湖面の月

僕はそのとき北海道と共に見渡す限りの草原を歩いていた。北海道は図体こそでかいが、心が広く、おおらかなところがある。細かいことでくよくよしたりはしない。腹いっぱい食べて、ぐっすり眠れば次の日にはけろっとしている。でも僕は知っている。彼が最近もっと本質的な問題に心を奪われていることを。

「良い天気ですね」と僕は言った。
「うん。いい天気だ」と彼は言った。

心なしか、その言い方には皮肉がこもっているような気がした。それはいつもの北海道にはないことだ。

「何か悩み事でもあるんですか」と僕は訊いた。
「いや、悩みというほどのことでもないんです」と彼は言った。そして顔を落とした。
「僕でよければ聞きますよ」
「いやいや。あなたをわずらわせるほどのことでもありませんよ」

それは確かにすばらしい天気だった。青い空が一面に広がり、さわやかな風が吹いて我々の火照ほてった体を冷やした。何羽かの鳥が気持ちよさそうに空を舞い、ときどき地面に降りては一心不乱に虫をついばんでいた。我々はもうずいぶん長い間歩いていた。北海道と一緒に散歩するのはいつだって楽しいひとときだったのだが、なぜかこの日だけは会話がはずまなかった。我々は並んだままただ黙々と歩き続けていた。僕らは長年の友人だったし、黙っていることは特に苦にならなかったのだが、それでも今日の散歩には普段にはない暗い影が落ちているような気がした。そしてその影は北海道だけではなく僕の上にもまた暗い手を伸ばしていた。僕はその冷やりとする感触を肩のあたりに感じることさえできた。こんな感覚を味わったのはずいぶん久しぶりのことだった。前にこんな気分になったのはいつのことだったっけ? そんなことを考えているうち、一人で草原を歩いている東京都に出くわした。

東京都はいつだってこじゃれた服装なりをしている。派手すぎるわけでもないし、地味すぎるわけでもない。フォーマル過ぎるわけでもないし、カジュアル過ぎるわけでもない。彼はそのへんの按配あんばいをよく心得ていた。服装なんかにはこだわらない北海道とは対照的だ。北海道は身体さえ覆えてしまえれば服なんてなんでもいいと思っているふしがある。きっとカラーコーディネートのことなんて考えたこともないのだろう。

東京都は我々の姿を見ると颯爽さっそうとこちらに寄ってきた。彼は小柄だが、動きはきびきびとしていて見ていて気持ちが良い。

「やあ、こんにちは」と彼は言った。
「こんにちは」と僕らは言った。
「良い天気ですね」
「ええ、ほんとうに」

我々は三人揃って散歩を続けた。僕は北海道の次に東京都と気が合う。東京都はさばさばとしていて、つまらないごたごたを好まない。あまり他人には干渉しないし、自分の意見を一方的に押し付けたりもしない。自分は自分で、他人は他人だと思っている。多分だから彼のことが好きなのだろう。

「ところで聞きましたか?」とだしぬけに彼が訊いた。
「何のことです」
「岡山県のことです」
「岡山県?」と僕は言った。「何も聞いていませんよ」
「昨日亡くなったんです」
「それはお気の毒に」

僕は東京都が「岡山」という語を発した瞬間、北海道がぎくりと身を震わせたことに気付いた。
「北海道さんは知っていたんですか?」と僕は訊いた。
「いや、私は・・・」と言って北海道は口ごもり、「今日は失礼します」と言って、足早にどこかに歩き去ってしまった。

「彼は何か知っているみたいですね」と僕は言った。
「そのようですね」と東京都は言った。

岡山県は明け方に湖の上に浮かんで亡くなっているところを発見された。それが自殺なのか他殺なのかはまだ判明していない。現在京都府が調査にあたっている、と東京都が教えてくれた。

そのあと我々は岡山県とはまったく関係のない話をした。こんなに天気の良い日に、死者の話をして時間を潰すのはあまり気分が良くない。きっと東京都もそう思ったのだろう。もっとも僕はそのとき何の話をしたのかすっかり忘れてしまった。きっと単に隙間を埋めるためだけの会話だったのだろう。

僕と東京都は森の入り口で分かれた。彼にはやらなければならない仕事が残っているということだった。東京都はいつだって忙しいのだ。

日差しが強くなってきたので、森の木陰で一休みすることにした。目をつぶって寝転がり、鳥の声に耳を澄ましていると、奥の方から誰かがくすくす笑う声が聞こえてきた。そちらを振り向くと、ちょうど石川県と秋田県が並んで森から出てくるところだった。

「あらこんにちは」と二人は言った。
「こんにちは。お久しぶりですね」と僕は言った。

「そうですね。最近忙しかったものだから」と石川県が言った。
「一体何をやっていたんです?」と僕は訊いた。
「ほら、今度外国からお客様がいらっしゃるでしょう。そのおもてなしの準備をしていたんですよ」と彼女は言った。
「そういえばそんなことを言っていましたね。たしかコロラド州と、ニューハンプシャー州でしたっけ?」
「コロラド州とマサチューセッツ州ですよ」と秋田県がほがらかに言った。「それにカタルーニャ州も来るらしいです」
「カタルーニャ?」
「ほら、スペインの。バルセロナがある」
「ああ。あのカタルーニャか」

僕は身を起こし、近くにあった木の根元に腰を下ろした。石川県と秋田県も僕の両側に腰を下ろした。彼女ら二人は相変わらずくすくす笑い合っていた。僕は少し落ち着かない気分になったが、それでも二人と共にいるのはなかなか悪くない気分だった。今はもう状況が変わってしまったが、僕はかつて石川県に恋をしていた。

