近況(2022年、11月8日、火曜日) 火星のための一日

 さて・・・ようやく文章を書くという作業に戻ることができます。

 ご沙汰さた致しておりました。季節は秋へと変わっていますが――もうすぐ冬ですね。朝晩はかなり冷え込んできた・・・――皆様はいかがお過ごしでしょうか? 僕はひたすらシステム交換(二回目)に励んでいました。今回はパソコンを買い替えたわけではなくて、とにかく部屋の掃除です。不用品を捨て(これが実にたくさんある)、ホコリを払い(あとは「コロコロ」でひたすらコロコロやって)、新しくネットでいくつかのプラスチック収納ケースを買い、雑然と置かれていた食料品やら、雑貨やら服やらを、とにかく収納していました。おかげで少しは片付いたかな・・・。

 発端ほったんは年末調整に必要な書類がなかなか見つからなかったことで(あとでなんとか見つけましたが。ふう・・・)、これは駄目だ。三十を過ぎた大人として、もっときちんとせねばあかん、と決意して、今まで見て見ぬ振りをして過ごしてきた部分を徹底的に片付けることにしたのです。おかげでだいぶ疲れましたが・・・少しはスッキリしました。ついでに「ダイニングこたつ」をついに買うことができたので(脚の長いこたつのことです。その布団も買いました)、古いこたつを粗大ごみとして出し(収集には予約後一週間ぐらいかかる。部屋が段ボールやら、プラごみやら、燃えないごみやら、捨てられるのを待っている衣服やらでいっぱいになってしまった・・・。それも少しずつ片付きつつあるけれど・・・)、新しいチェアマットも買って、まあなんとか秩序ある姿を取り戻しつつあるということです。しかしまあどうしてこんなにホコリって溜まるんでしょうね。ホコリとはどこからやってくるのか? その原子的な構成はどうなっているのか? こんなにたくさんのホコリと暮らしていて僕の肺は大丈夫なのか?(まあとりあえずまだ生きてはいますが・・・はい) と、いろんな疑問を抱きつつも、辛抱強く、十日間ほどかけて、片付けを進めていきました。その間に三十一回目の誕生日を迎え・・・今ようやく文章を書くという本来最もやりたい作業に戻ってきた、というわけです。

 しかしまあ、このように持ち物を整理していると、頭も少しはスッキリしてくるかな、という感覚があります。再スタートを切る、というか。「いつか使うかもな」と思って取っておくものって、少なくとも僕の場合は、ですが、ほとんど役に立たない場合が多いみたいです。それでもまあ、全部捨てるわけではなくて、ちゃんと収納ケースを買って入れておいた。本棚のホコリを払っていると――一冊一冊にすごくたくさんのホコリちゃんたちがくっついていた――そのそれぞれの本を読んでいたときの情景が瞬時によみがえってきます。もちろん全部ではないけれど、大体はいつごろ読んだのかまで覚えている。二十一歳くらいのときに仙台の西公園のベンチでひたすら『デイヴィッド・コパフィールド』(ディケンズ)を読んでいたな、とか。なぜかわざわざ地下鉄に乗って、台原だいのはら森林しんりん公園でリチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』を読んだな、とか。山形県天童市の自動車教習所で村上春樹さんの『ダンス・ダンス・ダンス』を読んでいたな、とか(ちなみに山形から帰国するときに、仙台駅したのバスターミナルでモーツァルトのジュピター交響曲を聴いていたことも覚えています。iPodに入れていた。しとしとと雨が降っていました。たしか)。栗原市立図書館で井筒俊彦の『意識と本質』を読んでいたな、とか・・・。ただそういった物事にずっとかかずらっていると、全然作業が先に進まないので、ほどほどにして、ひたすらホコリを取っていました(クイックルワイパーで拭くと結構綺麗に取れる)。

 物には記憶が染み付き、その記憶たちの集積が、「僕」という存在を形作っているんだなあ、となぜか感慨深げにため息をつきながら、今こうして再スタートのための文章を書いている最中です。はい。

