「モ、モロヘイヤ夫人!」と僕は言った。彼女に会うのは実に30年ぶりのことだった。当時僕はまだ生後六ヶ月くらいの小さな赤ん坊だったのだが、彼女はペースト状にしたモロヘイヤを無理矢理(ミルクに混ぜて、だが)僕に飲ませようとしていたのだ。幸い母親がそれに気付いて、警察が呼ばれた(彼女は僕の家の中に侵入していたのである)。その数分後に息急き切って警官が到着したときにはもう、彼女の姿はそこにはなかった。上品そうな、緑色をした夫人である、ということのほかは何の手がかりもなかった。ああ、あとは哺乳瓶の中のモロヘイヤか・・・。
とにかく、そのモロヘイヤ夫人が、今、東京都郊外の街で、僕の元にやって来たのである。ドアチャイムが鳴り(まったく・・・。誰だよこんな時間に。また不動産のセールスマンかな・・・)、僕は警戒してインターフォンにつながった受話器を取る。「はい」と僕は言う。「どちら様ですか?」
「あなたの知っている人ですわよ。ふふふ・・・」
ふふふ? と僕は思う。ものすごく不吉だ。そしてものすごく怪しい(その時点ではまだモロヘイヤ夫人のことを思い出していない)。声からするに・・・すでに六十代の域に入ろうとするかのような、女性のものだ。あるいは勤務先で一緒だった人かもしれない。でもそれならちゃんと名乗ればいいじゃないか? いったい誰なんだ? この怪しげな夫人は・・・。
僕はそおっとドアの方に行き(足音を立てないようにして、だが)、ドアミラーから外を覗いた。でも誰もいない。誰も、いなかったのだ。あれ? 変だな、と思う。そして――迂闊にも――ドアを開けてしまう。「あれ? おかしいな・・・」
と、そこで! ドアの影の方から――見えないところに隠れていたのである。まったく・・・――例のモロヘイヤ夫人が姿を現したのだ! 僕は瞬時にすべてを理解した。まるで・・・そう、まるで啓示を受けた預言者のように・・・。もっともそこにいたのは、神ではなく(その言葉でもなく)、モロヘイヤだったのだけれど。
「お久しぶりね。どうしてた?」と彼女は明るい声で言った。顔に皺はあるが、まだまだ元気そうだ。モロヘイヤ的に言って、六十代というのが老齢なのかどうか、僕にはいまいち判断できない(六十代というのも僕の勝手な想像なのだが、とにかく)。あるいはモロヘイヤ県においては、年金は90歳になってからもらえるようになるのかもしれない。そういったことも、十分あり得るように、僕には思えた。
「モ、モロヘイヤ夫人! まさかこんなところで会うとは・・・。以前会ったのはたしか・・・」
「ちょうど30年前の今日よ」と彼女は言った。「あのとき約束したじゃない? 30年後にまた会いに来るからね、って。忘れていたの?」
「忘れていたもなにも・・・僕はまだ生後六ヶ月の赤ん坊だったんですよ? そんな赤ん坊が、言葉を理解できるわけがないじゃないですか?」
「言葉は神であった」とそこで彼女は聖書を引用した。「神が言葉なんじゃなくて、言葉が神なのよね。ギリシア語で言えば〈ロゴス〉ってことになるんだけど・・・。まあそれはそれとして、どうなの? ちゃんと生きているの?」
「僕は・・・」と言って僕は自分の姿を見る。30歳。独身。アルバイト。休日用のラフな服装をしている。ついさっきまで腹筋をやっていた。これから蒸し野菜のサラダを作ろうというつもりだった。でもそんなのは表面的なことに過ぎない、と彼女の目は言っている。とにかく雄弁な目なのだ。それは。「まあなんとか生きてはきました。これまでの人生は・・・正直なところ、〈勘違いの是正〉に努めていたような気がします。というか勝手にそうなった、というか・・・」
「それはどういうことなの?」