「ねえ、聞きました? 岡山県のこと」と秋田県が言った。
「ええ。さっき東京都から聞きました」と僕は言った。
「最近様子がおかしかったから」と石川県が言った。
「どうおかしかったんです?」
「そうねえ。たとえば夜中に一人で出歩いたりとか、私たちとのお茶会にもぜんぜん参加しなくなったりとか。若い女の子がそんなんじゃ駄目だよ、って言ったんですけどね。なんだか難しい本ばかり読むようになって・・・」

「難しい本?」。それは僕の知っている岡山県のイメージにはそぐわないものだった。岡山県はいつもにこにこして、ほがらかで、少女特有のイノセンスを大事に保持していた。今日みたいな天気の日には真っ先に外に出てそこら中を元気に歩き回っていた。

「私たちあれは北海道の影響じゃないかって思ってるんです」と石川県が言った。
「北海道の?」
「ええ。彼最近ふさぎこんでるでしょう。岡山県が読んでいたのも北海道さんの本ですよ」
「それはなんていう本ですか。」
「ええと。何とかの兄弟。なんの兄弟だったっけ。カラ・・・カラ・・・」
「カラマーゾフ」と僕は言った。
「ああ、そうそう。カラマーゾフ。なんとかエフスキーが書いたやつ」
「ドストエフスキー」
「そうです。その人です。読んだことあるんですか?」
「ええ。まあ」。僕はその本を三回も読み返していた。
「いったいどんな話なんです。簡単にでいいですから説明してくれませんか」と秋田県が言った。
「ええと。まず父親と三人の兄弟がいて・・・。ううんと」

僕は頭をかきながらとか『カラマーゾフの兄弟』を要約しようとした。しかしすぐにそれは不可能であることに気付いた。あらすじを要約することはできるかもしれない。でもそれでは作品の中にある大事なが抜け落ちてしまう。

「ちょっと要約することはできませんね」と僕は言った。「とにかく読んでみれば分かるし、読まなければ分かりません」

「ふうん」と彼女らは言い、そのあと二人で宮崎県の噂話をしていた。

僕は散歩を続けることにした。美しい女性と共にいるのは確かに大きな喜びだったが、もともと僕は女のおしゃべりというものが苦手なのだ。それに今は一人になって考えるべきことがあるような気がした。

「じゃあ僕は行きます」
「あら、お邪魔しちゃったみたいね」と言って石川県は僕に魅力的な微笑ほほえみを向けた。
「いや、ちょっと歩きたいだけですよ」と僕は言った。「ところでその本は今どこにあるんです」
「ええと、どこだっけ」と言って彼女は秋田県の顔を見た。
「たぶん京都府が持っているはず。あの人が事件の調査をしているから」と秋田県は言った。
僕は礼を言い、京都府のオフィスへと向かった。

京都府のオフィスは湖のほとりにあった。それはところどころにわけの分からない染みのついたコンクリート造りの無愛想な建物だった。僕は初めてこの建物を見たとき、これは小型の刑務所か、あるいは大型の公衆便所に違いないと思ったものだった。でもそれは京都府のオフィスだった。彼はもう中年の域に達していて、長年の間この周辺で起こるさまざまな事件の調査に当たっていた。僕がオフィスに入ると彼は疲れたような顔で葉巻を吹かしていた。

「こんにちは」と僕は言った。
「ああ。こんにちは」と京都府は言った。そして葉巻の灰を灰皿にとんとんと落とした。

「葉巻ばかり吸っていると身体に悪いですよ」と僕は言った。

彼はふうと白い煙を吐き、言った。「いいんだ。どっちにしろもう長く生き過ぎたんだ。だから死ぬまでは好きなことをやってやろうと思っている。もうおれが死んだところで悲しむ家族もいないしな」

京都府は何年か前に奈良県と離婚していた。長年連れ添ってきた夫婦なのになぜ、とそのときはみんなが不思議に思ったものだ。でも彼にとってはそれでよかったのかもしれない。もともとが独身タイプの男なのだ。ただ彼の人となりをそれなりに知っている僕にとっては、そもそも結婚生活がそんなに長く続いたことの方が驚きだった。

「岡山県が持っていた本はここにありますか」と僕は訊いた。
「ああ、あるよ。一杯ある。あんた欲しいのか」
「別に欲しいというわけでもないんです。でも彼女がどんな本を読んでいたのか分かれば亡くなったときの彼女の精神状態が分かるかもしれないと思ったんです」
「それじゃあんたは岡山が自殺したと思っているんだな」
「その可能性は高いでしょう」
「原因は何だと思う?」と京都府は訊いた。
僕は首を振った。「分かりませんね」

「ちょっと待っててくれ」と言って彼は部屋の奥にあるロッカーの鍵を開けた。そこには二十冊程度の本が入っていた。ハードカバーが主だが、文庫本もある。どれも何度も読み返された形跡があった。新品の本は一冊もない。

「ほんとは一般市民に見せたりしちゃいけないんだ。おかみがうるさいからな」と彼は言った。それでも僕にすべての本を見せてくれた。

「おれはこういう本はからっきし駄目なんだ。三行読んだだけで眠くなっちまう。あんたならきっとどんな本なのか分かるだろう」と彼は言った。

本の構成は次のようなものだった。哲学書(ニーチェ、ショーペンハウアー、カント)、『善の研究』、『老子』、ギリシア文学(『イリアス』、『オデュッセイア』、『オイディプス王』)、あとは外国の古典文学の翻訳書だった。僕は文庫版の『カラマーゾフの兄弟』を取ってぱらぱらとページをめくった。ところどころで文章の横に線が引かれてあった。

