにありました。あとはこれをお金に変えられればもっといいんだけどな・・・。

まあそんなこんなで、なんとか帰り着き(まだ生きていましたが)、シャワーを浴びて、寝ました。しかし、あまりゆっくりしている余裕はない。翌日には区役所に行って、転入届を出さなければならない。警察署に行って、免許の住所変更も・・・。そのあと急いで新しいバイトを探したり(無事採用されましたが)、大量の荷物の荷解きをしたりしなければならず、寝不足のまま動き回っていました。そして帰ってきた三日後にタイヤがパンクしていた・・・(チューブが完全に裂けていました)。まあここまで持ったことの方が驚きだったわけで、仕方ないといえば仕方ないのですが。Amazonで買ったタイヤとチューブの出番、というわけで、意地になって自分で交換しました(パンクしていない前輪まで替えた)。ブレーキワイヤーと、ブレーキパッドも交換した。グリップまで替えた。工具が必要になって新しく買いましたが。まったく・・・。

でもとにかく辿り着いたわけです。その事実が僕を高揚させている。さすがにその後一週間ずっと気分が悪かったのですが・・・。どれだけ寝ても眠い。お尻が痛い。膝は翌日には回復していましたが(これには自分でも驚いた。本当に機械なんじゃないか?)。何を食べても栄養が足りないような気がする・・・。

でもその後帰省途中に寄ってくれた宮田氏(東京在住の同級生)と一緒に海に行ったりして、リフレッシュできました。なんとかこの土地で、自分のやりたいことを追求していきたいと思います。その先に・・・本当の自由が待っているはずだ、と信じて。では、みなさんも、お元気で。

追記:ちなみに真似されようとする方には、僕の場合「天候に恵まれた」ということを伝えておきたいと思います。プラス、パンクもしなかった。ママチャリで走破するのは、やはりリスクが付きまとうみたいです。それでもなお経験したい、という方には・・・僕は反対する権利を持っていないような気がする。あくまで自己責任でお願いします。車にも轢かれないようにね。今度はロードバイクを買おう。でもどうやって稼ぐかな。まったく・・・。

数日後に撮った4号線。あまり情緒は・・・ない、かもしれない。はい。
海を撮っている自分、を宮田氏が撮ってくれた。海は広くて何もないです。この日は天気も良かったな。ここから未来が開けていくはずだ、と信じています。そのためにもちょっとずつ進んでいかなくちゃね。

さらなる追記:さっき思い出したのだけれど、途中深夜のコンビニで聴いたNHKのラジオは心に沁みました。なんということもないごく普通の定時ニュースだったのですが・・・プロフェッショナルなおじさんの落ち着いた声を聞いていると、ああ、世間は普通に活動を続けていたんだな、と身を持って実感することができました。それだけ孤独だったということか・・・。自ら求めたとは言え、一人ぼっちで深夜のコンビニの駐車場で飯を食っているというのは、やはり身に(心に)こたえるみたいです。でもまあたまにはああいう孤独もいいかもしれないな、とは思うのですが・・・。

閖上〈ゆりあげ〉の海岸の流木。
村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

1件のコメント

  1. 34時間余りお疲れ様でした。そしてお帰りなさい ですね。
    読んでいて、自分の人生の主人公はやっぱり自分なんだ という思いを抱きました。
    前に進んでいく村山さんに敬意を表します。同じ宮城人として、良い宮城生活になることお祈りしてます。

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