仙台から栗原の実家まで(夜中に)走って帰る(69.48km)

僕は生まれてから24歳まで宮城県民だった。その後7年間の東京生活を経て、去年(2023年)の5月に、また仙台に戻ってきたわけだ。生まれたとき両親は仙台市泉区に住んでいて、僕が3歳の頃に宮城県の外れにある栗原郡一迫いちはさま町の父の実家に戻った。そこは現在合併をして、栗原市となっている。宮城県北部、岩手県との県境に位置している。だから仙台からは結構距離がある。かつては高速バスか、車に乗って行き来していた。高速に乗って一時間ちょいの距離である。はい。

実は2023年5月に帰ってきてから一度も栗原市には帰っていなかった。この前帰ったのはまだ東京時代の去年の1月である。その当時のことについては別の記事で書いたのだけれど、まさか自分が仙台に帰ってきて暮らすことになるなんて考えてもいなかった。だからものごとの(人生の)流れというのは不思議なものである。でもまあ、やっていることは変わらない。アルバイトをして、走って、筋トレをして、小説を書くのである。はい。

しかしさすがに今年94歳になるじいちゃんに顔を見せておいた方がいいだろう、という気持ちもあって、お正月の休みを使って、帰省することにした。しかし休みは1日だけである。コンビニバイトなので、年中無休(もちろん個人的には週に一回休みはあるけれど)。プラス、31日、1日、2日と連続で臨時のロング勤務が入っていたので、結構疲れている。しかし疲れがなんだ、と自分に言い聞かせ、2日の夜、というか正確には3日の水曜日の午前0時27分に出発した。なぜそんな時間に出発しなければならなかったかというと・・・もちろん走って帰るためである。ほぼ70kmの道のりを走って帰ったらどんな気分がするのだろう、という好奇心を抑えることができなかったのである。

たしかにこれまでもずっと似たようなことをしてきたので——高尾山から新宿まで歩いたり(40kmほど)、一人で浅川から多摩川まで走ったり(往復で42kmほど)、そして自転車で東京から仙台まで帰ってきたり(378kmほど)——似たような傾向があることは自分でも把握していた。つまり定期的にすごく長い距離を自分の力だけで移動したくなってくるのである。これはあるいは一種の精神疾患なのかもしれない。なんと呼べばいいのかは分からないけれど・・・(長距離中毒?)。でも本当の長距離中毒者はもっともっと長い距離を走る。ウルトラマラソンだってあるし、山岳レースみたいなものもある。実はテレビでそういうのをやっていると、ついつい観てしまうのだけれど・・・。

いずれにせよ今回僕が走ろうと思ったのは、南仙台駅近くのマンションから、栗原市一迫の実家までの69.5kmほどである。以前試しにGoogle Mapsで測ったときは、80kmほどだったと記憶していて(たぶん僕の設定がおかしかった)さすがにこの距離は走って帰るにはきついかな、と思っていた。でも今回あらためて計算してみると、70kmもないのである。え? という感じだった。それなら走って帰れるじゃん、と。自転車だときっとあっという間に着いてしまって、退屈だろう。僕は故郷が嫌いなわけではないのだけれど、結局のところどこにいても自分を動かしていないと心底退屈してしまうのである。だからバスで行って、あっちでまったり餅でも食って・・・という選択肢は最初からなかった。自転車か、走るか。その二択である。そして今回、僕は自分の足で走ってそこまで行くことを選択した。

きちんと眠って、朝に出る、という選択肢もあったのだけれど、どうしてか夜通し走るという行為に魅力を感じてしまった。朝日が出る頃に着いたらきっと素敵じゃないか、と僕の単純な心は思っている。70kmだろ? キロ6分半くらいのペースで行けば、休憩も入れてまあ8時間くらいで着くじゃないか? あっちに着いてから寝ればいいさ。どうせ出発前は興奮してうまく眠れないんだし・・・。ということで、三連続ロング勤務を終えて(夜10時までバイトだった・・・)、2日の夜、シャワーを浴びたり、飯を食ったりしたあとで、胸と腕にライトを着けて、出発したのであります。