「それはつまり・・・」と言って僕は頭を働かせる。彼女の黒いドレスの襞が、微かに揺れているのが見える・・・。「結局自分が思っていた世界と、実際にそこにある世界との間に、かなり大きな差があった、ということだと思います。そして自分自身についてもね。僕がそうだと思っている自分自身は・・・もっとみすぼらしかった。もっと弱々しかった。でも一方で・・・伸ばすべきポテンシャルのようなものも持っている。そのあたりのことが・・・ようやく最近になって理解でき始めてきたんです」
「ふうん」と彼女は疑わしげな顔をして言った。「私はさ、どうせあんたはまた鬱々として過ごしているんじゃないかって思っていたの。だってそういう相が顔に出ていたものね。子供の頃からさ。とにかくね、私はあんたがまだ言語を獲得する前に、モロヘイヤに隠して一種のヒントのようなものを与えておいたの。あんたはちょっとだけそれを飲んだわね。まあそのおかげで、なんとか生き延びることができたってわけ。分かる? あんたはあれがなかったらたぶんどこかの時点で電車に飛び込んでいたと思うわね。私は」
「本当に?」と僕は驚いて言う。「僕はあのとき・・・いったい何を体内に入れたのだろう・・・」
「人間の意識というのはね」と彼女は言う。「本能的に真実を覆い隠すようにできているの。なにしろ怖いからね。本当の世界というものは。そこには死もあるし・・・そう、本当の生もある。人々が真に恐れているのはむしろこっちの方ね。本当の生。立体的な生・・・。あんたにはね、それを生きるポテンシャルが潜んでいたの。私はなめこ男爵からその話を聞いてね、あんたの家に泥棒のように忍び込んだってわけ。でも何も盗んでいないわよ。本当に。ただあなたに真実の種を植え付けただけ。いや、というかね、正確にいえば空白のカプセルのようなものを植え込んだの。ほんっとに小さなカプセルだけどね。あんたはそこに、言語を獲得する前の、自分自身の意識を保存した。というか保存せざるを得なかったの。だってカプセルは空白だったからね。何かを吸い込むのよ。自然に、ね。あんたはそのカプセルを脳の片隅に保存し――記憶領域の隅の方にね――そのまま何も知らずにスクスクと成長した。結局は日本語を学んだわけだけど・・・その過程でこぼれ落ちていくものもたくさんあったの。何かを選択する、ということはそのほかのすべての可能性を捨てる、ということでもあるからね。でもあんたにはカプセルがあった。そこにはね、すべてが含まれていたの。そう、すべて、よ。言っている意味分かる?」
「分からないんですが・・・」と僕は言ってみる。「推測はできます。つまりそこには、時間的にも、空間的にも限界がなかった、と。なぜなら・・・分化する前の意識だから」
「そう。ちょっと違うけど、まあ大体合っているわね」と彼女は言った。「あなたは生と死の間に非常に近い場所で生きていた。まあ生後六ヶ月の赤ん坊なら大体そんな感じなんだけどね。でもあんたが違っていたのは・・・真実を自ら欲していたこと。それって顔で分かるのよね。その時点でもさ。まあとにかく・・・あんたはあのカプセルの中にね、自分のポテンシャルのすべてを保存したのよ。そうとは知らずにね。そこにはいろんなものの萌芽が含まれている。正直にいえば主観世界を構成し得る、あらゆる要素がね。時間も、空間もそう。記憶もそう。感情もそう。そこには同時に、未来もまた含まれている」
「未来も?」と僕は驚いて言う。「それはつまり・・・僕がこれからどうなるのか、という光景も含まれている?」
「あくまでその原型という意味だけどね」と彼女は言った。「あなたが生きるべき価値のある未来は、そこに全部含まれている。ねえ、30歳になったんでしょ? ということは、少しくらいは自分の頭が使えるようになった、ってことじゃないの? そろそろそのカプセルを開けてみたら?」
