護符 1

日曜日、彼の正餐せいさんは午後3時に始まる。もちろんいつもそんな時間に食事を取るわけではない。普段の正餐せいさんは午後7時とか、7時半とか、まあそれくらいだ。なぜ日曜日に限って午後3時なのかというと、それは夜に大事な用があるからだ。

 

 

「大事な用って何だい?」と僕はそこで口を挟んだ。

 

「まあいいから続きを聞けよ」と彼は言った。

 

僕は頷き、ただその続きを待った。

 

 

彼の用とはつまり隙間すきまに入り込むことだった。実をいえばそれが彼の仕事だったのだ。

 

「隙間って何だよ」と僕はまた口を挟んだ。

 

「隙間は隙間だ」と彼は言った。「ものとものとの間のことだよ。そんなことも分からないのか?」

 

「分かるけどさ」と僕は言った。「どうしてそれが仕事になるんだ?」

 

「いいかい」と彼は言った。「彼は実は隙間すきま人間なんだ。彼はいろんなものの隙間すきまに住んでいる。現実と非現実の間。過去と未来の間。生と死の間。これで分かっただろ?」

 

僕は実のところほとんど理解できなかったのだが、これ以上彼をわずらわせたくなかったので、ただ頷いた。「分かったよ」と僕は言った。

 

「それでいい」と彼は満足そうに言った。

 

 

日曜日の夜、彼は世界と世界の隙間に入り込む。部屋に一人で座り込んで、ただ意識を集中するんだ。そうするといつの間にか隙間に入り込んでいる。それはいわば、彼自身の通路のようなものだ。自己と外界との間。意識と無意識の間。彼はそこを通って実にさまざまなところに行った。普通の人がまず行けないようなところだ。彼はそこでたくさんの不思議な光景を目にしてきた。口で説明するのが難しいような。

 

でもそれは普段の日曜日の話だ。その日だけはちょっと事情が違った。というのも、ほかの隙間人間たちとのミーティングがあったからだ。彼らはみな基本的に時間と時間の狭間はざまに住んでいるんだが、いつもすれ違っていて、なかなか同じ時間に、同じ空間に居合わせる、ということがない。だからある一定の期間を置いて、特定の時間、特定の場所に集まることに決めたんだ。そして今年そのミーティング会場に選ばれたのが、まさに彼の部屋だったというわけだ。

 

 

彼はそのために午前中いっぱいを使って部屋の掃除をした。床をほうきで掃き、雑巾ぞうきんで水拭きをした。至るところに掃除機をかけ、窓も拭いた。トイレをゴシゴシこすり、ついでにお風呂も磨いた。CDをきちんとアルファベット順に並べ、仕上げに腕立て伏せを50回やった。そして部屋全体を見回した。うん。悪くない。見えるところにゴミは落ちていないし、換気をしたから空気も清浄せいじょうだ。あとは飯を食って、夜に備えるだけだ。

 

 

その日のメニューはアジの干物と、味噌汁、それにポテトサラダだった。干物はもちろん買ったものだが、あとの二つはちゃんと自分で作った。お惣菜そうざいコーナーで買ったような適当なものじゃない。いや、これは何もお客さんに出すためじゃないよ。彼はそういうことが元から好きだったんだ。

 

そして食事を終えると、ソファに座って一眠りした。なにしろ大事な用だからな。そのときにうとうとしてたんじゃ話にならない。彼は目をつぶり、一時的に無になる。無になるというのは、そんなに難しいことじゃない。何一つ考えず、何一つしないようにするんだ。そうすればいつの間にか無になっている。

 

一時間ほど眠ると、大きく伸びをして、ミーティングの準備にかかる。言い忘れていたが、それはまだ寒い一月の出来事だった。日が落ちるのが早く、外はもう暗くなっている。彼は一度ベランダに出て、街の様子を眺めたあと、会場のセッティングに入る。

 

 

