スーパーボウルの哀しみ

 さて、二月も下旬に入り――もう二十日ですね。早い・・・――寒さも徐々に徐々に(やわ)らいできているような感覚があります。もちろんもっと北の地域の方々は、まだまだ寒い冬を耐え忍ばねばならないのでしょうが・・・少なくともこの東京都郊外の街では、日中は青空が広がる日が多いように感じます。まあそれ自体はもちろん、悪くはない(今日は雨ですが。はい・・・)。

 さて、スーパーボウルです。何のことか、と思われる方もいるかもしれませんが――あのピョンピョン()()ねる小さいボールのことではありません――NFL、ナショナルフットボールリーグの決勝戦が、去る14日月曜日(現地時間13日日曜日)に(おこな)われたのです。ラムズ対ベンガルズ。事前に決められた中立地で行われるのですが、それが今回はロサンゼルス・ラムズの本拠地、ソーファイスタジアム(SoFi Stadium)でした。できたばかりの綺麗な最新鋭のスタジアムで、もちろんラムズファンがたくさん押しかけてきます。ハーフタイムショーも地元の――つまりLAの――著名なアーティストが集まるということもあって、メディアは盛んに騒ぎたてていました。実はスーパーボウルには一つのジンクスがあって、それは「開催地のチームは優勝できない」、「そもそも進出すらできない」、というものでした。それが去年レジェンド、トム・ブレイディ率いるタンパベイ・バッカニアーズが打ち破ったため、ラムズが二年連続で開催地優勝を決めるのか、ファンたちの興味の(まと)になっていたのです。ラムズにはアーロン・ドナルド始め、優秀なディフェンス陣が揃っているため、下馬評としてはラムズ優勢、という見方が強いみたいでした。一方の対するシンシナティ・ベンガルズは、そもそもスーパーボウルに進出すること自体が多くの人にとって驚きだったみたいで、プレーオフで勝利を上げることすらここ数十年の間できていなかったのであります(31年!)。そこをクォーターバック(QB)、まだ二年目のジョー・バロウ(Joe Burrow)が見事にチームを率いて、ここまで進んできたのであります。もちろんワイドレシーバー(WR)ジャマール・チェイス、それにランニングバック(RB)のジョー・ミクソン始め、優秀なほかのメンバーたちも揃っています。あのカンザスシティー・チーフスをアウェイで破ったこともあり、かなり勢いに乗っているといってもいい状態でした。ジョー・バロウはまだ25歳なのに、出身高校のスタジアムの名前が『ジョー・バロウスタジアム』となるくらい優れた選手です。年齢に似合わぬ落ち着きがあり、パスが正確です。大事なところでロングパスを決め切る度胸もある。そのあたりは若い頃のブレイディを彷彿(ほうふつ)とさせます。いずれにせよ、アメフト好きには見逃せない一戦であったわけです。

 だがしかし、少なくとも僕個人の観点で言えば、だんだんスーパーボウルの序列が、自分の中で下がってきているみたいです。それはもちろんスポーツ自体がつまらなくなったわけではなくて、むしろ自分が自分のことをやる、という行為の方に、より喜びを感じるようになった、という面が大きいのだと思う。「スーパーボウル」というのはアメリカ人にとって、かなり大きなお祭りみたいなもので、全米での視聴率も相当高いみたいです。以前――コロナ前ですが――アメリカでキャンプを張っていた日本のプロ野球チームが(たしか日ハムだったような気がしますが)、その日を現地スタッフの休日に当てるために半日で休みにした、という記事を読んだことがあります。それだけ当地の人々にとっては大切なイベントなのです。はい。

 それがどうしてお前に関係があるのか、と言われるとちょっと答えに(きゅう)してしまうのですが・・・いずれにせよあのアメリカ人の楽天性というか、そういった「楽しむときは楽しめばいいじゃないか」的な明るい雰囲気に憧れるところがあったのかもしれません。野球のワールドシリーズもそうだけれど、なんだか日本とはちょっと違った開放的な雰囲気があり、僕は大抵現地実況を聴きながら毎年楽しんできました。

