「昨日エアダスターを買った」と彼は言った。
「エアダスター?」」と僕は言った。「なんだそれ?」
「圧縮空気が入っている缶のことだよ」と彼は言った。「パソコンの調子が悪くてさ、それで調べてみたらどうも埃が詰まっているみたいだったんだ。それでそのエアダスターを買ったわけだ」
「それで掃除をするの?」
「まあね」と彼は言った。「おかげでパソコンがオーバーヒートすることもなくなった。キーボードのタッチも良くなった。それでさ、あれっていろんなところに使えるんだよね。プシューってやるだけで埃を飛ばしてくれるからさ」
僕はただ頷いた。
「それでいろんなところの掃除をしているうちに、これを使えば自分自身の埃をも飛ばすことができるのかもしれない、と思ったんだ。なにしろもう27年も生きているからな。きっと相当詰まっているはずだ」
「ちょっと待って」と僕は焦って言った。「君は本当にそんなことを思っていたのか? エアダスターで自分の中の埃を飛ばしてしまえる、と」
「いや、もちろん全部ってわけじゃない。なにもそこまでは思っていないよ。ただ少しくらいは飛ばせるかも、って思ったわけだ」
僕にはまだ承服しかねるところがあったのだが、ここは黙って頷いておいた。というのも話の続きが聞きたかったからだ。
「それでさ、自分の耳の中にエアダスターをプシューっと噴出すると、鼻の穴から何かが飛び出してきた。見るとそれは一人の小さな男だった」
「男?」と僕は言った。さすがに驚いていたのだ。「それは・・・つまり本当にあったことなのか?」
「本当の本当だ」と彼は言った。「これまで俺が嘘をついたことあったか?」
そこで僕は記憶を探ってみたのだが、たしかに彼が嘘をついたという記憶はなかった。なにしろ正直さを売りにしている男なのだ。「いや、ない」と僕はしぶしぶ言った。
「そうだろう」と彼はさも誇らしげに言った。「それで、だ。その男はまさに紳士、といった感じだった。黒いスーツみたいなのを着て、丸いつばのついた帽子をかぶって、ステッキを突いている。19世紀のイギリスの小説に出てきそうな感じだ。もっとも顔は完全に日本人だったがな。彼は俺を見るとこう言った。
『いや、どうも』とな。
それで俺はこう言ったんだ。『いや、こちらこそどうも』とな。
俺たちはそのあとしばらくじっと黙り込んだままだった。部屋にほかに物音はしない。チクタクという時計の音だけが聞こえている。俺はその間じっと考え込んでいたんだ。この男は果たして善きものなのだろうか、それとも悪しきものなのだろうか、とな。これまで自分の耳の奥に詰まっていた、という点からして、それほど善きものだとは思えなかった。かといってその姿を見ると、彼が何か悪いことをするようにはどうしても見えなかったんだ。それで結局そのどちらとも判断を下すことはできなかったってわけだ。そのとき彼が突然口を開いた。
『あなたはどちらなのです?』と彼は言っていた。
『あなた、って、つまり俺のことですか?』と俺は言った。
『そうです』と彼は言った。『あなたは善きものなのですか? それとも悪しきものなのですか?』
俺はじっと考え込んでしまった。というのも誰かにそんなことを訊かれたのは初めてだったからだ。俺は善きものなのだろうか、それとも悪しきものなのだろうか。それでこれまでの経験を全部思い出してみたんだが、どうも俺はその両方であるように思えた。 良いことも、悪いこともどちらもしてきたような気がする。しかしにもかかわらず、基本的には自分のことを良い人間だと思っている。俺はまさにその通りのことを彼に言った。
『ふうん』と彼はそれを聞いて言った。『あなたはそう思っている』と。
それを聞くと、俺はなんだか居心地が悪くなってきた。自分が自分のことを都合良く正当化しているみたいな、そんな気分だ。よく政治家なんかがやるじゃないか。分かったような、分からないようなレトリックを行使して、自己弁護をするんだ。どうも今は自分自身がそんなことをしているような気になっていたんだ。
そのとき彼が突然ステッキで俺の右膝をつつき始めた(ちなみに俺は床に膝をついていて、彼はといえば俺の手のひらくらいの大きさしかなかった)。彼は何度か探るようにそのあたりをつついたあと、こう言った。
『そう、このあたり・・・。あった。ここにあなたの悪の噴出口があります』
『悪の噴出口?』と俺は言った。『一体それは何なんです』とな。
すると彼は言った。『それはまさに悪が噴き出してくるポイントなのです。あなたは基本的には自分が良い人間だと思っている。まあそれは世界中の95パーセントの人たちが抱いている感覚です。自分は基本的には良い人間なのだ、と。しかし世の中から犯罪や、あるいは犯罪とまではいかなくとも精神的に卑しいと思える行為が消えることはありません。これまでもそうだったし、これからもそうでしょう。違いますか?』
おそらくそうだろう、と俺は言った。
『それはつまり、悪というものが固定されていないものだからなのです。たとえばアドルフ・ヒトラーは自分のことを善だと信じていました。あるいはかつて十字軍遠征に参加した兵士たちも。あるいは中国大陸で連合軍と戦った日本兵たちも。そうは思いませんか?』