 考えてみればこっちに来て(東京の外れの街ですが)、六年半ほど経ったわけですが、その間に意外に人間として変わってきたのかな、と思うわけです。ほとんど何の経験も持たずに、「正常になりたくない」という思いだけ抱いて、バイトしながらでも数年ほどで作家になれるはずだ、という根拠のない希望を抱き・・・結局はそう簡単にはことは進まず、こうして今に至るわけです。そういう外面的なことだけを見れば、まあそんなにスマートに生きてこられたわけではないと思う。それはむしろ積極的に認めます。文学賞も取れないし、この歳になってアルバイトだし、この間またぎっくり腰になって走ることもできないし・・・。

 それでもまあその一つ一つの経験が、貴重な財産になっているという確かな実感があります。別に僕という人間なんてちっぽけなものに過ぎないわけですが・・・それでも、個人的な実感として、、と思うようになったわけです。はい。

 僕はきっと、かなり単純な意味合いにおいて、社会の「正常さ」に対抗すればすなわちオリジナルになれるんだ、と考えていたふしがあります。でももちろん物事はそんなに単純ではない。制度を裏返したところで、それは「制度」になるだけのことで、真にオリジナルになれるわけではないのです。誰かに褒められたところで、源泉から離れている、という事実には変わりありません。。そう、精神の源泉のことです。それがどの辺にあるのかは・・・なんとなく分かる(あくまで想像に過ぎないのですが・・・底の底の方です。はい)。でもきっとまだまだそこと有効につながれているわけではないのでしょう。それ自体は自分でもよく分かっていることです。

 僕がおそらくずっと求めていたのは――二十歳はたちになる少し前くらいからだと思うのですが――精神の領域に属する物事です。透明で、目に見えない、心の震えのようなもの。他人にけなされようとも、否定されようとも、憎まれようとも、追求するべき「何か」を自分の内部に求めるべきなんだ、と信じていたようなふしがあります。一方で、もちろん、この世で生きなければならなかった。その意味が分からなかったのです。働いて、生活費を稼いで、飯を食って、税金を払って・・・そのようにして多くの時間とエネルギーを費やして・・・。

 物語の出口を閉じてしまえばむしろそれらの物事は単純になります。生き延びすればいいのです。簡単なことです。しかしそれをどうしてもしたくなかった。僕は自分の思考能力――あるいは思考の自由――を残しながら、なんとかこの世で成長していきたかったのです。しかしその勇気がなかった。

 今思えば僕に欠けていたのは「経験」です。そして「自信」。この世で生き延びるという行為はたしかにただの「手段」でしかありません。中身を入れるための容れ物を作る作業です。それ自体にさほど大きな意味があるわけではない。しかし多くの人々がそれだけで人生を終えていくのも事実です(彼らにオリジナリティーがない、というわけではない。ただ生きる「姿勢」として、容れ物の構築に、注力している、というくらいの意味です。はい)。僕はそういった光景を見てきて、こんな風にだけはなりたくないぜ、と突っ張っていたのだと思います。

 しかしまあ、退屈であるには退屈であるだけの理由があるわけで、その「理由」の部分を想像することができるようになった、というのが最近の変化かもしれません。要するに、ということです。みんな弱い人間で、それぞれの狭い偏見の中で生きていて――僕ももちろん例外ではない――みんなそれぞれ「真の自由」を恐れて生きています。真の自由。それは何か? 僕にもまだよくは分からないのですが・・・要するに「今に集中して生きる」ということになるのではないかと思っています。はい。

 いうまでもなく僕らはみんないつかは死にますが、意識を持った個体として、その事実を心のどこかでは認識せざるを得ません。子供のまま生きていられたらいいのかもしれませんが・・・しかし、あのような強烈なイノセンスを保持したまま生きていくのは容易ではありません。最近思っているのですが、イノセンスの問題点は常により強い者の保護を必要としている点にあります。若者の柔軟な思考は魅力的だが・・・彼らは常に揺れ動いています(僕も揺れ動いていた。ふらふらと・・・)。そういうときにどうしてもより強い、固定された枠組みに、保護を求めざるを得ないのです。肉体的にも、精神的にもです。人間が真に自立するためには、そのような枠組みを――要するに自分を注ぎ込む有効な容器を――自分の力でこしらえるしかないのではないか。そういう考えを、僕は抱きつつあるのです。この六年半のアルバイト生活の結果、ということですが。

