「なに? ゴリペイが使えないだと?」
「ええ。申し訳ありません。そのようなサービスはうちでは扱っていないんです」
彼はレジの前に並べられた三本入りのバナナ(エクアドル産)と、豆乳バナナスムージーを見つめた。そして一度財布の中の現金を数えた。しかしそこに数円しか入っていないことは、その音からも明らかだった。
「しかし現金がない」と彼は言った。三十代前半くらいの、細身の男だった。色白で、髪の毛が短い。一見大人しそうに見えるのだが、そのしゃべり方が度を越して奇妙だった。あるいはこの男は生まれる時代を百年くらい間違えたのではないか?
僕はできるだけ申し訳なさそうな顔をしながら――コンビニでバイトをしていると自然にこの表情が身に付く――彼が早くあきらめて帰ってくれるのを期待していた。というのもレジの前には長蛇の列ができていたし、みんなのじりじりと苛立っている気配がこちらにまで伝わってきたからだ。
「もし現金がないのであれば、商品をお戻ししますか?」と僕はおそるおそる訊いた。
「いや、俺はなんとしてもこのバナナを食べなければならない。それはたしかなことだ」
もっとも「たしかなこと」と言ったって、お金がないんじゃ仕方ないじゃないか、と僕は思った。そこでそう言おうとしたのだが、彼が突然遮った。
「そうか。分かったぞ。チャージしてから使えばいいんだ」
「ええと、どの電子マネーにチャージされるのでしょうか?」
「だから言っただろう。ゴリペイだ。それしかあるまい」
「だからそのような・・・」と僕が言いかけた瞬間、彼はおでこに皺を寄せて、こちらに近付けてきた。一体何をしようというのだろう?
「早く読んでくれ」
「読んでくれ、って一体何を?」
「だからこのバーコードを読んでくれよ」
「どこの?」
「おでこだよ!」
僕はなんとか平静を装いながら、そのバーコードを読んだ。すると予想外にもレジが反応した。「残金がゼロ円です」とそこには出ていた。
「やはりゼロ円だったか」と彼は言い、財布の中から二円を出した。
「ほら、チャージだ」
「あの、千円単位でしかチャージできないんですが・・・」
「いいからチャージだ。二億円。二億円チャージしてくれ」
僕は面倒くさくなったので、とりあえずその二円をレジに入れた。そしてもう一度おでこの皺をスキャンしてみた。すると即座にまた反応した! 「二億円チャージされました」という表示が画面には出ていた。
「それでいい」と眉をしかめながら彼は言った。「続けて支払いもしてくれ」
僕は言われるがままもう一度バーコード・・・ではなく皺をスキャンした。すると無事に支払いが済んだことが分かった。
「とりあえず大丈夫みたいです。持っていっていいですよ。あ、袋に・・・」
「袋は要らない」ともうしかめなくてもいいのに、眉をしかめ続けながら彼は言った。「ゴリラシティでは誰も袋なんか使わない」
ゴリラシティ? と僕は思った。こいつは何のことを言っているんだろう?
彼はひったくるようにバナナとスムージーを手に取り、その場をあとにしようとした。でもすぐに何かに気付いたように戻ってきた。
「なあ」と彼は小声で――とはいっても飛行機のエンジン音くらいはあったが――言った。「ここにゴリラポリスは来るか?」
ゴリラポリス? 「いや」と僕は言った。「そのような方は見たことがありません」
「そうか」と言って彼は帰っていった。僕(と店にいたほかのすべての人たち)はほっと息をつき、普段の日常に戻っていった。あれは一体何だったんだろう、と終始僕は考え続けていた。でも忙しさにかまけて、次第にそんなことは忘れてしまった。もう一度彼がやって来たのは、その数カ月後のことだった。
「なあ、バナナポイントは付くのか? それとも付かないのか?」と彼はほかの店員に対して言っていた。店員の女の子は怯えたような表情で、僕に助けを求めてきた。
「お客様」と僕は即座に前に彼がやって来たときのことを思い出して言った。「バナナポイントは付きます。百万倍付きますよ」
「そうか、百万倍付くのか」
それは嘘だったが、こうでもしないことには彼が納得しないことを僕はよく知っていたのだ。彼はまたバナナを持って来ていた。
「このバナナはちょっと鮮度が良くないな。でもまあ仕方あるまい。またゴリペイで払おう」
彼はそこでまた額に皺を寄せてこちらに近づけてきた。僕はおそるおそるそれをバーコードで読み取った。画面には「エラーが発生しました」と出ていた。
「どうもエラーみたいです」と僕は言った。
「なに? エラーだと。そんなはずはない。もう一度読んでくれ」
そこでもう一度やってみたのだが、やはり同じような表示が出るだけだった。「エラーが発生しました」
そのとき店内が突然暗くなった。もっともそのことに気付いているのは僕と、彼だけのようだったが。ほかの従業員も、客も、一切慌てる素振りを見せなかったからだ。
「ゴリラポリスだ!」と彼は叫び、突然床にしゃがみ込んだ。僕もまたとっさに頭を抱えてしゃがみ込んだ。ゴリラポリスとは一体どんなものなんだろう、と思いながら。しかし何事も起きなかった。変な音もしなかったし、ゴリラがやって来る気配もなかった。客の他愛のない会話が聞こえてくるだけだ・・・とそのとき、それが日本語ではないことに気付いた。というかどのような言語でもない。どちらかといえばゴリラの鳴き声のようなものだ。僕はカウンターから頭を出し、店の様子を見てみた。するとそこで買い物をしていたのは、たくさんのゴリラたちだった!