「お借りしていっていいですか」と僕は訊いた。
「いいよ。でもあとでちゃんと返してくれよ」と彼は言った。

そのあと僕は彼から岡山県が発見されたいきさつを聞いた。岡山県は仲の良い宮崎県と話したあと、いつもより早く就寝した。それはルームメイトの愛媛県が確認している。しかし朝起きるとベッドはもぬけのからになっていた。直感的になにか良くないことが起こったと悟った宮崎県と愛媛県は、急いで京都府に相談にやってきた。しかしそのときすでに岡山県は冷たい死体となって湖に浮かんでいた。

「事件はおれの目の前で起こっていたんだ」と京都府は言った。「おれたちはまず森を探した。でも何も見つからなかった。それでオフィスに帰ってみると栃木の野郎が湖に何かが浮かんでいるのを見たっていうんだ。まったく。我ながらあきれてしまうよ。湖の目の前で暮らしていながら、そこに浮かんでいる死体に気付かなかったんだ」

遺体が自分のオフィスの目の前で発見されたことで、彼のプライドは少なからず傷つけられたようだった。第一発見者は栃木県だった。毎朝早朝に湖のまわりをジョギングするのが彼の日課だったのだ。そしてそれを発見した。栃木県と京都府はふたりでボートを漕ぎ出し、そこに浮かんでいるものを引き上げた。

「正直に言って見られたもんじゃなかった。あんなに元気にしてたのにな」と彼は言い、マッチを擦って二本目の葉巻に火を付けた。

僕は本を貸してくれた礼を言い、京都府のオフィスを出て、自分の家に戻った。あたりはすでに薄暗くなっていた。家に帰るとまずお湯を沸かし、その間に豆を挽いた。そして大きなマグカップにコーヒーを淹れ、岡山県が残した本の中身を調べながら、ゆっくりとそれを飲んだ。

彼女は明らかに人生に関する本質的な問いに悩んでいた。本の選び方を見ればそれが分かった。特に『カラマーゾフの兄弟』には何度も読み返された跡があった。僕はその文庫本をぱらぱらとめくり、線が引かれている個所を中心にその本を読み返してみた。

どうやら岡山県はイワンの語る『大審問官』のあたりを何度も読み返していたようだった。そこには赤いペンで書き込みがしてあった。

「民衆は真実を求めてなどいない。もしが今ここに生きていたら一体何をするだろうか?もしかすると、が生きてそれを実証しなければならないのかもしれない」

ここで言う「」とは老大審問官のことではなく人間の姿を取って束の間地上に姿を現したイエス・キリストだろう。

イワンの言う「すべては許されている」という言葉の横には赤ペンで三重に線が引かれてあった。そして書き込み。「本当にすべては許されているのか。神々はどこへ行ったのか?」

そしてゾシマ長老の回想のシーンで、長老の兄が「人間のだれもが、すべての人、すべてのものに対して罪がある」と言う場面は緑色のペンで何度もぐるぐるとまわりを囲まれていた。

僕は一度本を閉じ、ぬるくなってしまったコーヒーを飲んだ。そして岡山県が置かれていた精神的な状況を想像してみた。彼女はほかの誰もが避けて通るドアをなんとかして開けようと試みていたようだった。僕の知る限り、岡山県は自然なバイタリティーに満ちていて、深い省察なんかとは無縁に見えた。彼女の中には見る者を居心地悪くさせるほど前向きな何かがあった。彼女が一人で沈思黙考している姿を、僕はどうしても思い浮かべることができなかった。誰かが深い省察へ――つまりそのドアの方へ――彼女を導いたのかもしれない。

そのときドンドンというノックの音が聞こえた。

それは北海道だった。彼がこんな時間に訪ねてくるのは珍しい。北海道はいつだって早寝早起きなのだ。彼はやつれた顔をしてずんずん部屋に入ってくると、「こんばんは」も「おじゃまします」もなくドシンと椅子に腰を下ろした。そして両手で顔を覆った。

僕は無言のまま立ち上がり、彼にコーヒーを淹れた。北海道はうつろな目をしてただじっとカップを見つめていたのだが、やがて手を伸ばし、一口だけすすった。

「岡山県のことですね」と僕は自分から切り出した。
彼は無言のまま頷いた。

「あの本はあなたのものなのでしょう?」

彼は机の上に積み上げられた本の山に目をやった。
「あんなもの貸すべきじゃなかったんだ」と彼は言った。
「『カラマーゾフの兄弟』の書き込みはあなたのものですか?」
彼は皮肉っぽく鼻で笑った。「若気の至りですよ」

「岡山県は、なんというか、そういう本質的な問題に悩んでいたんですか?」
「いや、最初はそうじゃなかった」と彼は言った。「二人で話をしているうちに、自然と今読んでいる本の話題になったんだ。今だからいうけど、俺はあいつのことが好きだった。それでちょっと頭の良いところをみせてやろうと思ったんだ」
「それでニーチェとかショーペンハウアーの名前を出したわけですか?」
「まあね。でも実をいえばニーチェもショーペンハウアーもおれはさっぱり理解できていないんだ。彼らの言いたいことはなんとなく分かる。でもあくまでなんとなくだ」
「岡山県はあなたの話を興味を持って聞いていたわけですか」
「うん。すごく真剣に聞いてくれた。それでおれも調子に乗ってしまった。でも彼女自身がそういう問題に前から興味を持っていたみたいだった。今の人生に空虚さを感じているみたいだった」。そう言って彼は残りのコーヒーを飲み干した。