といっても大してすることなんかないんだ。床にあったものを脇にどかして、できるだけ広い場所を作る。彼らが自由に動くことのできる空間を作るんだ。それが一番大事。でもそもそも彼の部屋はそんなに広くないから、まあできる範囲で、ということだ。

 

そのあと床の真ん中に一本の蝋燭ろうそくを置く。なぜ蝋燭ろうそくかというと、人工的な明りはそこでは邪魔にしかならないからだ。でも蝋燭ろうそくの光なら大丈夫。そう決まっているんだよ。

 

 

彼はマッチで火を点け、カーテンを隙間なく閉める。そして電気を消してしまうと、あとはただ待つだけだ。ミーティングの開始予定にはまだ時間があるが、ときどきとても早く到着する人もいる。そういう人のためにホストはじっと待っていなくちゃならない。

 

さっきもいったように、それは一月だったんだけど、エアコンや暖房をつけてはいけないんだ。それもまた決まっていることだ。人工的な温かみはやはり邪魔になる。面倒くさいと思うかもしれないけど、ずっと昔からそう決まっているんだよ。

 

 

彼はそこでダウンコートに身を包み、床に胡坐あぐらをかいて目をつぶっている。そして頭の中で何やらいろいろと考えている。あんなことや、こんなこと。でもその内容を今君に教えることはできない。彼にだってプライバシーというものがあるからな。

 

 

そのうち最初の訪問客がやって来る。その人物は、気付くとすでにそこにいる。玄関とか、ベランダとかから入って来たわけじゃない。君はもう知っていると思うけど、彼らは空間と空間の隙間から入り込んでくるんだ。そうやっていつも、彼らは移動しているんだ。

 

 

最初に来たのは飛ぶオランダ人だった。

 

「ハイ」と彼は言った。「お元気ですか?」

 

青年は顔を上げた。そして蝋燭ろうそくの明かりの中にオランダ人の姿を発見した。彼はオランダ人なだけあって、背がとても高い。そして飛行士がかぶる、あの変な帽子をかぶっている。彼は大体いつも空を飛び回っているんだ。

 

「どうも」と彼は言った。「あなたは?」

 

「私はいつも元気ですよ」とオランダ人は言った。そしてにっこりと微笑んだ。「そうすれば人生は大体うまくいきます」

 

 

二人は並んで座り、ただそこにある火を眺めていた。何かしゃべることもできたが、特にしゃべりたいとも思わなかった。彼らはまあ、そうやってじっと座っていることが好きだったんだよ。

 

 

次に来たのが魔女だ。中世ヨーロッパの衣装を着て、怪しげな杖を突いている。彼女はボロボロのほうきに乗ってやって来た。一見すると年寄りに見えるし、別の角度から見るととても若く見える。でもまあ魔女だからな。どれが本当の姿なのかは誰にも分からない。

 

「こんちは」と彼女は言った。「しけたつらしてんね」

 

でも彼女だってしけたつらをしていたんだ。

 

 

次に来たのはサンタクロースだ。彼は十二月に一仕事終えて、フィンランドで休暇中だったんだが、空間を飛び回ってやって来た。リンリンリンというそりの音が遠くから聞こえたかと思うと、それはもう部屋の中にあり、トナカイが準備されていた水をピチャピチャと飲んでいた。部屋の中はむっとする獣臭さで一杯になった。

 

「やあ」とサンタクロースは言った。「どうだいみんな」

 

三人はそれぞれ返事をし――みんな大体元気だった――青年は立ち上がってトナカイの頭を撫でた。それは気持ち良さそうな声を上げ、またピチャピチャと水を飲んだ。

 

 

これで四人が揃った。もっともいつも四人というわけじゃない。不定期でさまざまな人がやって来る。子どもたちとか、鳥とか、犬とか、そういうものだ。ときどき魔女が余興のために過去の人間を連れて来ることもある。リンカーンとか、マルクス・アウレリウスとか、そういう人たちだ。そして演説を聴くんだ。彼らは実に気持ち良さそうにしゃべっていったよ。もっとも青年は英語もラテン語も知らなかったから、何を言っているのかさっぱり分からなかったけどな。まあそういう立派な人たちならいいんだが、前に何かの手違いでアドルフ・ヒトラーが演説に来たことがあった。その迫力たるやすさまじいものだったんだけど、聴衆の誰もナチス式敬礼を返さなかったから、怒ってそのまま帰ってしまった。まあそれはそれでよかったんだけどね。