「でもどうやって・・・」と言いながら、僕はあることを思い出している。そのとき、つまり彼女が30年前に僕にモロヘイヤ入りのミルクを飲ませているときに、何かを言っていたのだ。おまじないのようなものだ。あるいはあれが一種の暗号だったのかもしれない・・・。あれを思い出せば・・・。「モロヘイヤだ!」と僕は言った。「たぶんちょうど何グラムかのモロヘイヤを食べれば・・・あんたはこれを解凍できるんだからね・・・とかなんとか言っていませんでしたっけ?」
「そうね」とニコニコしながら彼女は言った。「よく覚えていたわね」。彼女はそこで足元にあったスーパーの袋を見せた。「ここにちょうどその分のモロヘイヤが入っている。今からあんたの部屋で茹でてもいいかしら?」
「どうぞどうぞ」と僕は恐縮しながら言った。
彼女が愛情を寄せていたなめこ男爵はすでに亡くなってしまった、ということだった。「掴みどころのない男だったわね」と彼女は鍋にお湯を沸かしながら言っている。「いつもスルスルと逃げを張ってばかりいてね。きっとほかにも女がいたんだと思うけど・・・」。彼女はオクラボーイズとか、納豆美少女隊とか・・・とにかく様々なヌルヌルしていたり、ネバネバしていたりする人たちの話を聞かせてくれた。彼女のまわりには自然とそういった人々が集まってくるらしかった。オクラボーイズの一人は最近ラッパーとしてCDデビューした。別の一人は暴走行為で捕まった(自転車で時速80キロを出したのだ。そしてガードレールに衝突した。体液が漏れたが、それはネバネバしていた・・・)。納豆美少女隊の一人は、水戸に修行に行っている最中に妊娠して現地で結婚した。まあそこそこ幸せに暮らしているみたいだ。嫁姑問題はかなり大変らしいが・・・。
僕はそんな話を聞くともなく聞きながら、自分のこれまでの人生を振り返っている。なんだか不思議な日々だったな。当時には結構シリアスになって、もう駄目かもしれない、とか、俺の人生なんてクソみたいなものだ、とか・・・いろいろネガティブなことを考えたりもしたのだけれど・・・結局は30歳になって今ここにいる。あと何年生きられるのかも分からないけれど(本当にそう感じるのだ。人生は短い)、まあそれはそれで仕方ないじゃん、とか思っている自分もいるのだ。なるようにしかならないんだし、あるものをさ、ありがたく受け入れようじゃないの、と。みすぼらしい自分。みすぼらしい世界。退屈な日常。灰色の道路。排気ガスで汚れた空気・・・。でもそれらすべてが今の自分を生かしてくれているのだ。そもそも生きているという状態にどんな意味があるのかもよく分からなかったけれど・・・。
そのあたりでモロヘイヤが茹で上がった。彼女は包丁で刻んで、鰹節と、醤油をかけてくれた。器に盛って・・・はい、と渡される。僕はテーブルの方に移動し、それを食べた。自然なモロヘイヤの味がした。ネバネバして・・・ヌルヌルしている。モロヘイヤなんて食べたのはいったいいつ以来だろうな? 子供の頃以来かもしれない。当時から僕はこのネバネバヌルヌルが好きだったのだが・・・。
カチン、という音がして、僕の中の何かが解凍された。そういった感覚があったのだ。彼女は椅子に座って、じっと僕の様子を眺めている。一度視界が暗くなり、また明るくなった。変だな、と僕は思う。だって目は開けたままだったからだ・・・。
「あなたはね」と不思議な陰影を持った声でモロヘイヤ夫人が言う。「今知覚の扉を開こうとしているのよ。分かる? 意味が」
「よく分かりません」と僕は正直に言う。「モロヘイヤが美味しいということ以外は・・・」
「モロヘイヤはね、本当はモロヘイヤじゃないの」
「本当は?」と僕は驚いて言う。彼女の方を見るのだが、なぜか視界がぼやけてしまっていてよく見えない。さっき「カチン」という音が鳴ってから、なんだか見える光景が変なのだ。光が強過ぎる。事物の輪郭がぼやけている。重力がおかしい。重力? どうしてそんな・・・?
