白い部屋 (1)

それは白い部屋だった。もうしばらく前からここにいる。広さは六畳ほどで、隅の方に鉄製のベッドがある。その反対側には小さな仕切り板があり、奥にむき出しの便器が設置されている。そちら側の壁の上部には手洗い用の小さな水道が付いている。ちなみにトイレットペーパーは何日かおきに支給される。

 

それ以外の場所にはただ白い床が広がっている。畳でもなく、フローリングでもない。ただの白い床。テレビもないし、本棚もない。もちろんステレオ装置もないから音楽を聴くこともできない。

 

 

こんな部屋で生活しながら、なぜか僕は一度も退屈しなかった。あるいはそれは僕の精神が異常をきたしていたからだったのかもしれない。だって普通の人間であればさすがにこんな生活には耐えられないはずだからだ。一応一日三食食事は出るものの、それは決して美味うまいものではない。苦痛を与えるためにわざと硬く作ったかのような食パン。イチゴジャムとマーガリンの小さなパックが付いてくる。ほかの味はない。あとは牛乳。それにときどきフルーツ。リンゴや、オレンジ。それらは不思議と何の味もしない。あるいはこの白い壁がその風味や匂いなんかを瞬時に吸い取ってしまうのかもしれなかった。

 

 

部屋の正面にはドアがあるが、それが開けられることはめったにない。代わりにその下にある細長い、四角い穴からいろいろなものが届けられる。といっても食事とトイレットペーパーくらいのものなのだが。

 

 

一体何をしたのだろう、とときどき思う。よく考えてみればここの状況は刑務所(あるいは拘置所)そのものじゃないか、と。僕はかつて大学の法学部にかよっていた。だから多少の法律的知識はある。そこから導き出された結論は、たとえ僕が何か犯罪行為を犯したとしても、このように何の説明もなく長期間留置することは一切認められていない、ということだった。しかし誰一人としてここを訪ねてくるものはいない。国選弁護人もいない。たとえばちょっとした電話をすることもできない。もし僕が本当に犯罪を犯してここにいるのだとしたら、きっと母親は死ぬほど心配――あるいは立腹――していることだろう。

 

 

僕はそこで自分の母親の顔を思い出そうとしたのだが、なぜかそれは不可能だった。記憶の中の彼女がいたはずの場所には、今は深い暗闇しか存在しなかった。そして同時に小さい頃の僕の姿もまた、その同じ闇に覆われていた。それは宇宙そのものよりも深い暗闇だった。なにもかもがその奥へと吸い込まれていく。でもどこにも星の姿が見えない。

 

結局あきらめてなんとか直近の記憶だけを探ってみることにした。それくらいならなんとか思い出せるかもしれない。

 

 

ということで、一番最初にここに来た日のことを思い出そうとした。でもそれもやはり不可能だった。毎日毎日この白い部屋で同じように過ごしてきたせいで、日付の感覚というものがなくなってしまっている。今日は何月何日だったっけ? というか――と僕はそれに気付いて今さら愕然がくぜんとしたのだが――今年が西暦何年だったのかすら思い出せない。たしか2000年は越えていたはずだよな。2001年に外国で大きな事件があって・・・。でもそこから先はやはり同じような闇が覆っていた。それがもともと僕の中に存在していた闇なのか、あるいはここに来てから誰かに注入された闇なのかは分からなかったが、少なくとも今把握できるのは、これが僕の力では太刀たち打ちできないものだ、ということだけだった。

 

 

そのように考えを巡らせたあと、結局いつものようにただ壁を見つめていた。ベッドに腰をかけ、反対側に広がるのっぺりとした白い壁を眺める。それは絵画のキャンパスのようにも見える。もっともここに絵の具のたぐいは一切ないが。あるいはかつて僕は絵をいていたのかもしれない、とふと思う。だからこそこんな風に真っ白な壁を見ると心が落ち着くのでないか。でもすぐに思い直す。もしそうだったら、きっとこんな状況には耐えられないだろう。だってもし何か着想が浮かんだとしても、それを目に見える具体的な形に移し替えることができないのだから。

