新しい手帳を買って思ったこと

12月2日。土曜日。今日久しぶりに駅前まで自転車を漕いでいって、新しい来年用の手帳を買いました。一口に手帳を買うといっても、実際に商品を見てみるといろいろあって悩むものです。なんでもいいような気もするし、かといって一年中使うものだから、あまり気に入らないデザインのものは持ちたくない。しかし高くて分厚いものを買っても、おそらくそんなに書き込む予定もないだろう(特に僕の場合アルバイトの予定くらいしか書くことがないので)・・・。そう思って悩んだ結果、結局薄くてポケットに入れやすい大きさの、高橋の月間ダイアリーを買いました。色は薄い水色。ぐずぐず悩んで時間を無駄にしたような気もするし、一方でたまにこうして買い物をするのも、精神の休息にとっては必要なことなのかな、と思ったりもします。

そういえば去年、ちょうど今使っている手帳を買ったときには、果たしてこの最後のページ(つまり今年、2017年の12月のことです)まで生きていられるだろうか、と切実に思ったことを覚えています。なにもそれくらい経済的に逼迫ひっぱくしていたとか、精神的に追い詰められていたとか、そういうことではありません。ただ「今自分はまったく将来の予想がつかない状況にいるのだ」と実感しただけのことです。でも結局、外面的に見れば大した問題もなく日々は過ぎていきました。ひどく不安に思っていたにしろ、実際にはなんとか生き延びられるものです。それはまあ人生の良き側面かもしれない。。でももちろん、いつまでもこのままの状態でいいわけではありません。僕としてはできれば専業の作家になりたいのであって、ずっとアルバイトの予定だけで手帳が埋まるのは、あまり良いことではないからです。

しかし、にもかかわらず、大事なのはもっと目に見えないものだ、という思いもあります。それは小さいけれど、たしかな思いです。それは時間をかけて徐々に固められていきました。来年の4月になれば、宮城から東京に出てきてちょうど二年になります。「もうそんなになるのか」という気もしますし、一方で「まあそんなものかな」という感じもします。なにしろ僕の場合、24にしてほとんど社会経験もないまま(アルバイトの経験すらろくになく)こちらで一人で生き延びていく必要があったので、感じる不安もひとしおだったのです。

とにかく僕が言いたいのは、その間になんとか少しずつ成長してこられたかもしれない、ということです。ほかの人から見れば「いや、お前なんかまだまだひよっこだよ」ということになるでしょうが、まあそれは事実だから仕方ないとして、僕はまさに自分のために、自分がもっと良く生きるために、成長する必要があったのです。

考えてみれば、僕の本来の目標とは、その「良く生きる」ということだったのです。そしてあくまでそのとして作家になりたいという希望があった。最初から作家になりたいという希望を持っていたわけではないのです。むしろなぜか「安易に作家を目指すことだけはしてはいけない」と思っていました。

というのもそこには何か「本当に大事なもの」が欠けているような気がしたからです。それは単なる職業選択の問題だけではなかった。もっと「生きる」という行為の本質に迫るものがあったのです。でもまあ、そんな七面倒くさいことは抜きにしても、本当に「書きたい」と思うまでは、無理に何かを書くべきではない、と思っていたことが一番大きいかもしれない。無理矢理何かをやるということが、あまり正しいことだとは思えなかったのです。

それでしばらくぐずぐずしていて、あるとき結局「自分には書くことのほかに選択肢はないのかもしれない」と感じるようになりました。それでおそるおそる書き始めてみたのですが「こんなのじゃ全然駄目だ」という思いと、「なんだ、案外書けるじゃないか」という思いの両方が心を支配しました。果たしてそのどちらが正しいのかは分からないのですが、おそらくどちらも同じくらい真実なのでしょう。ポイントは「それが一種のこころみである」ということです。そのことに気付いたのは、もう少しあとのことでした。

今では大体分かってきたのですが、おそらく「完全に百パーセント正しい答え」というものはどこにもないのでしょう。だからこそ我々は試みる必要があるのです。だからこそ少しずつ成長していく必要があるのです。というか、しないよりはした方が楽しく生きられるかもしれない、と思うのです。