 ただ所詮スポーツはスポーツです。このあたりは周囲のメディアなんかよりも、選手たちの方がずっとよく分かっているかもしれない。どれだけ大仰(おおぎょう)な儀式で飾り立てても、どれだけアナウンサーが声を張り上げても、そこで行われるのは基本的にはレギュラーシーズンと変わらない、ごく普通のフットボールです。急に能力が上がるわけでもないし、スーパープレーがばしばし決まるわけでもない。単純なミスもあるし、ディフェンスが地道にピンチの芽を()んでいく、というところも多々ある(そういうところはあまりフォーカスされない。見ていて退屈に映るからだ)。ほんのちょっとのクオリティーの違いが、勝敗を決することになる・・・。見ている方は大逆転とか、そういった(たぐい)の劇的な展開を期待しちゃうけど、大抵はそうならずに、淡々とゲームは進んでいく・・・。

 ええ、僕がここで言いたいのは、我々が――というか少なくとも僕が――事前に期待している「何か」とは別の、現実の光景がそこには展開される、ということです。あと何日でスーパーボウルだぞ、と思う。どっちが勝つかな。ファンは乱入するかな。スヌープドッグ(Snoop Dogg)はちゃんと歌うかな・・・(ちゃんと歌った。ちなみにハーフタイムショーの話です。あの人はたしかにスヌーピーに似ている。かなりダークだけれど・・・)。でもその期待を裏切るかのように――もちろん選手たちは悪くないのですが――そこに展開されるのはごく普通のフットボールの試合です。それを観たからといって、僕という人間が劇的に変わるわけではない。まあ当たり前のことなんだけど、試合が終わったあとの「(あと)の祭り」感が、最近ひしひしと身に染みるのは、あるいは年齢のせいなのかもしれない・・・。

 これは今(おこな)われている――行われていた――北京オリンピックにしてもそうだけれど、どれだけアナウンサーが「キメの」台詞(せりふ)を絞り出したとしても、そこにあるのはごく普通のこれまで通りの競技に過ぎません。選手たちは頑張っている。自分の能力の許す限り、やってきたことをなんとか発揮しようとして頑張っている。本来それだけで十分なはずなのです。だから余計なことを言う必要はない。しかしなぜか、上層部からそういった指示を受けているのかもしれないし、そういった研修を受けているのかもしれないけれど・・・実況のアナウンサーは劇的な「何か」を期待する(もちろんそうでない人もいるだろうけれど、そういった状況が結構目に付く)。あるいは視聴者も一緒かもしれない・・・。その「何か」が得られないからといって怒り出す人も中にはいる(なんにせよ怒ってばかりいる人はどこにでもいる)。本来自分の力を十分に発揮することに集中するべき選手たちが、余計な「メダルを獲らなければならない」というプレッシャーに負けて、持っている実力の(わず)かな部分しか発揮できない・・・。

 そういう光景を見ていると、なんだかここにあるのは同じような光景のデジャブに過ぎないんじゃないかと思えてきます。僕らはどうも余計なことを考え過ぎるみたいだ。フットボールはただのフットボールだし、スケートはただのスケートです。それ以上でもそれ以下でもない。選手たちは頑張ってそれぞれの競技に向き合っている。その真摯(しんし)な姿勢が、ほとんどすべてなのかもしれない・・・。まわりの人間が余計な脚色をする必要はないのです。今、そこで、競技が行われているということ。選手が挑戦し――成功するか失敗するかは分からないけれど――そこに結果が生まれてくる。僕らはただそれを受け入れるべきなのでしょうね。悔しさがあったとしても。たとえ採点が満足いくものでなかったとしても、彼が(あるいは彼女が)挑戦したという事実は残ります。そこにある透明な感覚は、正直なところ本人にしか感じ取れないものです。しかし見ている者にも、少しは伝わってくる部分もある。スポーツの本当の面白さとは、そのあたりの、脚色されない事実にあるのではないかと思います。言い方は難しいけれど、、という感じです。競技者と、自分との関係。競技者と、競技そのものとの関係・・・。現実は往々にして淡々と進んでいきます。劇的な展開もさほど多くは起こらないし、たとえ起こったにしても僕らの人生がそれほど大きく変わるわけではない。テレビの画面から離れたら、また退屈な――退屈に一見見える――日常に戻っていく必要があります。それは不幸なのか? どうだろうな。僕はそこに何かしらのポジティブな面を見いだそうとして頑張っているようなところはあるのですが・・・。とにかく。