太子堂か長町か、そのあたりだったと思います。まだまだ先は長い。夜中なので、車も少ないです。

走りながら、なんだかこれは画家の中園孔二こうじみたいだな、と思っていたことを覚えています。中園さんは僕より二つ年上くらいの方で、25歳で亡くなった。自殺したのではなくて、どうやら事故だったようだ(四国の海で行方不明になり、一週間後くらいに発見された)。夜に一人で森に入ったり、海を泳いだりするのが好きだった、という話をされていて(You Tubeにインタビュー動画がある)、闇の中にある〈普通の人が近付かないようなところ〉に興味を惹かれるタイプの人だったみたいだ。この人は本当に素晴らしい絵を描いた。全然アカデミックな感じがなくて(もちろん良い意味で)自由に、しかし描くべきことを描いている。人間の共通の心の闇を独自の視点から切り取るような、そんな絵だ。僕らはこんな見方もあったのか、とハッと驚くことになる。同時代性(要するに肩肘張っていないところ)もまた彼の魅力である。描くという行為が呼吸のように自然だったのだろうな、と僕は想像する。もちろん彼にしか分からない苦悩なんかもあったに違いないのだが・・・。

まあ僕が考えていたのは、自分が彼に匹敵するような芸術家である、とかそんなことではなくて(そんなことは口が裂けても言えない)、あくまで似たような興味を抱いているのかもしれないな、ということです。闇。普通の人がやらないようなことをやる。執拗に・・・。僕は一人でひたすら走っていただけですが。はい。

仙台市を抜けるまでが長い。バイトでずっと立ち仕事をしていたあとだし、眠ってもいないので、身体が重い。財布を持つと重いからどうしようかな、と思っていたのだけれど、途中警察に身分証を見せろと言われたら困るなと思って、一応ジップロックに入れて腰のベルト(Flip Beltというやつ。便利です)に入れておいた。思っていたほど揺れたりしないので、これはまあさほど邪魔にはならない(結局職質はされなかったけれど。警察もそんなに暇ではない)。ただ寒さを警戒して、上下ウィンドブレーカーなので、特に下が重い。いつもはアンダーアーマーのスパッツに、ランニングパンツ(短いやつ)を穿いて走っている。冬でもまあ、走り続けている限り、これでも暖かい。

広瀬川にかかる橋。この少し手前で、白鳥たちが盛大に騒いでいた。みんなで新年を祝っていたのだろうか・・・。仙台の街中にこんなに白鳥がいるとは知らなかったので、ちょっと驚いた。

駅前を抜け、さらに北へと進んで行きます。信号が多いけれど、適当に無視して(というのは忘れてください。はい・・・)どんどん走っていく。このあたりではたしかに少し足が重いけど、まだまだ大丈夫。キロ6分半くらいのペースで進んでいたと思う。これなら朝早く着いちゃうんじゃないか、とか思ったりして。

仙台駅前・・・は都会です。八王子より都会かも。

将監しょうげんトンネルは歩行者は入れないため、階段を上って、上に。住宅街の中を走ります。この辺で考えていたのは、最近原文で読んでいたジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』(『路上』)のことでした。たしか10年くらい前に日本語訳で読んだのだけれど、当時はよく理解できなかった。カウンターカルチャーの形成に一役買った、というようなことは知っていたのだけれど・・・。でもたしか一年半くらい前に、なぜかふっと、ああ、あれを原文で読んでみたいなと思ってAmazonで注文していたのでした。あの流れるような文体。そして勢い。熱い心持。そういったものはやはり原文で読まないとうまくキャッチできない、と思ったのかもしれません。それで、一年半本棚で眠っていたあとで(その間引越しを経験しましたが)、ようやく持ち主である僕に読まれることとなったわけです。

(僕が読んだのはオリジナルスクロール版じゃない方なのですが・・・。オリジナル版はたしか登場人物たちが本名で出ている。)