「ゴリラシティにようこそ」と彼が言うのが聞こえた。
僕は自分の腕を見つめた。そこにはたくさんの毛が生えていた。まるでゴリラのような。これは夢であるに違いない、と僕は結論付けた。でなければ誰かがしかけた大掛かりな冗談か。
「これは夢でもなければ、冗談でもない」と彼が言った。見ると彼は今や立派なゴリラになっていた。「これが真実だ」
僕は茫然とそこに立ち尽くしていた。あの見慣れたいつもの世界はどこに行ってしまったんだろう、と思いながら。すると天井のスピーカーから小気味の良い太鼓の音が聞こえてきた。アフリカのものだ。僕は自然にそのリズムに合わせて身体を揺らしていた。店内にいたほかの客たち――みんなゴリラになっていたが――も同様だった。これはこれで悪くないな、と僕は思った。
「なあ」と商品の缶チューハイ(梅干し味)を勝手に開けながら彼が言った。「これも悪くないだろ?」
僕は彼に手渡されたチューハイを一気に飲み干し、そして力強く踊り始めた。太古の踊りだ。人間の世界なんか知ったことか。ゴリラポリスなんか地獄に落ちてしまえ。ゴリラポリス? と僕は思った。そういえばゴリラポリスはどこに行ったのだろう? 彼らがやってきたからこそ、僕はカウンターの下に頭を伏せたのに。
あるいはそのあたりに何かがいるかもしれない、と思って僕はもといた場所に戻ってみた。そしてしゃがみ込み、暗い、ゴミ箱の下あたりを覗き込んだ。
「誰かいますか?」
でもそこには誰もいなかった。あったのはバナナの皮だけだ。僕はそれを引っ張り出し、光のもとでもっと詳しく調べようと立ち上がった。すると気付いたのだが、さっきまでいたゴリラたちはみないなくなっていた。いや、いることはいるのだが、全員白骨となっていたのだ。骨の山が床にうずたかく積まれていた。僕はただそれを見ていた。太鼓の音も今では止んでいた。すべてがその静けさの中に吸い込まれてしまいそうだった。僕はバナナの皮を見た。でもそれは単なる皮に過ぎなかった。中身が抜き取られている。
中身が抜き取られている、と僕は思った。それはまさに僕の人生そのものじゃないか。
僕はバナナの皮を投げ捨て、その白骨の山の前に行った。そして手を合わせた。なぜかそうした方がいいような気がしたからだ。そのとき店の入り口が開いて、ゴリラポリスたちが入って来た。何万という大群で入って来た。でも僕は微動だにしなかった。というのも今本当に大事なものを前にしていることを知っていたからだ。肉体なんて皮に過ぎないのだ、と僕は思った。というのもそれは単なるこの世のものだからだ。僕は動きであり、流れだ。質量を持たないものだ。どうして今までそのことに気付かなかったのだろう?
ゴリラポリスが僕の肉体を棒のようなもので滅多打ちにするのが分かった。彼らは凶暴で、情けというものを知らない。ただ命令された通りに動く。しかし今の僕には痛くもかゆくもなかった。僕は――意識としての僕は――今空を飛んでいたからだ。そしてそこから世界を見下ろしていた。すぐ近くに例のあの彼がいることが分かった。彼もまた空を飛んでいた。そしてしかめつらをしながら下の光景を見下ろしていた。
「いいか? ゴリペイで買えないものは何もない」と彼は言った。
僕はただ頷いた。
「バナナポイントが付かない商品だってない。しかしこれだけは別だ」と言って、彼は例のバナナの皮の中身をポケットから取り出した。僕が店の中で投げ捨てた皮の中身だ。それはたしかにちょっとしたものだった。明らかに何か特別なものだ。
「これはすごいですね」と僕は言った。
「そうだろう? これはすごいんだ」と彼は言った。そしてそれを下に落とした。
やがて爆発音がして、ゴリラポリスたちが死んだことが分かった。しかしそんなのはただの肉体的なことに過ぎない、と僕も、彼も知っていた。ゴリラポリスが完全に滅びることはあり得ない。それは意識の発生と同時に、この世界に生まれたものなのだから。
だとすると、我々は何なんだろう、と僕は思う。でも彼はそんなことにはお構いなしに、空を飛びまわっている。自由で、何の制限もない空を。やがてまた太鼓の音が聞こえてくる。僕は身体を揺らす。彼もまた身体を揺らす。死んだはずのゴリラポリスたちもまた・・・。
しばらくして意識を取り戻したとき、僕はまだ店のなかにいた。もうゴリラも、白骨も、ゴリラポリスも、その死体もいない。普通の人間の世界の、普通の光景だ。人々はまるで当たり前のように買い物を続けている。僕は頭の奥で、あの太鼓の音を聞き続けていた。永遠に止むことはない。少なくとも生きている限りは・・・。