FIFIワイルドカップ

「俺はFIFIワイルドカップに出場する」と彼は言った。僕らはそのとき大学の四年生で、もうすぐ社会に出ようとしていた。

「なんだそれ?」と僕は言った。「FIFAワールドカップならまだしも」

「FIFAは残念ながら金に溺れてしまった」と彼は言って、悲しそうに首を振った。「組織が大きくなりすぎたんだ」

 

 

彼によれば「FIFIワイルドカップ」とは、正式に国とは承認されていない地域の代表チームが集まって対戦するサッカーの国際大会だった。

「俺はザンクトパウリ共和国の代表入りを目指す」と彼は確信に満ちた声で言った。(注:ザンクトパウリはドイツの都市ハンブルクの一地区)

「でも君サッカーの経験あるのか?」と僕は言った。僕の記憶によれば、彼は今までいくつかのスポーツをやって、そのすべてを途中で投げ出していた。

「中学校の体育でやった」と彼は得意げに言った。「俺は三年四組の得点王だった」

 

しかしいくら三年四組で得点王だったからと言って、FCザンクトパウリはハンブルクを拠点とするプロチームだ。いくらなんでもサッカー未経験の日本人と契約するわけがないではないか。でもどれだけ僕が言い聞かせても彼は何も言うことを聞かなかった。

「俺は行く」と彼は言った。「それだけが今の俺の人生の目標なんだよ」

 

 

今思えば、彼もまた僕と同じように社会に対する恐怖(それは結局のところこれから先の人生そのものに対する恐怖でもあったのだが)から目を逸らすため、何か気持ちを没頭させることのできる対象を求めていたのだろう。もっとも僕はさすがに彼のようには何かに飛びつくことはできなかった。良くも悪くも、僕はもっと疑いを持ってものごとを眺めるのに慣れてしまっていた。

 

彼は卒業を待たずにハンブルクに飛び(費用は彼の両親が捻出してくれた。ちなみに彼の実家はかなり裕福だった)、三カ月後、僕が消去法で選んだ会社(といっても想像していたほど悪い職場でもなかったが)でなんとか現実社会に適応しようとしていた頃に戻ってきた。彼は僕の会社が入っているビルのロビーに、顔中髭を生やして、FCザンクトパウリの象徴であるドクロの旗をまとって座っていた。ビルに入って来る人たちはみな彼を遠くけて歩いていた。

 

「よお」と彼は僕を見ると言った。

「帰ってきたということは」と僕は言った。「ザンクトパウリ共和国代表にはなれなかったんだな」

彼は残念そうに頷いた。「さすがに契約はしてもらえなかった」と彼は言った。「サッカー経験が浅いのがすぐにばれてしまった。二部リーグだから簡単だろうと思ってたんだが、現実はそう甘くなかった」

 

僕は当たり前だろう、と言いたかったのだが、なんとかぐっと我慢した。彼は続けた。「その代わりハンブルクのザンクトパウリサポーターとは仲良くなった。毎日ビールを飲んで、ソーセージを喰っていた。ドイツ語も上手くなったぜ。ハンブルクってのはビートルズが大人になった場所だ。『大人になる』というのがどういうことなのか、俺も少しは身をもって学んだかもしれない」

「それじゃあ結局こっちで就職するのか?」と僕は聞いた。

「いや、今度はチベット代表を目指す」と彼は言った。「その方が現実的だと気付いた。それにほら、チベットなら顔も似ているだろう」

 

 

そうして彼は実際にチベットに行ったのだが、結局また数カ月後に戻ってきた。そのときの僕は現実社会に適応している自分と、適応したくない自分との齟齬に悩んでいた。でも彼はそんなことは考えてもいないみたいだった。彼の頭にあったのはなんとかしてFIFIワイルドカップに出るということだけだった。

 

「いや、なかなか」と彼は赤く日焼けした顔で言った。「チベット社会というのも難しいんだな。俺はサッカーをやりたかったんだが、それにはまずチベットのお寺で一年は修行しろと言われた。そうして初めて本当のチベット人になれるのだと。でもあそこには美味いビールもないし、ソーセージもない。俺はハンブルクに慣れ過ぎたんだよ」