 

 

そういえば伝え忘れていたが、僕は上下真っ白な服を着ている。周囲の状況から判断して、おそらくこれが一種の囚人服のようなものなのだろうという想像はついた。もっとも僕の記憶にある限り、これはまだ一度も洗っていない。今度食器を返すときに一緒に出しておけばあるいは交換してくれるのかもしれない。でもざっと見る限り、どこにも汚れはないし、匂いもない。何か特殊な素材でできているのかもしれない。

 

 

あるいは殺人を犯したのかもしれない、とふと思う。このような厳重な施設に、ここまで自由を奪われて監禁されているのだから、何か世間に対して尋常ならざる損害を与えたのかもしれない。たとえば小さな子どもを何人も殺したとか。若い女性をレイプしたとか。でも僕には分からなかった。本当にこの僕がそんなことをしたのだろうか? 僕は――少なくとも今この瞬間は――こんなに落ち着いて生活している。人を殺したりする理由なんか何もないような気がする。本当にこの僕がそんなことをしたのだろうか?

 

そのとき壁の表面で何かが動いたような気がした。僕は意識を集中し、じっとその部分を見つめる。でも何の変化もない。やはり見間違いだったのだろうか? しかし目を逸らそうとした瞬間、やはりまた何かが動いた。一体何だろう・・・。よく目を凝らすと、壁の一部分が波打つように動いていることに気付いた。右上の高い位置だ。その部分は小さく揺れ続け、そして次の瞬間、ぴたりと静止した。あとには奇妙な静けさだけが残った。

 

 

僕はしばらく座ったままでいた。その部分を実際に手で触って確かめようとも思わなかった。というのもそれが前と変わらない、単なる固い壁に過ぎないことをよく知っていたからだ。今の波はおそらく僕自身のが反映されて目に見えたものなのだろう。だとしたら、あれは一体何を意味しているんだろう? 固い壁が揺れている。本来強固であるはずの壁が揺れている。それは一体どういうことなんだろう?

 

 

そんなことを考えていると、やがて食事が運ばれてきた。たしかにちょうど腹が減っていたところだった。ここの食事は、いつも僕の空腹具合を計算したようなタイミングで運ばれてくる。でもさすがにそんなことはあるまい。きっとほかにも収容者がたくさんいるはずだから。

 

トレイに乗せられて、今日は白いシチューが運ばれてきた。小さなロールパンが二つ付いている。あとはプラスチックのスプーン。トレイを差し出すときに人の腕が見えた。ここしばらくの間僕が見た生きている人間といえば、この配膳係しかいない。といっても肌の色から二人の人間がいることは分かっている。今日は少し色黒の方だ。彼は――おそらく男だと思われるが――ただ機械的にトレイを差し出し、そして帰っていく。一切何も言わない。大丈夫か、とも、体調はどうだ、とも。、とも。おそらく収容者に話しかけることは規則で固く禁じられているのだろう。

 

僕はそれをベッドの上に持っていき、いつものように機械的に口に運ぼうとした。でもついさっき見た壁の揺れのせいで、食欲はどこかに消え去っていた。ここに来て以来初めて気分が悪いと感じた。めまいがして、身体の重心がうまく定まらなくなっている。ひたいから汗が落ちてきた。シチューの匂いが――普段なら好きだったはずの匂いなのだが――今では耐え難いものとして感じられた。

 

 

そのとき突然怒りが湧き上がってきた。激しい怒りだ。一体何に対する怒りなのか、始めはよく分からなかった。でもだんだんその焦点が絞れてきた。それはおそらく、僕をこのような場所に閉じ込めている外部の人々への怒りだった。僕はもうずいぶん長くこんなところにいて、自分が何をしたのかすら知らないままでいる。もし犯罪を犯したのだったらそう教えてくれてもいいはずじゃないか。たしかに僕はここで生かされている。食事だってまあそれほどひどいというわけじゃない。衛生状態だって悪くない。しかしこれでは本当に「生きている」とはいえないだろう。果たして僕はそんな風に扱われていていいのだろうか? 僕には怒る権利というものがないのだろうか?