僕はコーヒーのおかわりを淹れ、残っていたバターロールを出した。腹が減っていたのか、彼はあっという間に全部を平らげてしまった。

「悪いね。なんだか落ち着かなくて朝からずっと歩いていたんだ。食事をするのも忘れていた」
かまわない、と僕は言った。好きなだけ食べればいい、と。そのあと会話は途切れ、我々はそれぞれに自分のカップを見つめながら何かを考え続けていた。

しばらく経ったあとで僕は訊いた。「彼女はここから抜け出したかったんじゃないでしょうか?」
からって?」と北海道は訊いた。
「この世界から」と僕は言った。

彼はうつむいたままじっと考え込んでいた。「実をいうとおれもこの世界には何か不自然なものがあると思っていたんだ。何が不自然なのかはっきり名指しすることはできない。でもとにかく不自然なんだ。ずっとそういう感じがしていた」

僕は何も言わずにただ相槌を打っていた。彼の話にはまだ続きがありそうだったからだ。僕が黙っているのを見ると案の定彼は先を続けた。

「でもね、おれはそれを見るのを自分から避けてきたような気がするんだ。一方のおれはそこに行きたくてたまらない。でももう一方のおれはそこから逃げたくてたまらないんだよ。子どもの頃何かの本で読んだことがある。どこかに魔法にかけられた秘密の場所があるんだが、そこに近づくと人は必ず忘れていた用事を思い出すんだ。そして引き返していく。だからだれもその中に入り込むことができない。ちょうどそんな感じなんだよ」

「あなたはまわりの都道府県のことを悪く言いませんでしたか」と僕は訊いた。

彼は顔を赤らめ、うつむいたまま答えた。「実をいうと言っていたと思う。悪口というほどでもないと思うんだ。でも彼らは頭というものを使わない、とは言った。狭い枠組みに満足しきっている、とも」
「岡山県は何と言いました?」
「ただ頷いていたよ。彼女はおれの言うことには何一つ反論しなかった」
「それで彼女に本を貸したわけですね」
「ああ。あんなもの貸すべきじゃなかったんだ。おれが教えなければ彼女はあんなものを読んだりしなかっただろう。そして今でも幸せに暮らしていたはずだ」
「それはどうでしょう。彼女自身が変化を求めていたのかもしれない」

彼はじっと考え込んだ。
「そういうこともあるかもしれない」

僕は立ち上がって、戸棚からウイスキーを取り出した。小さなグラスを二つ取り出し、それに琥珀こはく色のウイスキーをとくとくと注いだ。

僕らは二人とも顔を落とし、テーブルの木目を睨みながらちびちびとウイスキーをすすっていた。部屋の中はひどく静かだった。僕はウイスキーを飲みながら目で一つ一つの木目を辿っていった。良く見るとどの木目も非常に奇妙な形をしていた。隅の方に一つだけ目球のような形をした木目があって、それはそこからじっと僕を見つめていた。既に夜は更けてきていた。

「彼女はそこに行ったのだとは考えられませんか」と少し経ったあとで僕は訊いた。
って?」
「その魔法にかけられた場所です」
「でも彼女の遺体は湖から引き揚げられたんだぜ」と北海道は言った。そして何かに気付いたかのように続けた。「あなたが言っているのはつまり彼女の魂がということか」
「そうです」と僕は言った。

彼は相変わらずテーブルを睨み続けていた。そして言った。「どうだろう。おれには分からない。死んだあとのことは、死んだやつにしか分からない」

我々はその後もう一杯ずつウイスキーを飲んだ。そのあとで北海道は帰っていった。
「あなたと話せて楽になった。どうもありがとう」と帰り際に彼は言った。
気にすることはない。いつでも話しにきてくれてかまわない、と僕は言った。

北海道が帰ってしまうと家の中は不思議にがらんとして見えた。さっきまで北海道の巨体が占めていた場所には、彼の迷いや矛盾が、そのままぐずぐずと居残っているように見えた。僕はイスに座ったまま、そんなぐずぐずをただじっと眺めていた。そのぐずぐずは僕を落ち着かない気分にさせた。もう一杯酒を飲んだが、それも気持ちをしずめる役には立たなかった。やがて僕は立ち上がり、落ち着かない気分のまま窓から顔を出して空に浮かんだ月を眺めた。寡黙な月はいつものように孤独に、冷たく光っていた。そういえば昨日は満月だった。


朝になると外から騒がしい空気がただよってきた。今日は外国から客人がやって来る日だ。昨日ほどの好天ではないにせよ、空は晴れ、雨が降る心配はなさそうだった。僕は港へと急いだ。

そこにはすでに大きな船が横付けされていた。港の入口の国旗掲揚塔にはアメリカと、スペインと、日本の国旗が掲げられ、海風を受けて気持ちよさそうにぱたぱたとひるがえっていた。ほとんどの都道府県がセレモニーの会場に集まってきていた。僕は秋田県と石川県に声をかけた。
「良い天気でよかったですね」
「ええ、ほんとに」と秋田県が答えた。
「あなたちょっとやつれてるんじゃない?」と石川県が言った。
大丈夫、たいしたことはない、と言って僕はその場を離れた。仮設のテントには客をもてなすためのごちそうが並べてあった。京都府が一人離れたところで葉巻を吹かしていた。