とにかく、そこにはジャック・ケルアックの分身とも言うべき(というかほとんど名前が変わっただけで本人の)サル・パラダイスという青年が登場します。ここでの「サル」は「猿」ではなくて、「サルバドール」の略です。ケルアック自身はフランス語系の名前なのですが(フランス系カナダ人の家系だった)、ここではイタリア系に主人公の名前を変えているのです。アレン・ギンズバーグや、ウィリアム・バロウズなど、後に有名になる作家・詩人たちも登場するのですが(名前は変えられている)、彼が一番心を惹かれているのは、明らかにディーン・モリアーティという年下の若者です。ディーンもまた「ニール・キャサディ」という実在した男の仮名です。ケルアックはニールにすごく心を惹かれていた。ニールはアル中の父親の元に生まれ、10歳で母親を亡くし、車を盗んだり、万引きをしたりで、かなり荒っぽい少年時代を過ごしたようです。少年院にも入ったし、後に刑務所にも入れられた。しかし知的好奇心が非常に強かったらしく、やがて育った土地のデンバーを出て、ニューヨークに旅行に行きます。ハル・チェイス(後に考古学者になる)という友人を訪ねるためだったそうですが、そこでケルアックやギンズバーグと知り合いになったそうです(彼らはコロンビア大学に通っていた)。荒々しい性格で、まったく落ち着きがないにもかかわらず、とにかくいろんなことを知りたがる。使いこなせない学術用語をちゃんぽんに使って、自分でも理解できないような理論を、滔々とうとうと弁じていたとか・・・。ある意味では精神的にかなり幼いとも言えるわけですが、彼の「知りたい」「生きたい」という欲求は、周囲のインテリ学生たちの心を刺激していきます。

彼が書いたという手紙が前書きで紹介されていたのですが、意味を構成する、というよりはとにかく奔流のように言葉が溢れ出てくるというか。それを自分でも制御できないまま吐き出さざるを得ないというか・・・。とにかく間違いや、わけの分からないところはいっぱいあったとしても、エネルギーだけは満ち満ちていたわけです。そのような文章に明らかにケルアックは影響されています(本人も認めている。その文体が『オン・ザ・ロード』を書くときに役に立ったと)。彼らは車に乗って、アメリカ大陸を移動し続けます。あっちに行ったり、こっちに行ったり・・・。金がなくなって働くことがあっても、大抵は長続きしません。すぐに辞めたり、商品の食べ物をちょろまかしたり・・・。なぜか男女三人が全裸になってフロントシートに乗っていたり。

あるいは出版された当初も「こんなのは文学じゃない」とか、お堅い大人たちには言われていたのかもしれませんね。たしかにお行儀の良い理論みたいなものは、ここには出てこない。移動移動移動。それだけと言えばそれだけなのだけれど、そこにたくさんの感情が詰め込まれている。結局ケルアックとニールが求めていたのは、人生そのものだったのだと思います。それを十全に生きること。彼らはどうしても定職について、コツコツと真面目に働き続ける、という生き方ができない人たちでした。ドラッグや、酒や、女性や・・・。目の前の快楽に翻弄されている、という面もまったくないわけではない。でも彼らの中心にあるのは、やはり「経験してみたい」というシンプルな熱意だったのだと思います。そういえば僕が買ったペーパーバッグ版の裏表紙には、ボブ・ディランのコメントが載っていて(「これは俺の人生を変えた——ほかのみんなの人生と同じようにな」)、それだけを見ても、どれだけ当時影響力があったのかが分かります。ヒッピーたちはこの本を読んで、彼らのようなワイルドな生き方に憧れたのでしょう。後先のことを考えず、今生きること。ケルアックのジャズに関する描写を読んでいると、その辺の熱さが伝わってきます。それを読んでいると、すごく自分も音楽をやりたくなってくる(音楽をやりながら、「瞬間を生きる」という行為がいかに素晴らしいかが、フィジカルに伝わってくるのです)。そのように読者に思わせることができるというのは、文章家として、一つの立派な達成なのだろうと僕は思う。