おそらくこの文章の骨子は、僕が「毎日少しずつ成長していきたいと思っている」ということです。そういうことをまあ、今日手帳を買ってふと考えたのです。それが「試み」であるからこそ、僕らには頑張るだけの余地がある。考え、悩むだけの余地がある。何かを知っていると思い込んでしまったら、もうそれ以上その先には進めません。

最近特に思うようになったのは「心を柔軟に保っておくことが何よりも大事だ」ということです。それが凝り固まってしまったら、人間は決して自由にはなれません。しかし凝り固まることが一種の甘い誘惑であることもまた事実です。それは教条主義であり、何が正しいのか分かっていると思い込むことです。世界を狭く限定することです。「自分はこれをしていればいいのだ」と完全に決めてしまうことです。それに比べて自由になることは、みっともないし、何一つ分からないときています。優柔不断で、もやもやしていて、何か格好いいことを言うこともできない。他人を一瞬で納得させる、ということができないのです。

でももちろんそこにこそ何か大事なものが潜んでいます。それはおそらくです。車輪のようにグルグル回転し続けることです。その本質は、いつも目に見える表面の奥に潜んでいます。いい音楽を聴けばそれは本能的に理解されるでしょう。いい文章を読めばそれは身体的に理解されるでしょう。大事なのはそれが感じられる、ということなのです。

ここまでいろいろと書いてきましたが、結局一番大事なのはたぶん楽しむことです。それを忘れてしまったら、いろんなことがただの形になってしまう。つまり単なるパフォーマンスになってしまうのです。他人と、そしておそらく自分自身に向かって、演技をし続けるだけに終わってしまうでしょう。僕はおそらくそういうことを、身を持って学ぶ必要があったのだと思います。これまでもそうだったし、これからもそうです。一歩一歩そうやって学び続けることが――そしてそれによって少しずつ自分のあり方を修正していくことが――僕にとってはとても重要なことなのです。

でもまあ、そんなことを言いつつ、やはり早くどこかの新人賞を取って、賞金をもらって、もっと自由な時間が増えたらな、と思っていることもまた事実です(つまり世俗的な願い、ですね)。きっと内面的なことも大事だし、それを補完する外面的なこともまた重要なのでしょう。僕はおそらくその境目さかいめを見つめ、両方のバランスを取ることを学ぶべきなのかもしれない。

東京に来るまでは、内面的なことの方がずっと大事なんだぜ、とひそかに思っていました。というのも周囲の人たちは外面的なことばかりに心を奪われているように見えたからです。それはまあ事実かもしれないのですが、やはり内面的なことに集中するにはどうしても外面的なことが必要になります。僕はそれをひしひしと感じてきたし、これからもやはり感じ続けるでしょう。要するに外面的なことはコップで、内面的なものはその中身だ、ということです。そしてその中身は往々にして目に見えない。でも文章という形にすることで――つまり「良い文章」ということですが――他人と共有できるものになる可能性はあります。

ときどきこのサイトにもコメントを寄せてくださる方がいますが、そうすると僕なんかの文章でも、なんとかその「共有」の役に立ったのかな、とうれしく思います。もちろんこのままでは足りないのも事実ですが、それはまあこれから少しずつ頑張っていくしかありません。コツコツとそのときその場でできることをやっていくしかない。そしてそれが十分にできて初めて――つまりそういう態勢をつくることができて初めて――職業的な作家になる準備ができた、ということになるのかもしれません。

まあとにかく必要なのは一歩一歩人間的に成長していくことです。そうすることが文章そのものをレベルアップさせていく。というかと信じています。小手先ではない、しっかりと身の入った文章です。

そして僕は一体誰に向かってこんなことを言っているのか? おそらく自分自身だとは思うのですが、あるいは誰か目に見えない相手に向かってしゃべっているのかもしれない。インビジブル・マン。あるいはインビジブル・ウーマン。まあどちらにせよ、こんな文章でも誰かの暇つぶしの役くらいには立つかもしれない。そう思ってアップしました。それではまた。おやすみなさい。

12月2日(土曜日)、22時05分、自宅にて

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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