「岡山があんなことになったばかりなのにな。もうこんなお祭り騒ぎだ」と彼は言った。
「でもずっと前から準備していたことなんでしょう」と僕は言った。
「まあな。でもたまにこう思うんだ」と京都府は言った。「死は残酷だが、死がもたらす状況はときに滑稽こっけいだとな」
「特にそれが他人の死である場合には」と僕は言った。
「もちろん。おれたちは他人の死しか知らない。少なくとも生きている間は」そう言って彼は口から煙を吐き出した。そのとき高々とファンファーレが鳴り響いた。

ここには楽団は存在しなかったから、それはスピーカーから流された音楽だった。そしてそのいささか大仰おおぎょうな調べに乗って、船から三人の外国州が降りてきた。まずはマサチューセッツ州だ。彼はセレモニーに相応ふさわしいフォーマルな格好をしている。気難しい顔をしていて、いかにもインテリ風だ。次にコロラド州。彼は北海道よりもさらに図体が大きい。彼はいささか緊張しているようだった。こういう場所よりも農場でトラクターに乗っている方が落ち着くのだろう。最後はカタルーニャ州だ。彼は奇抜な格好をしていたが、その服装には確固とした芯のようなものが見受けられた。そこには品の無さや軽々しさは微塵みじんうかがえなかった。彼の物腰には、他人に何と言われようとわが道を行く、という強い独立心がにじみ出ていた。

彼らはタラップを降りると、こちら側の代表者である東京都と大阪府と握手をした。小柄な二人が横に立つと、コロラド州の大きさはさらに強調された。そして客人三人はほがらかな日差しの下、準備してあった椅子に案内された。ファンファーレが止み、東京都が英語で挨拶をした。いかにも彼らしい、回りくどくない、手短な挨拶だった。何か冗談を言ったらしく外国州三人はくっくっと楽しそうに笑った。カタルーニャ州もまた英語をよく解するようだった。

僕は気難しい顔をして木にもたれかかっている京都府のところに戻った。
「北海道の姿が見えませんね」
彼はあたりを見回した。「確かにいないな。あいつがいればすぐに目立つから。でもあいつはいるときよりいないときの方が存在感がある」
「ほかに来ていない県はありますか」
「どうだろう。あとは全部来ているんじゃないかな。島根県を除けば」

島根県は隠者として知られていた。山奥に一人で住み、よっぽどのことがない限り下界に下りてきたりはしない。

「昨日北海道と話したんだって?」と彼は訊いた。
「ええ」
「やつの様子はどうだった」
「どうも苦しんでいるようでした。あんまり良い状態じゃない」
「そうか」
「そうです」

僕らは二人だけみんなから離れて、セレモニーの様子を眺めていた。セレモニーとはいってもさほど儀式ばっているわけでもない。みんなで集まっておいしい料理と美味うまい酒を楽しむだけである。そのうちスピーチが終わり、今度はあちら側の代表者であるマサチューセッツ州が挨拶をした。彼は日本語で「こんにちは。お招きいただきありがとうございます」と言った。もっともそのあとは英語でしゃべり、東京都が通訳をした。

マサチューセッツ州の挨拶が終わるとシャンパンの栓が抜かれ、会食の時間となった。皆はそれぞれ散らばり、めいめいが好きな料理を皿に盛り付けた。コロラド州は(こちら側では北海道に次いで図体の大きい)岩手県とジェスチャーを交えて何かを話していた。おそらく農業についてだろう。マサチューセッツ州は東京都と英語で何やらひそひそ話をしている。ボヘミアンタイプのカタルーニャ州は石川県と秋田県を両脇にたずさえ、何かを雄弁にまくしたてていた。カタルーニャ州と楽しそうにおしゃべりしている石川県を見ていると落ち着かない気分になったが、僕にはもっとほかに気になることがあった。

「ちょっと北海道を探してきます」と僕は京都府に言った。
「その方がいいかもしれない。でもどこにいるか分かるのか?」と彼は訊いた。
「見当はつきます」と僕は言った。

彼はじゃあな、という風に手を上げ、マッチを取り出し次の葉巻に火を点けた。

僕は山へ通じる道へと向かった。北海道はおそらく自宅にはいないだろう。落ち着かない気分のまま一人でじっとしていられるタイプではない。たぶん賢者として知られる島根県のところに向かったのではないか。島根県はこのあたりでは一番の長老で、解決できない問題が持ち上がるとそのたびに誰かが彼のところに相談しにいった。問題は解決することもあれば、解決しないこともあったが、ほかの都道府県たちは彼を深く尊敬していた。

誰かが相談にくると、島根県は解決策そのものを与えるのではなく、問題自体を深く受容した。そしてその過程で解決策は結果的に示唆されることになった。あるいは解決策そのものは大して重要ではないのだという認識に至ることになった。僕は一度だけ彼を見たことがあるのだが、いかにも、という風格をただよわせている隠者というわけではなかった。どちらかというとどこにでもいる小柄な老人に見えた。しかしよく見ると彼の中には人為的には作り出せない深い温かみのようなものが溢れていた。僕が彼を見てもっとも驚かされたのはその謙虚さだった。彼はまわりの都道府県に尊敬され、ときには崇拝されながら、けっしておごることはなかった。そうしようと思えば簡単に威張ることができる立場にありながら、彼はむしろますますこうべを垂れようとしているように見えた。

僕は険しい山道を登っていった。そこにはごく簡単な踏み分け道が付いていた。しかし進んでいくにつれ、わけの分からないつたとげの生えた植物が行く手をさえぎった。それでもなんとか姿勢を低くし、頭を下げながらしばらく登っていくと、ようやく島根県の小屋が見えてきた。