「本当はモロヘイヤはね、あなた自身なのよ。分かる?」
「僕自身・・・」
「あなたには粘りが足りなかった。人間としてのね。だから私がそれを足してあげたの。ほら、今ドアが見えるでしょ? 青い、木製のドア。視界の先に・・・」
たしかに彼女の言う通りだった。僕の視界の先には、ぼんやりと何かが浮かび上がっていた。意識を集中して――粘り強く、だ――それを理解しようと努める。俺にはできる、と僕は思う。30歳になったんじゃないか? これ以上逃げていてどうする? ほかに行き場所がないってことは、身をもって悟らされてきたじゃないか? これ以上グルグルを続けるのかい? この先に新たな世界が待っているのだ。おそらくは、より真実に近い世界が・・・。
「見えます」と僕は言う。「たしかに青くて、木製で・・・僕は今そのドアノブに手をかけています。ほら!」。でもそれは、ヌルヌルしていて全然回らなかった。なんだこれは、と僕は思う。僕はこの先に進みたいのに・・・。
「なめこ男爵に先を越されたようね」と彼女は言う。「あなたがグズグズしているから」
「だってなめこ男爵は・・・亡くなったはずでしょう?」
「彼の意志は生き続けている」と彼女は言った。「そして意志のあるところ、胞子はいつだって宿るのよ。適当なジメジメとした地面さえあれば、いつだって子孫を増やせるの。まったく・・・。厄介なことになったわね」
「僕はどうすれば・・・」
そのときドアのすぐ下のところに、身体がテカテカに光った――あるいはヌルヌルしているのかもしれなかったが――黒い蛇の姿が見えた。そう、蛇だ。僕は瞬時にその蛇に意識を一体化させた。蛇であることを想像すること。それ以外は考えなかった。そうすると・・・。蛇はドアの下のところのものすごく狭い隙間からあちら側へとスルリと入り込んでいった。僕の視点はすかさず一緒にあちらに移る。ドアノブなんて回す必要はないさ。なめこ男爵も我々のことを舐めきっていた、ということだ・・・。
蛇がそちらに移ったとき、僕は一度だけ死んだ。そう、死んだのだ。そしてすぐに再編成された・・・。そこで見えたのは・・・前よりも少しだけ広くなった世界だった。というか・・・あれ? いつもの僕の部屋じゃないか? 今まで通りの。なんだ。ドアの先にあったのは、この程度の光景に過ぎなかったのか・・・。
僕は元の椅子の上に戻ってきている。モロヘイヤ夫人の姿はどこにもない。テーブルの上には一枚のCDが置かれていた。どうやらオクラボーイズの一人が出した、ラップのCDらしかった。ジャケットには、キャップを反対向きに被った、細長い緑のオクラの写真が使われている。「衝撃的なデビュー作!!」と帯には書かれている。「人間の優位性に対する、オクラからの反撃。畑の反逆者。彼は魂の叫びを、韻を踏んだ緑のラップに乗せる。硬直化したシステムを、愛の爆弾によって、粉々に破壊するために・・・」
一曲目は「何も善ではない」という曲だった。僕はそれをCDプレイヤーに入れてかけてみた。予想外にも、レゲエ調の明るいイントロで始まった。「ここは南国、寝れば天国、食べる雑穀、明日は脱穀・・・」。でも突然嵐のようなストリングスが入り・・・打ち込みのダークなベースラインが現れる。「何も、善では、ない。Yoh, yoh, 何も、善では、ない。Yoh, yoh…」
何も善ではない。とにかくそれが彼の伝えたいことらしかった(それはひしひしと伝わってきた)。僕は立ち上がり、一度天井を見上げた。そして両腕を目一杯広げて、それによって自分の動くことのできるスペースを広げようとした。そう、こんな感じだ。善を目指す必要はないのだ。蛇のように、なめこのように、スルスルと、どこまでも、進んでいけばいいのだ。定義なんてどうだっていい。そんなのは死んでから考えればいいことさ。ほら、どこまでも・・・ずっと。
何も、善では、ない。
モロヘイヤ夫人の旅は続く。