 そのようにして、ある程度強い――以前よりは強い――自分自身の枠組みを作ることができた時点で、真に人は「死」と向き合うことができるのではないか、と。どうして死と向き合わなくちゃならないんだ? もっと楽しいことを考えて生きていればいいじゃないか? お前みたいに鬱々うつうつとして生きていくのなんてごめんだぜ! と言われたら・・・まあその通りでございます、としか言いようがないのですが、しかし、僕が思うに、人が本当の意味で十全に生きようとしたら、やはり自分の個人的な死を受け入れなければならないのだ、という気がします。なぜならそうすることによって、その人の人生におけるプライオリティーの位置が確実に変わってくるからです。プライオリティー。優先順位。

 もちろん大抵の人々が地上の物事――要するに数字で測れる物事ですが――だけを見て、それによって物語を塞いでしまっていることは知っています。そうすることによって、一時的には、精神は安定を得ることができるからです。しかしそれでは貴重な時間はただ流れ去っていくだけになっていくでしょう。荒波を立てず、「正常さ」から外れることを心底恐れて、「やることになっていること」をやって、「言うことになっていること」を言って・・・要するに誰かが薄く書いた線を鉛筆でなぞっているようなものです。見栄えはいいかもしれないが・・・、という必然性は存在しない。まあ人生に何を求めるのかは人それぞれなのですが・・・僕はできることならそういった道は取りたくない。なぜならそんなことをしている間に確実に我々は死に近づいているからです。はい。

 それは暗い現実かもしれないけれど、事実は事実です。一度意識を獲得してしまった以上、そのことから目を逸らすべきではないのではないか、と僕は信じています。もちろんメジャーリーグのことを考えたり、食べ物のことを考えたり、年末調整のこととか、ダイニングこたつのこととか、来年の阪神のすけ外国人のこととか・・・いろいろと雑多なことを考えることはあります(さすがにそうしないと頭がおかしくなってしまうから)。でも一日のうちの何パーセントかは・・・そのために(いわば本質的な物事のために)取っておきたいと思う。そうしないとどれだけ立派な「容れ物」を作ったところで、意味がなくなってしまうからです。中に注ぎ込むものがないといけない。はい。

 たしかに、「そんなのはお前の個人的な領域のことで、俺はもっと立派なことを考えるぜ。社会的正義とか。世界平和とか。アフリカで飢えている人たちがいるってのに(ウクライナで戦争も起きている)、お前はそんな個人の精神のことを云々うんぬんしている。それでいいのか? 人間として?」と言われたら・・・あんまり立派なことは言い返せないような気がする。たしかにそうですね、とか・・・。

 それでもなお、今ここに生きている人間として、「今ここ」を十全に楽しんで生きようと努めることに、なんらおかしな点を見出すことができないのです。少なくとも僕は、ですが。

 あるいは僕らは真面目に過ぎるのかもしれない、と考えることもあります。「何かのために」とか。「誰かのために」とか・・・。バランス感覚は常に必要になってきますが、往々にして、僕らは自分のことだけを考えるべきなのかもしれない、と思ったりもします。なぜなら・・・火星はただの火星だからです。木星はただの木星です。僕が言いたいのはつまり・・・火星も木星もきっと「正当性」を求めて存在なんかしていないだろう、ということです。ということは地球もきっとそうです。生まれて、回転しているのでしょう。そして時が来たら止まります。あるいは爆発するんだったか・・・。いずれにせよ、「何かのために生きる」という論理には無理がある、ということです。僕らはそのようにして物語を閉じてしまいがちですが――家族のために。恋人のために。会社のために。コミュニティーのために。エトセトラ、エトセトラ・・・――それらは大抵自分の外にある物事です。自分のために、という人ももちろん中にはいると思いますが・・・そのとき念頭に置かれている「自分」とはどの程度のレベルの「自分」なのか。魂まで含んでいるのか。それとも単なる肉体的生存なのか・・・。

 だんだんこんがらがってきますが、僕が考えているのはつまり、地上に正当性を求めるのはたぶんやめた方がいい、というようなことです。はい。それによって自由は確実に損なわれていきます。正しい道なんてどこにもないし、正しい生き方なんてどこにもありません。我々は常に新しい一日を生きているからです。そしていつか死ぬ。以上。終わり。