 

ただ今日のところは余興はなしだ。なにしろホストは青年だから、魔女はおとなしくしている。彼女が誰かを呼ぶのは、自分がホスト(正確にはホステス)のときだけに限られている。今日はただシンプルに会合を行う。

 

 

「ええ、ではみなさん揃いましたね」と青年は言った。そして残りの三人の顔を見た。飛ぶオランダ人と、魔女と、サンタクロースだ。サンタクロースはいつの間にかタバコに火を点けている。

 

「サンタクロースさん」と彼は言った。「実はこの部屋は禁煙なんですが・・・」

 

「いや、悪かった」とあまり悪くなさそうに老人は言った。そして持っていた携帯灰皿にぐいとタバコを押しつけた。「ついやってしまうんだよ。長年のくせでね」

 

 

青年はそこで一度咳払いをし、もう一度最初から始めた。「ええ、ではみなさん揃いましたね」。そしてあらためて三人の顔を見た。三人もまた彼の顔を見つめていた。

 

「ただ今から定期会合を始めます。これはまあ、いつも通りの会合ではあるんですが、普段とはちょっと変わったことがあるんです」

 

「それは何です?」とオランダ人がすかさず訊いた。

 

「最近隙間がひどく不安定になっているんです」と彼は言った。「ところどころ狭くなっているかと思えば、ものすごく広くなっている場所もある。これは以前にはなかったことです」

 

三人は黙って聞いていた。彼は先を続けた。

 

「そしてその広くなっている場所に、何か悪いものが巣食っている可能性があります。僕はそれをひしひしと感じるんです。たとえば僕は眠るとき完全な無になりますが、だんだんそれが難しくなってきている。無だと思っていたのに、起きるとそこには何かが入り込んでいたあとがある」

 

「つまり?」と魔女が言った。

 

「僕が眠っている間に、誰かが僕の身体を利用している可能性がある、ということです」

 

「実際に何かが起きた、という証拠はあるのかい?」とサンタクロースが言った。

 

「それはまだないんです」と青年は言った。「でもすごく嫌な予感がします。見てください。僕の右手は最近黒く染まってきている」

 

彼はそこで右手を差し出した。といってもそれはごく普通の手に見える。でも彼が「黒くなっている」というとき、それは単なる色のことだけじゃないんだな。それはたぶん影のことだ。蝋燭ろうそくに照らされた影を見ると、その部分だけ真っ黒に染まっていることが分かる。残りの三人はそれを見て息を呑んだ。

 

「これは・・・」とオランダ人が言った。

 

「前にも見たことがあるよ」と魔女が引き継いだ。「あたしの夫だった男さ。あいつは全部この色に染まっていたがね」

 

「そうするとどうなるんだ?」とサンタクロースが訊いた。

 

魔女は一度目をつぶり、深い溜息ためいきをついた。そして言った。「心が闇に染まってしまうのさ。そうするともう誰にもコントロールすることはできない。本人にさえだ。本当はそのまま死んでしまえばいいんだろうが、死ぬこともできない。永遠に奴らの手先に使われる」

 

「奴らとは?」と今度は青年が訊いた。

 

「それはまあ、あんたも実は分かっているんだろ?」と魔女は言った。「隙間を通り抜けているときに、気配を感じたことがあるはずだ」

 

「彼らは実際にいるのですか?」と青年は言った。「たしかに気配を感じることはあります。この闇の奥に何かがいるのだと。でも僕は、まだ実際にはその姿を目にしたことがないのです」

 

魔女はまた溜息をついた。そして言った。「あんたらはまあ、ある意味ではずっと無邪気に生きてきたのさ。隙間を利用しているのは何も私たちだけじゃない。それくらいは知っているだろう?」