 

 

彼はその後ザンジバル代表入りを目指したのだが、間違えてマダガスカルに行ってしまい、結局アフリカの陽光のもと、海水浴をして帰って来た。そこでさすがにあきらめるかと思ったのだが、次は懲りずにグリーンランド代表入りを目指し、現地のイヌイットの仲間入りを果たした。しかしアザラシの肉にあたって腹を壊し、結局ハンブルク経由で帰って来た。帰って来たときの彼はビールの飲み過ぎで少し太り始めていた。

「参ったな」と彼は出始めた腹をさすりながら言った。

 

 

彼はきっと、FIFAという巨大権力に対抗しようとしたFIFIの(僕はいまだにそれがどのような組織なのかよく分からないのだが)心意気のようなものに共感したのだと思う。それを(その思いを)上手く自分なりの行動にアレンジできればよかったのだろうが、残念ながら彼はそれほど器用な人間ではなかった。まあその不器用さが彼の一番の魅力だと言ってもよかったのだが。それでも自分の一番の(そして唯一の)友人が迷走し続ける様を見るのは僕にとっても辛いことだった。

 

 

「そろそろ現実的になるべきなんじゃないか?」と僕は言った。それは彼が最初にハンブルクに発ってからちょうど一年後のことだった。

「現実的になって、会社のために貴重な一生を捧げるのか?」と彼は聞いた。

「なにも会社にすべてを捧げる必要はないさ」と僕は言った。「みんなそうだよ。大事なのはきっと社会的な義務と自分の生活とのバランスを取ることだ」

「『社会的な義務』って何なんだ一体?」と彼は言った。「一体どこに義務なんてものがあるんだ?そんなのは言いわけだね。自分がやりたいことをやらないための言いわけだ」

 

彼は今珍しく興奮していた。「だって君、自分の顔をよく見てみろよ。まるで死んだ人間みたいじゃないか。いや、死んだ人間の方がまだ生きてるように見えるくらいだ。そりゃ生活のためにはお金は必要だろう。でもその生活は一体何のためにあるんだ?心の一番奥の方で、何かもっと大事なものを追求しなきゃつまらないだろう」

「それで僕は何を追求すればいいんだろう?」と僕は言った。僕は本当にそれを知りたかったのだ。

「そんなの俺に聞くなよ」と彼は言い、瓶から直にビールを飲んだ(そのとき我々は僕の部屋で酒を飲んでいたのだ)。「君は俺なんかよりずっと頭が良いと思っていたんだけどな」

「頭なんか良くないさ」と僕は言った。「それに良くなりたいと思ったこともない」

 

 

我々の間には一瞬沈黙が下りた。それは思っていたよりもずっとシリアスな沈黙だった。それは我々が(無意識的に)ずっと避けてきた沈黙だった。それを和らげるためか、彼は一度咳払いをして言った。「なあ。二度目にハンブルクに行ったとき(彼はもう四回くらいハンブルクに行っていた)、一匹の犬と仲良くなったんだ」

「犬?」と驚いて僕は聞いた。犬?

 

「そうだよ」と彼は言った。「きっと野良犬だと思う。薄汚い、間抜けそうな犬だった。俺はよくハンブルクの公園のベンチに座ってソーセージを喰ってたんだが、その匂いを嗅いでそいつがはあはあと息をしながら寄って来たんだ。口からはよだれが垂れ、目やにがこびりついていた。俺がソーセージを少しちぎってやると、そいつは嬉しそうにぱくついていた。そしてそいつの間抜けそうな、いかにも何も考えてなさそうな顔を見ていたらだね、俺は気の毒になってしまった。だって世の中にはもっと賢い犬だっているわけだろう。それがなんでこいつはこんなに間抜けに生まれてしまったんだろう、ってな。そんなの不公平じゃないか」