とにかく僕は仙台市泉区あたりを走りながら、その本のことを考えていました。あの中で主人公はいつも移動している。そして自分も一緒だな、と。定職に就くことができずに、何かを求めて彷徨さまよっている。それはおそらくは・・・目に見えないものだ。ジャック・ケルアックとニール・キャサディが求めていたのもきっとそれだったんだろうな、と僕は思う。彼らは二人とも40代で死んでいる。アルコールとかドラッグとか、かなり滅茶苦茶な生活をしていたから、その報いが来るのは当然と言えば当然のことだった。それでも彼らはもしもう一度生きられたとしたら違う生き方を選ぶだろうか? 分からないな。その仮定そのものがあり得ないことだからだ。僕らは一度きりの人生を生きている。決してほかの人生と比較することはできないのだ。なぜなら時は過ぎ去っていくからである。考えてみれば当たり前のことなのだけれど、なかなかこういうことって普段は意識することは少ない。誰々に比べて劣っているとか、今は時代が悪いとか、環境さえ良ければ、とか・・・大抵は言い訳に過ぎないんだろうな、と僕は思う(これは自戒である。もちろん)。きっとあとになって後悔しないように、今できることを、精一杯やるべきなのだ。僕はそんなことを思いながら、ただ、走り続けている・・・。

仙台放送。中二のときに、研修でここに来た。同級生たちはテレビに出ているアナウンサーさんを見て、騒いでいた。あれから19年か・・・。速い。あまりにも、速い・・・。
泉中央駅のあたり。

ようやく仙台を抜ける。あたりはまだ真っ暗である。富谷とみや市に入って、25kmくらいの地点で、コンビニに寄る。最初は40kmまで無補給で行こうとか、無謀なことを考えていたのだけれど、無理だった・・・。痩せ我慢はやめて、おとなしく水分を取ろう。トイレにも行く必要があるし。夜中で、ほかの客はいない。スポーツドリンクと、ゼリー飲料と、カロリーメイトを買う。それを外で補給する。しかし・・・寒い。一度止まると一気に身体が冷えてくる。こんなに寒いなんてな・・・。でももう後悔しても遅いので、急いでスタートすることにする。一度止まってしまうと、足が恐ろしく重い。でもなんとか一歩一歩踏み出していく。ここから先、これが僕のテーマになっていく。「一歩一歩」。ただそれだけを考えること。途中あまりにもきついときには、自分は意識であって、この肉体なんかとは全然関係ない生き物なのだ、と思おうとした。そうすると数秒くらいは楽になるのだけれど、すぐに苦痛が戻ってくる。人間というのはきっと総合的な生き物なのでしょうね。肉体も、精神も、両方とも大事なんだろう。今さら僕が言うようなことでもないのかもしれませんが。はい。

自分自身の反映を撮りました。光っているのは僕の魂です。というのは嘘で、ただのLEDライトです。充電式。

このあとは・・・正直面白いこともないです。仙台市泉区を越えたあたりで、国道4号線に入り——僕が東京から帰ってくるときにひたすら辿っていたあの4号線(の続き)です——そこをひたすら北上する。車は数は少ないけれど、走っている奴らはビュンビュン飛ばす。まあ別にいいんだけど。それを横目にチンタラチンタラ走る。どんどんペースは遅くなっていく。もはや早く着こうなんて気持ちはなくなってしまっている。とにかく生きて帰り着きさえすれば成功だろう、と。でもだんだんそれも心配になってくる。

富谷から大和たいわ町に入ったあたりで、たしか雨がパラついてきたような気がする。おお、マジか! と思いながら走っていました。予報ではずっと曇りだったはずなのに・・・。でも幸いにも、すぐに止んでくれました。僕はひたすら進み続ける。そういえばその辺の道は、以前、東京に来る前に、よく車で通っていたところでした。大学を卒業し、仕事もせず、実家でぶらぶらしていたときのことです。図書館に通い、ランニングをし、家事をし・・・まあそういうことはやっていたのですが、仕事をしていなかった(すみません)。でもあの頃は仕方がなかったのです。生きている理由がよく分からなかったのだから。そんなときにたまに車に乗って、高速に乗らずに、仙台までやって来ていたのでした。都会の空気を吸うことが必要だと思ったのかもしれません。いずれにせよ音楽を聴きながら、そのときもただ「移動」していた。俺の人生どうなるんだろうな、と思いながら。こんなことをしていたら、本当に駄目になってしまうかもしれない。どこにも進めず、何をしたら良いのかも分からない。でも一番は、自分を信じられなかったことが問題だったのだと今では思います。僕は自分は駄目な奴なんだ、と一人で決めつけてしまっていた。それはそれでなんとなく「ポーズ」としては様になっているのですが、要するに責任逃れです。持って生まれたものを生かそうとするのを最初から諦めてしまっている。それでは生きていて面白くないでしょう。でもまあ、とにかく、そのときその道路を走りながら、ああ、あのときのことをつい昨日のことのように思い出すなあ、と思っていたのであります。はい。