 にもかかわらず、意識の奥には生きられることを求めている「何か」が存在しているような気がしているのです。もちろんそれは一言でこう、と定義できるようなものではありません。、いるのです。なぜならそれを認識している僕自身が動いているからです。僕はその事実を、日々――うんざりするような反復の毎日の中で――他人の姿を眺め続けることで体感してきたようなふしがあります。二十代の頃にはこれは分からなかった感覚でした。俺はこいつらとは根本的に違っているんだぜ、とか思っていました(要するに彼らは退屈で、凝り固まっている。自分は特殊で、高尚な目的のために生きている。自分と彼らとの間に基本的には接点は存在しない。もしあったとしたら、それは何かの間違いのようなものなのだ、と・・・)。でも事実はそんなに単純ではありません。僕らはやはりこの世を生きなければならないのです。もし生きたくないのならとっとと死んでしまえばいいのだけれど、今、自分がそれほど絶望的な状況に置かれているか、というと・・・決してそうではないような気がする。

 三十一歳の誕生日を迎えたときに思ったのは、いかに自分がこの十年沈んで生き続けてきたのかということでした。医学的に言えばうつ病とか、そういうことになるのかもしれない。出口は見つからず、かろうじて、日々肉体的生存を保っていた。ただそれだけのことでした。それでもなお、どこかに、兆しのようなものは感じ取っていたのかもしれませんね。たしかに。このまま意味は分からないけれど、正当性も見当たらないけれど、かろうじて生き続けていたら、いつの日にか・・・もう少しだけ自由になれるかもしれない。そのときには・・・生きていて良かったと感じられるのかもしれない。今はまだ駄目だけれど・・・。

 死を認識しながらこの世を生きる。きちんとした枠組みを設定して(自分だけの枠組みですが、もちろん)、その中に透明な何かを注ぎ込む。他人の評価は気にしない。明日のことも、明後日あさってのことも気にしない。今ここに集中する。なぜかそれが重要な気が――今さらながら、ですが――しています。

 考えてみれば、「正社員ではない」というだけのことで(お金もありませんが、とにかく)、さほど絶望するような状況でもありません。というか正社員にならなかったことで、かろうじて出口をけ続けることができたわけです。少なくとも心情的には、ということですが・・・。そしてコミュニケーションの大切さ、ということも理解し始めている。これまではただの「退屈な、正常な人々」でしかなかった、外を歩いている一般人が、実は異常な人々の集まりだ、ということも分かってきました。「正常さ」というのはあくまで我々が社会生活を円滑に運ぶための、共通のルールのようなものに過ぎないのです。それに過度に反発したところでどこにもいけない。

 。前にもたしか書きましたが――同じことばかり言っているような気がしますね。たしかに――結局はそういうことなのかもしれません。僕が先に進むためには、理解してくれない人々に怒りをぶつけているだけでは駄目なのでしょう。狭い世界に閉じこもっている人々には、それだけの理由と歴史がちゃんとあるのです。僕はそのことを考えなければいけない。そしてそれを踏まえた上で・・・一人で先に進むのです。ウィリアム・ブレイクが執拗なまでに彼の個人的な世界を描こうとしたように、です。狂人と言われようと、自分の信ずる道を進むしかない・・・と思っております。はい。

 ということで、具体的にお前には何ができるんじゃ? ということですが・・・やはり小説を書くということになりそうです。別に小説じゃなくたっていいんだけれど、少なくとも今の僕にとっては、それは自然に「小説」という形を取るらしい。この辺は明らかに個人によって違っているとは思うのですが・・・。

 滋養のある何かを少しずつ少しずつ積み上げていきたい。それが今僕の考えていることです。何か大きなもの、衝撃的なものをバンと提出するのではなくて・・・時間がかかってもいいから、自分のできることを、自分のできるペースでやり続けること。そのうちどこかで流れに乗ることができるかもしれない・・・。

 「小さな植物の芽を育てる」というのが僕の中のどこかから浮かんできた言葉です。小さな、小さな芽ですが、ようやく顔を出してきてくれた、という感覚があります。僕は今それを、手のひらをそっと差し伸べて、強風から守っているところです。雨も降るかもしれないし、空気が乾燥し過ぎるかもしれないし、小惑星が落ちてくるかもしれないし・・・。