僕は何も言わずただ彼の話を聞いていた。

 

「その後行ったときも奴はいた」と彼は続けた。「でもきっと俺のことなんか覚えてなかったんじゃないかな。あいつの頭にはただ目の前のソーセージのことしかないんだ。イギリスのEU離脱交渉とか、トランプ政権とか、イスラム原理主義のことなんか一切頭にない。ただソーセージのことだけを考えている。いや、考えているってんじゃないな。もはや頭そのものがソーセージなんだ。脳そのものがソーセージなんだ」

彼はまた興奮していた。まるで急に何かのスイッチが入ったみたいだった。

 

「世の中には生まれつきサッカー選手に向いている人もいれば、芸術家に向いている人もいる。でも一体俺は何なんだ?俺なんて何の取り柄もないじゃないか。俺にできることといったら就職しないことくらいだ。そんな人間に何の価値がある?まるであの犬と一緒じゃないか」

「君はまだ自分が何をやりたいのかよく分かっていないんだよ」と僕は言った。彼がこんなに自己否定的になるのはずいぶん珍しいことだった。

「でもいつまでもそれが見つからなかったとしたら?」

 

僕は何も言えなかった。何か適当ななぐさめの言葉をかけられればよかったのだが、彼が悩んでいる問題は、つまりそのまま僕の問題でもあったのだ。そして僕はといえば、その問題に面と向き合うことすらできていないのだ。そんな人間に一体何が言えるだろう?

 

「俺はやっぱりザンクトパウリ共和国に移住することにする」とやがて彼は言った。「今はそこが俺の場所だという気がするんだ。そこでなんとかゲイになろうと思う。ゲイか芸術家じゃないとハンブルクの一番ディープなところには入って行けないからな。そして残念ながら俺は芸術家じゃない」

僕は唖然として口もきけなかった。でもなんとか気を取り直して言った。「FIFIワイルドカップはどうするんだ?」

「練習は続ける」と彼は自信なさげに言った。「もしかしたらそのうちオファーが来るかもしれない。でもそのためにはちょっと減量しないとな」。そう言うと寂しげに次のビールの栓を開け、そこから直にごくごく飲んだ。

 

 

 

その数カ月後、彼から手紙が届いた。それはペンギンの図柄が入った便箋で、消印は南極になっていた。その手紙によれば彼は今南極に住んで、ペンギンにオフサイドのルールを教えようと奮闘している、ということだった。

 

「あの後ハンブルクに行ったとき」と彼は書いていた。「俺はまたあの犬に会ったんだ。相変わらずの間抜け面で、俺がソーセージを持って行くとちょうど誰か別のドイツ人のところで食べ物をねだっているところだった。でもそのドイツ人っていうのが意地悪なじいさんでさ、犬が寄って行くと悪態をついて蹴飛ばしやがったんだ。その犬は歯向かうこともせず、ただやられるがままになってた。それでそのじいさんがいなくなったあと、その様子を遠くで見ていた女の子が気の毒に思ってそいつに食べ物をくれた。その犬はさっき蹴飛ばされたことなんかもう忘れてしまったみたいにして、うれしそうに女の子の手から何かを貰っていた。俺はそれを見てちょっと気の毒な気分になってしまった。だっていくらなんでもプライドというものが無さ過ぎるじゃないか。犬にだって誇りというものは――たとえごく僅かにせよ――必要だろう?俺はそれで複雑な気分になってただその光景を眺めていた。

 