 結局試合はラムズが土壇場で逆転し、勝利を収めました。つまり二年連続で、開催地のチームが勝ったわけです。最後がドナルドのサックで決まった、というのも、ラムズの戦いを象徴しているようで面白かった。ドナルドは試合中ほとんど二人がかりで止められていて、その分スタッツ的には本人にあまり数字は付かなかったけれど、その間にほかの一対一になったチームメイトがバロウに襲いかかっていました。クォーターバックは花形ポジションだけれど、あの百キロを超えた大男たちが襲いかかってくると思うと、なかなかおっかないですね。実際バロウは最後の方でひざ怪我けがしていました。まあしない方がおかしいよな。よく考えてみれば。

 それでも第四クォーターの、ベンガルズのディフェンスが取られたホールディングは厳し過ぎるような気がしました。大抵のスポーツでオフェンスの方が注目されるけど、アメフトのディフェンスバック陣は、本当に注目されないところで頑張る健気(けなげ)な人たちです。それがあの程度の腕の(から)み付きでペナルティーを取られると・・・なかなか可哀想になってきます。まあそれも織り込み済みで相手チームはパスを投げるわけですが・・・。その分インターセプトを決めたときに、ディフェンス陣みんなで集まって喜ぶ姿は見物みものです。みんな子供みたいにはしゃいでいる。大人たちが子供みたいにはしゃぐことができる、というのがスポーツの良いところかもしれませんが。とりあえず。

P.S. 結局僕が言いたかったのは、頭で作った一種の「クライマックス」のような劇的な展開は、往々にして現実の退屈さに打ち負かされる、ということです。それはどれだけ華美な言葉で飾られていたとしても、変わることはない。メディアがどれだけ騒いだとしても、変わることはない状況です。たとえ勝ったとしても、メダルを取ったとしても、そのあとに人生はダラダラと続いていきます。他人からの評価が(いちじる)しく上がったとしても――あるいは下がったとしても――その人の人格が急に変わるわけではない。ましてや視聴者たちは・・・言うまでもないことですよね。まあそんなことは明らかに以前から分かっていたことではあったのだけれど、それでもなお、僕の中にもそういった部分が残っていたのだなあ、と実感した、ということです。結婚式と一緒で、準備の方が忙しく、熱がこもるのかもしれない。大事なのはその後の生活なのにね。どれだけ綺麗なドレスを着て写真に収まったところで、生きるのは一人一人の生身の人間です。魂です。動くものです。スポーツの真の面白さは一つ一つのプレーに対する「集中」の中に生まれてくるのではないかと思います。時にうまくいくし、時にうまくいかない。いや、レベルが上がれば上がるほど、本当にうまくいく、という瞬間は少なくなっていくのかもしれない。我々はただそれを見ていればいいのです。きっと。余計な飾り付けや、結論付けをせずに。安易なドラマタイズを排して。「スローでしんどいハードワーク」とそういえばピンチョンの初期の小説にあったけれど(『V.』だったような気がしますが・・・)、人生の本当の面白味はそういったところにあるのかもしれませんね。しがみつくのではなく、むしろきちんと生きること。なかなか難しそうですが、とりあえず・・・。

さらなる追記:冬季オリンピックは結構マイナーな競技が実施されていて、僕の好むところです。バイアスロンとか。一体なぜクロスカントリースキーと射撃を一緒にやらなければならないのか、と最初にこの競技を知ったときに驚いた覚えがあります。冬の狩猟にそのルーツがある、と読んで、ああそうか、と納得した気がする・・・。もちろんだからこそロシアや北欧勢が強いです。ノルウェーとかね。日本ではマイナーでもノルウェーに行ったらきっと選手はヒーローなんだろうな、とか想像しちゃいます。ちなみに日本のバイアスロンの選手は全員自衛隊所属でした。なかなか射撃の練習をできるところがないらしい。めちゃめちゃ疲れている状態で射撃をおこなって、一発外すごとにペナルティーとか・・・かなり意地悪な競技です。呼吸を整える選手もいるけれど、その間にライバルたちはどんどん走り(滑り)去っていく・・・。早く撃たなくちゃ。でも外すと・・・。Oh! 一分のペナルティー(あるいは種目によっては、一周ペナルティー専用のコースを滑らなければならない)。クロスカントリー競技は大抵そうだけれど、ゴールした選手はみんな倒れ込みます。へとへとになっている。なぜそんなことをわざわざやるのか、と多くの人は思うかもしれない。でもきっとその苦しさにこそ、本当の面白味があるのでしょうね。いつかやってみたいな。バイアスロン。射撃は・・・なかなか難しそうだけれど。

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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