基本的にはそういえるだろう、と俺は言った。
彼はよろしい、という風に一度頷いた。『にもかかわらず、というかだからこそ、結果的には悲惨なことがもたらされました。もちろんそれほど物事を単純化することはできません。世の中は計量化できない種々の矛盾で満ちています。なにしろ人間そのものが矛盾した生き物なのですから。
そこで、今あなたにお見せしたいのがその悪の噴出口なのです。私がこのステッキを力強く一突きすれば、ここからあなたの奥に潜む悪が一気に噴き出してくるでしょう。ちょうど火口からマグマが噴き出してくるみたいに。そうなったらあなたはもうあなたではいられません。あなたはただの邪悪で、卑屈で、卑しくて、みみっちくて、根性が曲がっていて、醜くて、胸糞が悪くなるような此畜生に過ぎなくなります。どうです? 自分のそういう姿を一度くらい見てみたくはありませんか?』
いや、と俺は言った。できればそんなものは見たくないです、と。
『そうですか』と彼は言って、残念そうにステッキを元の位置に戻した。そして何を思ったか、突然地面に座り込むと、自分の膝の上をつつき始めたんだ。彼は何度目かで、すぐにそのポイントを探り当てたようだった。
『よろしい』と彼は言った。『あなたはそれを見たくない。ええ、結構です。しかし私はそれを見なければならない。それは一つの義務なのです』
そしてステッキの先端を自分の膝めがけて力強く突き刺した。
彼の膝には穴が開いた。そしてその噴出口から何か黒いものが噴き出してきた。それはまさにマグマのような何かだった。俺はただじっとそれを見つめていた。それは次から次へと噴き出してきて、周囲の空気を汚染していった。俺はそれを吸い込まないように息を止めていたんだが、やがて当然のことながら息が苦しくなってきた。彼の顔はどんどん変形していった。さっきまでは完全に紳士、という感じだったのに、どんどんだらしがない表情に変わっていった。まるでその辺にいる酔っぱらいみたいな。でもその顔すらも長くは続かなかった。徐々に彼はもっと別のものに変わっていった。人間でも、動物でもない何かだ。彼はやがてアメーバのような形状を取り、そのままぐにゃぐにゃと気持ち悪く動き続けていた。いいですか、とそのとき彼の声が聞こえた。悪とは固定されていないものなのです、と。
でもそのとき俺はこう思っていた。だとしたら、善もまた固定されてはいないものなのではないか、と。
彼は動き続けながら、徐々に膨張していった。今や部屋中がその黒いものに満たされていた。俺の呼吸はそろそろ限界に達していた。これを吸い込んだら、あるいは俺もまたあの一部にされてしまうのかもしれない。
そのときふと例のエアダスターが目に入った。俺はそれを取り上げ、その黒いものに噴きつけた。しかし何の効果もない。なにしろそれは動き続けるものだったから、そんな人工的な風なんか簡単に避けることができたんだ。どうしたらいいんだろう、と俺は思った。一体どうすればこの状況を抜け出せるんだろう、と。そのときある考えが閃いた。こんなことがうまくいくのかどうかは分からないが、とにかくやってみないよりはましだろう。
俺はまさについさっき彼がステッキでつついていた右膝のあるポイントにエアダスターを噴きつけた。本当にそんなことがうまくいくと思っていたわけじゃない。でも試してみる価値くらいはあるかもしれない。俺はまさにその部分にピンポイントで空気を当て続けていた。するとやがて左膝のやはり同じようなポイントから何か白いものが噴き出してきた。それは善なるものだった。それは一気に部屋中を満たし、例の黒いものを取り囲んだ。俺は朦朧とした意識を抱え、なんとか息を止めながらその闘いを見守っていた。白いものが優勢になったかと思えば、今度は黒いものが優勢になった。戦況は一進一退というところだった。
そのとき突然インターフォンが鳴った。おそらく宅配便か何かだろう、と俺は思った。しかしこの状況では玄関の戸を開けることはできない。そんなことをしたら、世界における善と悪のバランスが大いに狂ってしまうだろうから。そう思った瞬間、部屋の中の白と黒のバランスがぴたりと完全に調和した。そういう感覚があった。そしてそのちょうど真ん中の部分に俺がいたんだ。その瞬間だけなにもかもが動きを止めた。きっと玄関の前の配達員だって動きを止めていたに違いない。太陽も、月も動きを止めていた。金星だって動きを止めていたはずだ。とにかくその一瞬、奇跡的な何かが起こったんだ。
その数秒後に俺は意識を失った。息ができなかったことと、そのような奇妙な光景を目にしたことで、まるで宇宙にいるみたいな気分を味わっていた。あるいは本当に一瞬宇宙に移動したのかもしれない。まあいずれにせよ、そこは――つまり俺の意識がいたのは――完全な空白地帯だった。善も、悪もない。ただ風が吹いているだけなんだ。そのときふと彼の声を聞いた気がした。彼はこう言っていた。動き続けるのです、と。そうすれば誰にもあなたを捕まえることはできません、と。
俺はそこで目を開けて、こう言った。まさにその通りだ、と。