 

やがてまた壁が揺れ始めた。その揺れはさっきよりももっとずっと大きなものだった。あるいは揺れているのは僕自身なのかもしれなかったが、そんなことはどうでもよかった。今僕が考えているのはただ一つのことだけだった。

 

 

気付くと僕はその手の付けられていない食事を壁に向かって投げつけていた。プラスチックの容器が落ちる大きな音が部屋中に響いた。それは僕がここに来てから立てたおそらく最も大きな音だった。あるいはこの音を聞いて、さっきの配膳係が駆けつけて来るかもしれない。でもそんなことはもうどうでもよかった。僕はとにかく何でもいいから、この怒りをぶつけられる具体的な対象を欲していたのである。

 

壁の揺れはすでに収まり、あたりはなぎのような静けさに覆われていた。予想に反してあの配膳係は急いで駆けつけて来たりはしなかった。僕はベッドに座り、床に飛び散ったシチューをただ眺めていた。ロールパンが二つ、離れたところに転がっている。プラスチックのスプーンがすぐ足元に落ちている。僕はそれを拾い、なんとかこれで自殺できないだろうか、と考える。たとえばの部分をのどの奥に突き刺すとか。でもすぐに考え直す。なにも僕は死んでしまいたいわけではないのだ。僕は生きたいのだ。たとえ犯罪者であったとしても、だ。それくらいの権利は僕にだってあるのではないだろうか?

 

 

しばらくそうやっていた。僕は空気の中に、ある重苦しい粒子を感じ取っていた。それは特別な場所からやって来た、特別な粒子だった。僕はそれを肺一杯に吸い込み、吐き出した。また吸い込み、吐き出した。そしてこう思った。これはあるいは僕自身の中からやって来たものなのかもしれない、と。

 

それを吸ってしまうと、なぜか心が落ち着いた。もうさっきのような怒りも感じなかった。外に誰がいようと、勝手に好きなことをやっていればいい。僕には今僕の考えるべきことがある。僕が思ったのは、つまりこういうことだった。たとえ身体的自由はなかったとしても、精神は自由になることができるのではないか? そしてもしそうだとすれば、この部屋にいることもさほど苦にはならないはずだった。

 

僕は壁を見つめ、再びそこに波が起こるのを待った。というのもそこにこそ突破口が潜んでいる気がしたからだ。あの揺れは壁の揺れであると同時に、僕自身の心の揺れでもあった。僕はそれをもっときちんとした形でとらえなければならない。揺れを、単なる揺れのままで終わらせてはいけないのだ。そうしないと僕はいつまで経っても自由にはなれないだろう。なぜかそういう気がした。

 

 

世界はしばらく動きを止めたままだった。もちろんこの刑務所(だかなんだか知らないが)の外ではきっと動いているのだろう。でも少なくとも僕にとってはここだけが世界のすべてだった。まるで小さい頃から狭い部屋の中だけで育てられた人間になったような気分だった。外に出ない限り何の危険もない。誰も彼を傷つけることはできない。しかしそれを「生きている」と表現することはおそらく誰にもできないだろう。

 

どれだけ経ったのかは分からない。シチューは相変わらず同じところに飛び散ったままだった。ロールパンもまた動きを止めてじっとしている。僕はプラスチックのスプーンを手にしたままベッドに腰掛け、その新たに起こった波を見つめていた。右上のはしの方からそれは起こり、徐々に中央へと移動していった。ここだ、と僕は思った。僕はそのひだの一つ一つを見つめ、そこに自分を同化していった。小さく身体を揺らせながら、自分はその壁になっているのだと思った。真っ白な、人々を囲い込む壁だ。でもそれは壁だ。無機質な、何も感じない壁ではない。ものを見て、ものを考える、生きた壁だ。ときには涙を流すかもしれない。誰かを心から愛するかもしれない。

 

僕はそのようにしてどこか別の場所に移動した。

 

白い部屋 (2)』に続く

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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