果たして僕は成長したのか? それはよく分からない。でもとにかく32歳になった今も生き延びて、こうして70kmを走り通そうとしている。それは一つの達成ではないのか? いや、よく分からないな。いまだに職業的小説家にはなれていないのだから。アルバイトをして、カツカツの生活をして、将来の展望も見えず・・・。でもまあやはり一日一日、こうやって生き続けてくるしかできなかったのだから仕方ないよな、と途中で諦めました。東京に出たあたりから、僕は少しでも日々成長しよう、と思って生きてきました。ときどき自暴自棄になったりもしましたが・・・とにかく「外側に何かを求めるのをやめて、自分自身に期待しようや」という姿勢を取ろうと決めた、ということです。それからはそんなに人生に絶望したりしなくなったような・・・気がしています。決して明るく、ウホウホと、元気なマウンテンゴリラのように生きているわけではありませんが(マウンテンゴリラさん。ごめんなさい。あなたたちにもきっと悩みがあるのですよね。そのことは分かっています。はい・・・)。

いずれにせよ言いたかったのは、以前に比べて、ちょっとだけ僕はポジティブになったのかもしれない、ということです。そしてその「ポジティブさ」の表し方が、僕の場合「長距離を走る」ということになってしまうわけなのです。この辺は一般の方々にはご理解頂けないかもしれませんが・・・。まあ理解されなかったとしても、僕は走ります。なぜか走り通すことが重要な気がしたからです。自分の人生にとって、です。途中あまりにも退屈だったので、音楽を聴くことにしました。イヤホンと、スマホのバッテリーのことを考えると、我慢すべきだったのかもしれませんが、意識が悲鳴をあげていました。少しでも膝の痛みから注意を逸らすこと。それだけでも意味があるのではないか・・・? 結局録音していたラジオ番組を聴いていました。ピーター・バラカンさんの番組(Barakan Beat)。途中「名盤片面」のコーナーで、Matthew Halsall(マシュー・ハルソール)というジャズトランペッターの”Ever Changing View” というアルバムが紹介された。それはすごく良かったです。2023年に出たもの。「スピリチュアルジャズ」と呼ばれていると言っていたけど、まあたしかにジャンル分けが難しい種類の音楽だと思う。でもとても良い。聴かないとどんなものか分からないので、よろしければ聴いてみてください。それを聴いていると、心が少し楽になった。本当に。

マシューさんの音楽がかかっているときに、ちょうど工事区域に足を踏み入れた。結構長い区域で、緑のランプが光り、消え、今度は赤のランプが光り、消え・・・という動きを繰り返していて、それが完全に音楽とマッチしていた。なんだか不思議だなと思いながら——ちょっとニヤニヤしながら——走っていました。ただそれだけです。はい。

ちょうど42km地点を越えたあたりで、日が昇ってきました。東の空が赤く染まり・・・なかなか美しい光景です。僕は足を引きずるようにして走っていました。マガモが一羽だけ、群れからはぐれて、寂しそうに飛んでいました。「カモひとり 二日遅れの 初日の出」。これが僕の今年の俳句です。疲れていたから許してください。これが写真です。

カモは画面左端の方に飛び去ってしまったあとでした・・・。

42kmを越えて走るのは人生で初めての体験です。だからちょっと心躍った、ということはあります。たしかに。でも実際には、残り27kmもあるわけです。だから喜んでいる場合ではない。もうこのあたりに来ると、足が重過ぎて、普通の人の歩くペースくらいでしか走れなくなってしまっていました。一歩一歩、とにかくしつこく、辛抱強く進んでいくこと。それしか考えられませんでした。