それは小さく質素な小屋で、そばには小さな谷川が流れていた。軒下にはたくさんのまきが山積みにされていた。山奥にしか存在しない空気が静かに脇を通り抜けていった。開け放たれた窓からは北海道と島根県の姿が見えた。僕はゆっくりと小屋に近づき、ドアをノックした。ノックする直前、北海道の発した「岡山」という言葉が僕の耳に入った。

島根県がドアを開けた。彼は愛想良く微笑み、「どうぞ中へ」と言った。北海道は僕の姿を見て少し驚いたようだったが、特に不快そうな様子は見せなかった。むしろ僕が来たことでなんとなくリラックスしたようにも見えた。部屋には簡単なテーブルと椅子が三脚あり、空いている一つに僕は座った。小屋には装飾といえるものは何もなかった。椅子は質素で堅いものだったが、どうしてか座り心地が良かった。島根県は僕に緑茶を淹れてくれた。新鮮な香りのする美味うまいお茶だった。

「実はあなたが心配で来たんです」と僕は北海道に向かって言った。「余計なお世話だったかもしれませんが」
「どうもありがとう。ぜんぜん迷惑じゃないよ」と彼は言った。

島根県はほがらかな笑みを浮かべ、我々二人を眺めていた。

「でも実は僕自身もあなたにお会いしたかったんです」と僕は島根県に向かって言った。「今回の岡山県の事件。それに悩んでいる北海道の姿。そういうものが僕自身の中にある何かを揺り動かしているんです。お前はどうなんだ、お前は悩まなくていいのか、と」

島根県は僕の話を黙ったまま聞いていた。北海道もまた、彼自身の話を中断し、黙ったまま僕の話を聞いていた。

「ところで、岡山県はあなたのところに相談に来ていたのではないですか」と僕は訊いた。
島根県は頷いた。「ええ、やってきました」
「彼女はなんと言っていました」
「最初は知り合いに悩んでいる人がいる、という話でした。それはどうやら北海道さんのことのようでした。でもだんだん彼女自身の話に変わっていったのです。彼女の中では何かが芽生え始めていました。彼女はを開けたがっていたのです」
「何のドアです」と僕は訊いた。
「それを口で説明することはできません」と彼は言った。
「彼女は実際にそのドアを開けたのでしょうか」と僕は訊いた。
彼は首を振った。分からないということだ。そこで北海道が口を開いた。

「実はこういうものが見つかったんです」と言って彼はポケットから一枚の紙片を取り出した。そこには緑色のインクで何かが書きつけてあった。

『俗人昭昭しょうしょうたり、我れひとこんたるがごとし』
『老子』

“Pray for us sinners now and at the hour of our death
Pray for us now and at the hour of our death.”
T.S.Eliot “Ash Wednesday”

「裏を見てください」と北海道が言った。僕は紙片を裏返した。そこにもまた緑色のペンで文字が書かれてあった。

「湖面の月

遠いものは美しい
近いものは・・・

私は空に手を伸ばす
私は未来に手を伸ばす

湖面に映る丸い月
私は孤独
私は未熟

死んだ世界は美しい
生きた世界は・・・

私は自由に手を伸ばす
私は過去を思い出す

湖面を渡る白い風
私は汚い
私はくさ

私は風に話しかけ
私は雲をむしり取る

湖面をけがす私たち
世界をけがす私たち

遠い世界は美しい
近い世界は・・・

宇宙に浮かぶ星々と
土中どちゅうに沈む私たち

湖面に映る丸い月
けがれをすす

永遠に」

僕はその詩を二度読み返し、紙片を島根県に渡した。彼もまた黙ったままそれを読んだ。

「これは岡山県の筆跡ですか」と僕は訊いた。
「そうです。間違いありません」と北海道は言った。
「一つ訊きたいんですが、『カラマーゾフの兄弟』の中でゾシマ長老が過去を回想する場面があります。覚えていますか」
「ああ。なんとなく」と北海道は言った。

「そこで長老の兄に関するエピソードが出てきます。彼は病気にかかっていて若くして死にかかっている。しかし死に近づくほど幸福になっていく。彼は『幸福になるには一日あれば足りる』と言います。そしてさらにこう言います。『人間のだれもが、すべての人、すべてのものに対して罪がある』と。あなたは本のその個所をペンでぐるぐる囲みましたか?」

「いや、囲んでいないと思う。おれはそのあたりにはあまり感銘を受けなかったんだ。なんというか感傷的な気がしたから。おれが印をつけたのは主にイワンが出てくるところだ」

「この書き込みや本の印から察するに、彼女は自分自身の未熟さや罪やけがれといったものに非常に敏感になっていたことが分かります」と僕は言った。「彼女はそういったものを洗い流したかったんじゃないでしょうか」
「でも彼女に一体どんな罪があるというんだ」と北海道は言った。

僕らは解答を求めるように島根県の方を向いた。彼は真剣な面持ちで我々の話に聞き入っていた。その後しばらく黙っていたのだが、やがてその重い口をようやく開いた。

「ご存じのとおり我々は堅い枠組みによって地上に縛り付けられています。それは考えてみれば窮屈な状態です。なぜなら我々が自明のものだと思っている枠組は結局のところ単なる人為的な線に過ぎないからです。それはあると思えばあるし、ないと思えばないものです。しかし我々の多くはそれを必要としている。真実を見ることはときとして耐えがたいことだからです。確かに名前や枠組みがなければ不便です。しかしだんだん便宜的な存在であった枠組みが、逆に我々を規定するようになっていきます。そうするとが便宜的な存在になってしまうのです」