 それでもなお、その芽を守り続けて、地面にしっかり根を張って、成長して、別の葉っぱを出して・・・やがて花を咲かせるまで(どんな花かまでは分かりませんが。とにかく)、辛抱強く待っていなければならないのではないか、と。その間にたくさんの雑多な――雑多な――経験を積んで、日々をかろうじて生き延びて、「容器」としての外的自分を強化し続けること・・・。そのようにして初めて、毒を含んだ、しかしそれによって治癒作用のある、液体のようなものを、汲み上げることが可能になるのではないか・・・。そんなことを考えています。

 

 僕は善でもないし、悪でもない。口でそう言うのは簡単ですが、そういった姿勢で生きるのはかなり難しそうです。というのも固まった「善」を目指すのは、意識の自然な流れだからです。僕だって多分意識の秘められた面では自分のことを基本的には「善人」だと思っている。でもどこかの時点でその「善人」性を、破壊しなければならないのでしょうね。その割れ目から初めて本当の時間が流れ込んできます。誰にも編集されていない、なまの時間です。僕はまだまだその領域には達していませんが、これから頑張って固まった「自分」を破壊しようと思います。ダイナマイトを使って、かどうかは分からないけれど・・・とにかく自分の暗部を目指すことによって、ですね。部屋の片付けも終わったことだし(昨日はトースターまで磨いた。ホコリがたくさん付着していた。ふう・・・)、ここから真にポジティブなものを積み上げていこうじゃないか、と思うことができています。いつまでこんな気分が続くのかは分かりませんが・・・とにかく続く限りは頑張っていこうと思います。誰のために? もちろん火星のためです。言うまでもなく。

追記:ちょっと書いたけれど、十月の初めに二度目のぎっくり腰を発症してしまって、しばらく熱が出て、非常に不快な時を過ごしました。重りを持って、スクワットをやっているときに(二十二回目でしたが)、もっとお尻の方に体重を乗せなくちゃな、と思って真面目にやったら、ぐにゃり、と左の腰の何かが――何なのかはよく分かっていないのですが・・・――曲がってしまいました。しばらく立ち上がれなかった。まったく・・・情けないやら、痛いやらで・・・。翌日はあわよくば走ろうかと思っていたのですが、走るなんてもってのほか、過呼吸みたいになって、危うくバイトも休むところでした(幸いしばらくすると収まって、なんとか行きましたが)。その後サポーターでギチギチに固めた毎日を送っています。当初は靴下を履くのが拷問のようでしたが・・・今では結構回復し、この間は腹筋ローラーまでやることができました(感動)。しかし、まだ走るとズキズキと痛みます。だからこの一ヶ月まともに走れていません・・・。ただのコンビニ店員の作家志望でもこれなのだから、きっと怪我をしたプロ野球選手とかは絶望的な気分におちいるんだろうな、と思う今日この頃です。はい。

 でもまあ、怪我にもいい面があって――というかかろうじてそう思うことによって自分を保っているふしもあるのですが――今まで自明だと思っていたことを、客観的に眺めることができるようになる、というところがあります。重りを両足に付けて、仕方なく川沿いをウォーキングしていると(この間は一時間二十分歩きました。疲れた)、軽やかにさまざまな年齢のランナーたちが追い越していきます。彼らはぎっくり腰ではないのだろうな、と想像します(当然のことですが)。僕だって健康なときには、走れているのは当たり前のことだと思っていました。そして早くノルマを終わらせて――つまり一日の運動のノルマのことですが――文章を書かなくちゃな、とか思っていました。でも怪我をすると・・・それができない。もっと弱い立場にいる人々にも目を向けられるようになります。ぎこちない歩き方で歩くリハビリ中と思われる老人の方とか。ベビーカーを押した母親とか。あるいは街で見かけるすごく太った方とか・・・。

 いろんな事情の中で、それぞれ生きているんだな、とかあらためて思ったりします。そういう観点で言うと、僕はあくまでお金がないだけで、結構恵まれた境遇で生きていたのかもな、と・・・。これが精神的なところになると、もっと問題は複雑さを増していきます。生まれ育った境遇のせいでどうしても他人を信じられない人。どうしても自信を持てない人。どうしても食べ過ぎてしまう人。どうしても飲み過ぎてしまう人。どうしても退屈さの枠組みから逃れられない人。どうしてもつまらないジョークを飛ばしてしまう人(これは僕のことか・・・反省)。いろんな歴史があって、今のその人が作られているわけで、いっちょういっせきに問題点だけを取り除くことはほとんどの場合不可能です。だとしたら・・・ある程度問題を許容しながら、その中で、十全に生きられるように努力するしかないのかもしれませんね。だって完璧な環境が訪れるのを待っていたら、きっとどれだけ時間があっても足りないからです。僕らが他人に何かを要求するとき――つまり精神的に、ですが――それは往々にして、自分に目を向けないための言いわけに過ぎないみたいです。これはまあ個人的な経験からそう思うことなのですが・・・だとしたら、やっぱり、この灰色の平原において、僕らは自分を動かすことを学ぶべきなのかもしれない。「僕ら」というか、僕の個人的な実感なのですが。要するに・・・。