するとその犬は女の子が立ち去った後、急に俺の方を振り向くと――頼むから信じてくれよ――大きく口を開けて一度にやりと笑ったんだ。見間違いじゃない。なんなら神に誓ってもいい(まあ俺は無宗教だが)。とにかくそいつは間違いなく俺に向かって笑ったんだ。それは「何もかも理解している」っていう感じの笑いだった。そう、何もかもをだよ。俺がその光景を見つめていたことも奴はちゃんと知っていた。そいつは、実はものすごく賢い犬だったんだ。そいつはかしこ過ぎて、自分は間抜けの振りをすることに決めたんだよ。それが食べ物を得るための手段として有効だと思ったんだろうな。でもそんなことだけじゃなく、そいつは世界に関する様々なことを完全に理解していた。そういう目をしていたんだよ。俺はもちろんそれを見て多大なショックを受けてしまった。その犬は俺なんかより明らかに賢かった。この世のすべての人間を合わせたより賢かった。そしてそいつがにやりと笑って俺を見たんだ。俺は自分が何を考えればいいのかも分からなかった。ただソーセージとビールを持って、そこに立ち尽くしていた。それではっと気付いたときにはもうそいつはいなくなっていた。まるで夢か幻だったかのように。でもさっきの意地悪な爺さんも女の子も実際にまだ公園の敷地内にいた。だからそれは幻ではありえなかったんだ。あの犬の姿はいつまでも俺の網膜に焼き付いていた。そいつはやはりにやりと笑って、こう言っていた。

「なあ、兄さん。この世界を生き抜いて行くってのはそう簡単なことじゃないんだぜ」

でもそいつの目は同時にこう言ってもいた。「でもさ、間抜けであるってのも悪くない。間抜けになれるってのはさ、一つの才能だよ」

 

 

俺はそのとき瞬時にFIFIワイルドカップのことを思い出した。そうだ、と俺は思った。俺は簡単に夢をあきらめるべきじゃないんだ、と思った。それがいくら馬鹿げていても――いや、馬鹿げているからこそ――あきらめたりしちゃ駄目なんだと。あの犬の視線からなんでそういう結論が引き出されるのかと疑問に思うかもしれない。でも俺にはそれはとことん合理的なことに思えたんだ。あの犬は、いわば俺の一番ディープなところをディスターブしたんだ。分かるか?もし本当にこの世でまともに生きたいんなら、俺たちは間抜けになるしかないんだよ。それもとことん間抜けになる必要がある。とにかく俺はあの視線からそういう教訓を引き出したんだよ。

 

そこでなんとか頭を振り絞った結果、俺はあることを思いついた。そうだ、南極代表として出場すればいいんだとな。そこで新しくチームを作って(俺のチームだ)FIFIワイルドカップを制覇しよう、とな。

 

 

直近の問題は人数が足りないことだ。今のところ間違ってシドニーから漂着したオーストラリア人の酔っぱらいと、あとはペンギンたちでチームを作ろうと思ってる。昭和基地の隊員にも声をかけようかと思ったんだが、考えてみればあの人たちはすでに日本国籍を持ってるだろう。だから俺は新たに独自のチームを作る必要があった。クジラにも声をかけようかと思ったんだが、あいつらには足が無いからな。今はペンギンにオフサイドを教えようと思ってる(酔っぱらいは何も理解できないから教えるのはあきらめた)。彼らのライン取りは完璧だから、オフサイドトラップを覚えれば、まあザンジバル代表くらいには勝てるかもしれない。残念なのは次のワイルドカップの開催がまだ未定だということだ。予定が決まったらまた最寄の郵便局から手紙を送るよ。それじゃ、さよなら。

 

P.S. 最後になるが、もし君がそれでもいいと思うのなら、このチームの背番号十は君のために空けてある。南極に来るにはパタゴニア(アルゼンチン側だ)から定期便が出ている。早く返事をくれないと皇帝ペンギンのリーダーに十番を渡さなくちゃならなくなるぞ。彼らにだってメンツというものがあるからな。それじゃ(今度こそ本当に)さよなら」

 

 

手紙の最後には彼のサインと、皇帝ペンギンのリーダー(「ジネディーヌ」と名付けたと彼は書いていた)の足型がついていた。僕は彼に返事を書こうとしたのだが、すでに頭の中は南極のことで一杯になっていた。一体何着のコートを持っていけばいいんだろう?食糧は?ペンギンへの差し入れは?でも僕は首を振り、一度現実へと戻った。そして、なんにせよ、考えるのはまず会社を辞めてからにしよう、と思った。

 

 

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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