50km地点ほどで、またコンビニに寄りました。大崎市古川。よく車で買い物に来ていた街です。僕が住んでいた栗原市よりは少し大きい。今度は反省を生かして、カップ味噌汁で水分を補給する。菓子パンも食べる。とにかくエネルギーを補給しなければ・・・。そのあたりで宮田氏から連絡が来る。彼は心配してくれていた。「生きてるか・・・」と。僕は足が重いけど、ようやく50km地点まで来た、というような返信をする。みんなを心配させているわけにはいかない。ほら、頑張るんだ。足をちょっとずつ前に出せばいいんだから・・・。

江合川。さびが良い味を出しています。
さびのアップ。
これも川。

そのあと「村上Radio」も聴く。バッテリーはどんどん少なくなっていくけど、そんなことを気にしている場合ではない。なんとか正気を保っていなければ・・・。そういえば僕の使っているランニングアプリでは、5キロごとに総距離と、ここまでかかったタイムと、キロあたりのペースを教えてくれるのだけれど、それがアナウンスされる間隔がどんどん長くなってきていた。つまり進めば進むほどペースが落ちていって、なかなか5キロ進まない、ということですね。え? まだアナウンス流れないのか、とか思っている。もうさすがにあれから5キロ進んだだろ・・・というように。でもスマホを取り出してみてみると、まだ1.7kmとかしか進んでいない。まったく。いったいあと何時間かかるのか・・・。

それでもなんとか歩かずに走り続けていました。かろうじてぴょんぴょん飛び跳ねている。そういえば大崎市古川を過ぎたあたりから国道を離れて裏道に入ったのだけれど(そっちの方が距離が近い)、その辺は林の中を進むようなところで、二回ほど「熊注意」の看板を見かけた。最近ニュースでよくやっていたものな。熊被害が増加しているって。ドングリが凶作なのだ。今年は。こんなペースでよろよろと進んでいる弱った男なんて、格好の餌食じゃないか、と思いながら進み続ける。もし来たらパンチしてやろうと思っていたのだけれど(動物愛護的観点からすると正しくない。すみません・・・)、ありがたいことにそのような事態は発生しなかった。別の場所には「イノシシ注意」の看板もあったけれど。ビルの立ち並ぶ仙台からずいぶん離れてきたんだな、と実感する。

こんなところを走っていました。左側は東北自動車道。
例の看板です。はい・・・。
これは殺戮現場と被害者の手。良い子は見ないでくださいね。
ようやく栗原市に入る。とても嬉しかった・・・。
そしてさらに栗原市一迫いちはさまへ。ここが厳密にいえば僕の故郷ということになる。

村上Radioを聴いているときに、ある大学生の方からのメールが紹介された。大学に行く気になれず、ぶらぶらと散歩をしていると、街行く「目的地を持った」人々とは自分の歩くペースがずいぶん違うことに気付かされた、というような内容だったと思う。実を言えば僕も昔まったく同じことを感じていました。みんなそれぞれの目的地にまっすぐ向かっている。でも俺は・・・? 俺には目的地がそもそもないじゃないか? どうして俺だけが・・・。

正直本質的にはいまだにあまり状況は当時と変わっていないような気がする。周囲のペースに馴染めず、日々、彷徨さまよっている。でも今の僕だって、きっとバイトに遅れそうになりながらひたすら自転車を漕いでいるところとかは、「目的地を持った」人に見えるだろうな、と思う。それはまあ仕方のないことです。バイトのときは——しょうがないから——バイトのことを考える。自分の魂の欠落みたいなものについて考える時間は、そのために特別に用意してやらなければならないのだと思う。なんというのかな、「目的地にまっすぐ向かう」という場面と、「目的を探して彷徨さまよう」という場面とを、一日の中で使い分けるというのか、そういう状態を作ることが必要な気がしています。これはあくまで僕の場合ですが(僕はそもそも何も成し遂げていないし)。つまり以前ほど「正常な人々」と自分との間に超えがたいはっきりした壁がある、とは感じなくなっているということかもしれませんね。いや、壁はあるんだけど、それが動き続けているというか・・・。正常な人も実はかなり異常な部分を持っているというか・・・。そう簡単に断言できなくなってきた、というのが正しい言い方かもしれない。僕はなんとなく、それを聴いて「うんうん。よく分かるよ。でもやっぱりその孤独の中で生きていく方法を見つけなければならないのかもな」とか思っていました。これは勝手な意見ですが。はい。