彼はそこでお茶をすすり、一息入れた。そして続けた。

「おそらく岡山県はそのことにうすうす感づいていたのでしょう。彼女は若く、綺麗な女性でした。単に外見的に綺麗であるというだけでなく、そこには内から湧き出る美しさがありました。でもそれだけでは足りなかったのです」

「彼女はあなたのところに相談にきた。あなたには彼女を止めることができたはずだ」と北海道は珍しく怒りを込めて言った。
「私には分からなかったのです。そして今でも分からないのです。彼女を止めるのが正しいことだったのかどうか」
「島根県さんにもものごとがこういう結果に終わるとは予想できなかったのでしょう」と僕は言った。
「確かにそうです。私は皆が思っているほど賢いわけではありません。むしろいかに自分が愚鈍であるかを知っているだけなのです」と彼は言った。

その後しばらく我々は、三人が三人とも自分自身の想いの中に深く沈みこんでいた。開け放たれた窓からはちょっと立ち寄ってみた、という風情で気持ちの良い風が入り込み、部屋の中で渦を巻いてまた外に帰っていった。北海道の目は赤く腫れぼったかった。おそらく昨晩一睡もしていないのだろう。島根県の顔もまたうれいに深く沈んでいた。彼はこの件についてほかの誰よりも強く責任を感じていたのだ。

「おとといの夜は満月でしたね」と僕は言った。
「ああ」と北海道は言った。
「彼女はけがれをすすぎにいったのでしょうか」と僕は訊いた。
「たぶんそうだろう」と北海道は言った。
「実際にけがれをすすぐことはできたのでしょうか」と僕は島根県に訊いた。

彼は解答を持たなかった。おそらくこの問題は僕が自分自身に問い続けなければならない種類の疑問なのだろう。解答そのものではなく、問い続けるというプロセスそのものに価値があるという種類の疑問だ。

僕と北海道は席から立ち上がり、共に下界へ帰ることにした。島根県は相変わらず彼自身の黙想の中に沈み込んでいた。気になることがあったので帰り際に僕はもう一度訊ねた。

はそのドアを開けたのですか」

島根県は言った。「我々の中には弱さや矛盾が潜んでいます。それは自分では認めがたいものです。我々は往々にしてそういうものを堅いバリアの奥に隠し込んでいます。そしてそこから目を逸らし続ける。でもほんとうはその弱さや矛盾の中にこそ価値あるものが潜んでいるのです。頭で理解しただけでは意味のないことですが」

それが彼の回答だった。僕は最後にあと一つだけ訊ねた。
「幸福になるにはほんとうに一日だけで足りるのでしょうか」
でもこの質問には回答はなかった。

僕と北海道は黙ったまま山道を下った。彼はやぶつたをものともせずずんずん進んでいった。もっとも考え事をしているせいで、顔にとげが刺さっていることにも全然気付いていないようだった。

山を下りると我々はそれぞれの家に帰るべく各々おのおのの方向に分かれた。別れ際に北海道は言った。
「あなたが来てくれてよかった。おかげでいろんなことが少しだけ整理されたような気がする」。彼はそこで夕暮れの空を見上げた。そして大きな音で鼻をすすった。

「島根県と話しているとときどき自分の傲慢さにうんざりさせられることがある」と彼は続けた。「彼はおれには立派すぎるんだよ。でもあなたは、なんというか、ちょうどその中間にいる。こういっちゃ悪いけどちょうどよく未熟なんだ。だから親近感を感じるんだと思う」

僕は何と答えればいいのか分からなかったので、ただ曖昧な笑みを浮かべていた。

「岡山県が最後の最後に救われたにしろ、救われなかったにしろ、おれはおれの弱さと共に生きていかなくてはならないという感じがしているんだよ。それがおれの答えだという気がするんだ」と彼は言った。そしてもう一度夕暮れの空を見上げた。彼の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

僕は彼を元気づけるために背中を叩いてやりたかった。そして言ってやりたかった。そうだ、それでいいんだと。でも僕にはそんなことはできなかった。なぜならそれは彼の決意であって僕の決意ではなかったからだ。それが良いとか悪いとかいう資格は僕にはない。全然ない。黄昏たそがれ時の西空は憂愁を含んだオレンジ色に染まっていた。時折吹く風が汗に濡れた僕の身体を急速に冷やした。僕らは堅い握手をし、それぞれの家路についた。

その日はなかなか寝付くことができなかった。僕の頭には椅子に座り込んだままじっと黙り込んでいる島根県と、涙を浮かべて空を見上げる北海道の姿がしっかりと焼きついていた。それに加えて――これは想像でしかないのだが――誰もいない寂しい夜に一人湖へと入っていく岡山県の姿が重なり、心を乱した。なぜこうも誰もが孤独なのだろう、と僕は思った。なぜこうも孤独でなければならないのだろう。外からはスピーカーから流れる感傷的な音楽が入り込んできた。ナット・キング・コールが歌う『モナリサ』だ。

外国からの客人を招いた宴会はいまだに続いているようだった。ナット・キング・コールの伸びやかな歌声は疲れた僕の意識に優しく浸透していった。気付いたときには僕は深く眠り込んでいた。


夢の中で僕は湖のほとりにやって来ていた。夜空には雲一つなく、満月が非現実的なまでに大きく明るく輝いていた。澄んだ湖面には金色に光る月の像がくっきりと映し出されている。僕は水際に立ち、一人で湖面を眺めていた。すると同じく水際に立ち尽くす岡山県の姿が見えた。彼女は真剣な面持ちで水に映った月を眺めていた。彼女は遠くに見える湖面の月に手を伸ばし、服を着たまま湖の中に入り込んだ。僕は叫んだ。