 僕はよく海外ニュースを観るのですが――というか国内ニュースはあまり観ないで、外国のニュースばかり観ているのですが――そこで思うのは、実にさまざまな「正義」が存在するのだな、ということです。イスラムとキリスト教の対立は昔からあるものですし、キリスト教徒の中でも対立はあります。ロシア対西側、という構図ももちろんあります。アメリカでは共和党支持者と民主党支持者で意見が割れています。成長した(はずの)大人たちでさえこうなのだから、やっぱりバランス感覚とか、「落とし所」とか、そういった現実的な面を考慮する方が大事なのかな、とか思うようになってきます。正直BBCはBBCで偽善的だし、NHKはNHKで偽善的だと思う。そのほかの、たとえば中国の放送局とか、ロシアの放送局とかも一緒です。なかなか真に中立になり切る、ということは難しいらしい・・・。

 とはいっても、それぞれの国に生きている一般国民の中には、結構健全なバランス感覚が宿っているのかもな、と思うこともあります。ニュースになるのはその国で起きている物事の一部だけです。声の大きな人々の声だけが取り上げられたり、あるいは逆に、そのときどきで注目を集める悲惨な環境の人々だけの声が取り上げられたり・・・。でも一方で、比較的平穏に、でも密かに不満を抱いて(にもかかわらず、なんとか日常を生き延びている)我々のような、ごく普通の人々がいるわけです。たとえば彼らが病気で死んだとしても、国際ニュースにはまず取り上げられないでしょう。交通事故で死んだ。それも取り上げられない。解雇された。あるいは仕事がつまらなくて辞めた。夫婦喧嘩をした。あるいは喧嘩まではしないけれど、なんとなくお互いに不満を抱き合っている・・・。

 もしかして、そのような表に出てこない人々の感情に目を向けるのが作家の役目なのかな、とか思ったりもします。一見退屈そうに見える人生の中で、我々は心のどこかで真実を目にしているのではないか? それを認識していなくても、記憶のどこかには、そのような光景を保存する秘密の金庫が存在しているのではないか・・・? そこにアクセスする方法を、あるいは僕は個人的に見つけられるかもしれない。その結果・・・人々はそれを追体験することによって――僕が数多くの優れた作家たちの本を読んでやったみたいに――あるいは精神の不毛さを、一時的にせよ、癒すことができるのかもしれない・・・。

 でもまあそれは考え過ぎ、というものです。僕はまずは自分のために小説を書くべきなのでしょう。あとのことは、またあとのことです。腰が治ることを願って・・・(来週くらいにはきちんとつながってくれれば、と願っているのですが。誰に願ったらいいのだろう? ヘルニアの神様みたいなものが、どこかには存在するのだろうか・・・?)

 いずれにせよもっときちんと外界を生きて、なおかつその中で、集中力を増して、内部に何かを注ぎ込む、という作業を地道に続けていくことになりそうです。それ以外できそうなこともないみたいなので。もちろん何が注がれるのかはそのときどきで違っています(出口を塞がない、というのはつまりそういうことです。常にオープンに保っておくこと)。僕が明日、明後日あさってにどういう人間になっているのか、それは誰にも分からないことです(もちろんこれを読んでいるあなたも、ですが)。外見に騙されてはいけません。精神は常に動いているのです。少なくとも生きている間は、ということですが。それでは。仕事に戻ります。

ニャンコ先生。ニャンコ先生はなんでも知っています。そう、来年のペナントレースの覇者のことも・・・。でも煮干しをあげないと教えてくれません。高知県のものが良いみたいです。ちなみに好きなピッチャーは藤川球児だそうです。僕と趣味が合いそうですね・・・。
村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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