まあ少なくとも今回の僕には目的地があります。それはちょっとずつちょっとずつ近付いている。膝が痛い。ふくらはぎが痛い。ハムストリングが痛い。腕を振っているから肘も痛い。どこもかしこも痛い。通り過ぎる車のドライバーたちは、いったいこいつは何やってるんだ? と思っていたことでしょう。お正月に、一人で、歩くようなペースで、苦悶の表情を浮かべながら走っている。いやいや。でも自分にとっては重要なんです。歩かずに走って目的地に辿り着くことが重要なんですよ。なぜかって? 走り切ろうと自分で決めたからです。ちょっときついからってやめるわけにはいかないんですよ。

最後はもう意地になって走り続けている。もう本当に死にそうになったら歩こう、と決める。でもそう思うと、そのポイントはやって来ない。田んぼに囲まれた道を進む。かつては車でよく通っていた道だ。一歩一歩。そう、二歩は一気に進めないのだ。人間は時を所有していると思い込んでいる。でもそんなのは幻想だ。我々は常に瞬間を生きているのだ。肉体はれ物に過ぎない。我々は精神であって、それは・・・いつも、絶え間なく、このようにして、移動しているのだ・・・。

残り5キロ地点くらいで、最後の休憩をした。自動販売機で、飲み物を買う。さすがに水分とエネルギーを補給しないと、死んでしまうぜ・・・。身体が冷える。でももうちょっとだ。あと5キロ。あと5キロで・・・。

ご先祖様のお墓があるお寺の下を通り(お寺は高いところにある)、謎の石碑の前を通り(たしか菅原道真みちざねまつられていたような・・・)、同級生の家の前を通り、かつてアイスを買った今では閉まってしまっている商店の前を通り(そういえば昔ここでよく吠える犬を飼っていて、小学校低学年の僕はいつも怯えて通っていた)、地区の集会所の脇を通り、遠い親戚のおばさんの家の脇を通り、坂を上って、かつては「黄色い橋」だった今では白い橋を渡り・・・そして、ついに実家が見えてきた。

謎の石碑。
かつては「黄色い橋」だった今では白い橋。小学生の頃の話だけれど、ここで釣りをしていた子たちに混じって、僕も竿を握らせてもらった。魚がかかった! と思って興奮していたら、ただ石に引っかかっただけだった…。残念。そのときには大きな鯉が泳いでいた。

なんとか足を前に踏み出しながら、ようやくゴールしました。結局着いたのは午前10時44分。10時間17分かかって(休憩込み)到着したことになる。いやあ疲れた。まあ達成感は・・・あったかもしれない。無事じいちゃんにも会うことができたし——「走って帰った」とは言わなかった。びっくりして心臓発作でも起こされたら困るから——とりあえず生きてはいるし、良かった良かった・・・。しかし一睡もしていないから眠いし、身体が脱水症状を起こしていた。まずいまずい。プラス、なぜかこの経験を英語で記事にしてみたい、という謎の衝動に駆られ、翻訳アプリを使いながらその作業もこなさなければならない・・・。忙しい忙しい。

おじいちゃんが吊るした干し柿です。このアングルは我ながら良いと思う。

結局一泊させて頂いて——美味しいものもご馳走になって——翌日朝早く、高速バスで仙台に戻ってきました。一時間くらいで仙台駅に着いてしまう。まったく。文明の利器はすごいぜ。昔はみんな歩いていたんだよ・・・。それでもやはり、自分の力だけであそこまで辿り着いた、というのは謎の自信につながっています。本当はこれがお金に結びつけば一番良いのですが・・・。あまり根拠はないのだけれど、これだけ辛抱強く、何かをコツコツと続けることのできる能力があれば(つまり今回は「足を一歩ずつ前に出し続けること」)、世俗的に成功することだってできちゃうんじゃないか、という気がする。まあお金が入ったところで、心が空虚なら意味がないわけですが・・・。