「行っちゃだめだ!」
彼女はこちらを振り向いた。そして言った。「なぜ行ってはいけないの」

「あれは水に映った像に過ぎないからです。あれに触ったところでけがれを落とすことはできない」

彼女は真剣な表情で僕を見つめた。彼女の目はどきっとするほど深い奥行きを持っていた。「なぜあなたにそれが分かるの?」と彼女は言った。
僕はこたえを持たなかった。
「試してみたことがあるの?」
僕はこたえを持たなかった。

「ねえ、あなたも一緒に来て」と彼女は言った。それは魅力的な、ハスキーな声だった。岡山県は僕の手を取り、湖へと突き進んだ。僕はなんとか抵抗しようとしたのだが、どうしても身体がいうことを聞かなかった。

「ほら、ほんとうはあなたも行きたいんでしょう」と彼女は言った。「だってここにいてもどうしようもないんだもの。みんなぐるぐると同じところを回り続けている。どうかしてるんだよ。なんにも見ない。なんにも聞かない。生きているのに生きていない」

彼女は僕の腕を引っ張りながらどんどん湖に入り込んでいった。水はもう腰のあたりにまで達していた。彼女は続けた。「地上に縛られているのに気付いていない。きっと二種類の精神があるんだと思うんだ。縛られていることを苦にする精神と、苦にしない精神と。私はきっと前者なんだと思うんだ。縛られ続けることにはもう耐えられない」

水はすでに首元まで達していたが、彼女は躊躇ちゅうちょすることなく水中に潜り込んだ。僕は深く息を吸い、可能な限りの空気を肺に溜めこんだ。

湖は非現実的なまでに透き通っていた。それはあまりにも澄んでいて、始めのうちそこが水中であることに気付かなかったくらいだ。むしろ地上の方がゆがんで見えた。しかしすいすい泳ぐ岡山県の姿と、その口から洩れる気泡とがそこが水中であることを示していた。僕は薄暗い水中にいて、彼女に引っ張られるがままになっていた。水の中にいることは思っていたよりも心地よかった。二〇メートルほど先には明るく光る月の像が見えた。彼女の美しさは水中においてより完成されていくように見えた。それも月の像に近づけば近づくほど。

湖面に映った月はもうすぐそこというところまで我々はやって来ていた。彼女は手を伸ばしてその像に触ろうとした。しかしそのとき誰かが僕の足を強く引っ張った。

それは北海道だった。彼は必至ひっし形相ぎょうそうで僕の足をつかみ、なんとしても先に行かせまいとしていた。彼の手は大きく、その握力は強かった。それはいうなれば、大地に根差した強さだった。僕は両方向から引っ張られる形になった。彼らは二人とも自分の方に僕を引き込もうとしていた。しかし実際のところほんとうはどちらに行きたいのか、僕は自分でも判断が付かなかった。

今や月の光を浴びて、岡山県の美しさはさらに強調されていた。あそこに行けば自分もその一部になれるかもしれない、という思いが頭をよぎった。僕もまた月の光を浴びてけがれをすすぐのだ。

一方で僕の足を掴む北海道の手には現実的な強さが込められていた。そこには岡山県が持っているような天上的な美しさは微塵みじんもない。しかしその武骨さには生き続けることへの強い熱意のようなものが感じられた。そのなまの感情はごつごつとした彼の手から僕の中へと、じかに伝わってきた。

今や決定は僕自身の判断に委ねられていた。美しい岡山県と、力強い北海道。しかし僕はどちらとも決めることができなかった。僕は暗い水中で宙ぶらりんになったまま何一つ決めることができないでいた。肺に溜めこんでいた空気はすでになく、呼吸は限界に達していた。

最初に手を離したのは岡山県だった。彼女はあきらめたように微笑むと、僕から手を離し月の像の中に完全に入り込んでいった。そこで彼女は完全に姿になったように見えた。あらゆる拘束を離れ完全に自由になったように見えた。彼女の姿はだんだん透明になっていった。北海道は急いで僕を引っ張り、水面に引き上げようとしていた。僕の意識の明りはまるで切れかかった電球みたいに弱々しく、今にも消えゆこうとしていた。意識が完全に暗闇に沈む直前、岡山県は何かを思い出したみたいにちょっとだけ引き返し、その非現実的な唇で僕に口づけをした。温かいが、同時にひどく冷たい口づけだった。僕は彼女の身体に手を伸ばした。その美しさをほんの少しでいいから実際にこの手で感じ取ってみたかったのだ。しかし結局なんにも触れることはできなかった。そこにいたはずの彼女はすでに消え、ただ暗く冷たい湖が僕を包み込んでいた。

その朝は雨が降っていた。昨晩見た夢は僕自身の中のを揺り動かしていた。右腕と左足にはそれぞれ岡山県と北海道に掴まれた感触がありありと残っていた。僕は傘もささず、レインコートも着ずに雨の降る外に出た。そしてどんよりと曇った空を見上げた。次々に落ちてくる雨粒が僕の顔を打った。それは無数の細流となって流れ落ち、その下にある衣服を濡らした。あの外国州が帰るときに一緒に連れていってもらおう、と僕は決意した。そこにも同じような世界が広がっているだけかもしれない。こたえは見つからないかもしれない。でも僕は行かなければならない。ここを出なければならない。を開けなければならないのだ。

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟3 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)

(『カラマーゾフの兄弟』・亀山郁夫訳・光文社古典新訳文庫)
    

(Nat King Cole 『The Very Best of Nat King Cole』)

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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