 

「ええ」と青年は言って頷いた。

 

「そこには危険なものやら、邪悪なものがうようよしている。あんたの想像もつかないようなものが」

 

「でも僕はこれまで一度もそういうものに遭遇しなかった。それはなぜなんだろう?」

 

「それはね」と魔女は言った。「まず単に運がよかったからさ。あんたが使っている通路は、大して大きなものじゃない。それに隙間のそれほど奥深くを通っているわけでもない。だからあまりほかのものがやってこなかったんだ。あと一つはだね、あんたが心に『護符ごふ』を持っていたからだ」

 

「護符?」と青年は言った。

 

「そうだよ。護符だ」と魔女は言って頷いた。「もっともそれは目に見えるものじゃない。それはいろいろと形を変えるものなんだ。だからこそ護符になり得る。あんたはそのおかげで、これまで無事に生きてこられたのさ」

 

そこで彼女は黙り込んだ。残りの二人もまた黙っていた。部屋の中はしんとして、何の物音もしなかった。

 

 

「黒いサンタクロースのことを聞いたことがある」と突然サンタが言った。「ずっと昔のことだ。サンタの仲間に聞いたんだ。彼によれば、そいつは夏至げしの頃に活動する。夜遅く起きている子どもを誘惑し、そのままどこかに連れ去ってしまうのだそうだ。その後子どもがどうなるのかは分からない。そうやって何人もの子どもたちが消え去った」

 

「彼はその後現れなかったのですか?」とオランダ人が訊いた。

 

「どうも何年かおきに現れるみたいなんだ」とサンタクロースは言った。「でもそれが世界のどこなのかも分からないし、その間隔が百年以上いていることもある。だから誰も彼を捕まえられないんだよ」

 

「そいつもきっと闇の住人だね」と魔女は言った。「そうやって子どもたちを集めて、自分の都合の良いように利用するのさ」

 

「それで僕はどうすればいいんでしょう」と不安になりながら青年は言った。「このまま放っておいていいわけじゃないんでしょう?」

 

「もちろんだ」と魔女は言った。「さっき言った護符のことだ。あんたのそれはずいぶん弱くなっている。でもまだ多少は力が残っているから、今ここにいられるんだ。もしそうじゃなかったら一体どうなっていたか」

 

「どうすればそれを取り戻せるんです?」と彼は訊いた。

 

「うん、そうだね」と魔女は言った。「それにはまずあんたを解体する必要がある。分かるかい? 今あんたが持っている護符は、あんたが生まれる前から存在していたんだ。そしてその周りにくっつくようにしてあんたが存在している。だからそこをいじるには、一旦あんたそのものを解体しなくちゃならない」

 

「でもそうしたら、僕は僕でなくなってしまうんじゃないですか?」

 

「ある意味ではそうだ」と魔女は認めた。「でもある意味ではそうじゃない。というのも、その中心にある護符こそがあんたの本質だからだ。まあ、どちらを取るかによるね。あるいは多少見た目は変わるかもしれない。でも本質は変わらない」

 

「もしうまく解体できたとして」と青年はなんとか話についていきながら言った。「その護符は、そんなに簡単に強化できるものなのでしょうか?」

 

「それは正直いってやってみないことには分からない」と魔女は言った。「さっきも言ったように、それは形というものを持たないものだ。だからそのやり方も人によって違っている。誰かほかの人が上手くいったからといって、あんたがそのやり方で必ず上手くいくわけじゃない」

 

青年は少しの間黙り込み、それについてじっと考えていた。でもすぐに決心した。「それでも僕はやりますよ」と彼は言った。「そうしないと、僕は闇の手先に使われてしまうことになる」

 

彼らはそこでまた黙り込んだ。オランダ人とサンタクロースは、ただじっと二人の話を聞いていた。トナカイが顔を上げ、その首に付いた鈴がリンリンと鳴った。

 

護符 2』へ続く

 

 

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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