と、いうのが今回の経験の詳細であります。とりあえずやり遂げたのだから、今年一年、このモーメンタム(勢い)でなんとか良い方向にいかないかな、と期待しております。そううまくは行かないか。とにかく一歩一歩ですね。あまり欲張らないこと。大事なことはいつも、瞬間の中に宿っている。なんとなくそんな気がしますね。偉そうなことは言えませんが。それでは。みなさん。お元気で。

注:真似をされる方がいるとは思えませんが、とりあえず言っておくと、僕は短いながらも、週に5日ほどランニングをしています。最近は一週間で30kmほどでしたが・・・。とにかくそれでも結構心臓の鼓動は速くなった(つまり70km走ったあとのことです)。普段あまり運動をされていない方が急に長距離を走ったり、歩ったりされると、かなり心臓に負担が来ます。人づてに聞いた話ですが、若くして長距離を移動したあとに、心臓に異常をきたして亡くなってしまった方もいます(その人は自衛隊所属だった)。だからもし70km走りたいという方がおられましたら、少しずつ距離を伸ばしていくことをお勧めします。そして実際にやるときは自己責任です。僕は「潤い音頭」を踊ることくらいしかできません。これを踊るとお肌がピチピチになるのですが・・・。以上。失礼しました。

追記:実はその四日後の1月7日(日)に、ばあちゃんの三回があって、また実家に帰りました。今度は自転車で。朝6時半に出て、午前11時10分に着きました。4時間40分かかった。自転車は楽ですね。疲れるけど——もちろん。今度は違うルートを走ったから75kmあった——少なくとも自分の足で走るよりはずっと負担が少ない。たとえば急な坂道があったとしても、自転車だと一気にのぼり切ってしまえば、あとは必ず下り坂が続く。そのときに脚を休めることができる。でもランニングの場合は・・・負担から逃げることができない。というかその点こそがランニングの肝だとも言えるのだけれど。

仙台の朝焼け
白鳥たちがたくさんいました・・・。すごくたくさん。

結局さらに同じ日の夕方に自転車で帰ってきたので(そうしないと翌日の仕事に間に合わない)、行きと帰り、それぞれ75kmで、1日で150km走りました。いやあ・・・寒かった。途中雪も舞っていたしな。そして腹が減った。「何をやっているんだろう?」とときどき思うこともありますが、まあこれが自分の性格なのだから仕方がありませんね。でも何かに挑戦して、それをやり遂げる、ということ以外に面白いことを僕は知らない。やっぱり現状に留まったままでいると、ちょっとつまらないですよね。そして自分に何かを求めないと、つい外側に空虚さを埋めるものを求めてしまうことになる(これは自戒です。はい・・・)。自分を動かす、ということにフォーカスすれば、あんまりお金はかからないんじゃないか、という気がする。まあケースバイケースですが(そういえば僕は重いママチャリを必死に漕ぎながら、もっと軽い高い自転車が欲しい・・・とずっと思っていました。だからお金がかかるケースもある)。いずれにせよ、やっぱり分かり切っていることをやっていたら、きっとつまらなくなってくるんでしょうね。人間の精神は。というか少なくとも僕の精神は、ということですが。

川。空。この写真の左側には大崎平野が広がっていて、平らでこの辺は走りやすかったです。でも昔の人たちはこれだけの広い土地を田んぼに開墾していったんだなあ、と思うと、ちょっとした感慨に打たれました。田植えも稲刈りもきっと手でやっていたんだよなあ。人間が生きるという行為はすごいです。たしかに。

ということでまたいつものルーティーンに戻ります。皆様、お元気で。それでは(左膝が痛い。でも頑張ろう。そのうち治るはずだから・・・)。

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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