死について 2

死について 1』の続き

 

会社で仕事をしている間にも、僕は彼のことを考え続けていた。果たして本当に彼の言った通りなのだろうか? 彼の右腕は、実際にほかの誰かのものと取り換えられていたのだろうか? もちろん常識に照らせばそんなことはあり得なかった。一体どこの誰が、どんな目的でそんなことをするというのだ? いたずらにしては手が込み過ぎている。考え得る最も妥当な結論は、彼が勘違いをしている、というものだったが、僕にはどうしてもそうは思えなかった。彼は突飛な考えをする男だったし、ほとんど「異常」ともいえる感受性を持ってはいたが、大事なことで間違いを犯す男ではなかった。彼が何か重大なことが起こっている、と言うからには、それは実際に起こっているのだ。

 

 

昼休みに彼から電話がかかってきた。

 

「もしもし」と僕は言った。「何かあったのか?」

 

「耳なし芳一ほういちだ」と彼は言った。

 

「耳なし芳一?」

 

「そうだよ」と彼は言った。「朝君と会ったときからずっと気にかかっていたんだ。この状況は何かに似ているぞ、ってね。それでピンときた。これは『耳なし芳一』だ。どこかから悪霊がやって来て、俺の肉体を持って行こうとしている。これから身体中におきょうを書くことにする。自分で書けないところは、まあ君に頼むことにするよ。だから仕事が終わったらうちに寄ってくれ。じゃあな」

 

そして電話は切れた。僕は頭の中で『耳なし芳一』がどういう話だったのかを思い出そうとしたが、小さい子どもの頃に聞いたきりだったので(あるいは本で読んだのだったか)、なかなか細かいところまでは思い出せなかった。僕に思い出せるのは、和尚おしょうと小僧が芳一の耳にだけお経を書き忘れた、という最後の部分だけだった。耳なし芳一?

 

 

考えてみればそれは不思議な話だった。子どもの頃様々な昔話を聞かされたが、考えてみればこれが一番印象に残っていたかもしれない。もちろん彼が今その題名を持ち出すまでは、そんなことはすっかり忘れていたわけだが、今ふとその感覚がよみがえってきた。それはぞっとするような――しかしそれでいて妙に好奇心を魅かれるような――不思議なお話だった。耳から血を流す芳一の姿が、ありありと僕の頭に浮かんできた。

 

 

 

その日仕事が終わると、僕はまっすぐ彼の家に向かった。途中コンビニで菓子パンを買って食べたが、食べている途中で、本当はこんなもの食べたくなかったのだと気付いた。それで結局食べ切る前にゴミ箱に捨ててしまった。マンションに着くと、彼がまたパジャマ姿のまま迎えてくれた(軽犯罪者用のパジャマだ)。その顔にはマジックでところせましとお経が書かれていた。

 

「これで大丈夫だ」と彼は安心したように言った。

 

 

居間に行って、一杯水をもらったあとで僕は切り出した。

 

「耳なし芳一の話をしていたね」と僕は言った。

 

「ああ」と彼は言った。「俺は昔からあの話が大嫌いだった。なにしろ不気味で仕方なかったからな。だって耳をひきちぎられるんだぜ? 想像してもみなよ。どうして子どもにそんな話をしなくちゃならない? でも今理解した。俺があの話を嫌いだったのは、いずれ自分が同じような目に遭うと知っていたからなんだ。だからこそ心底ぞっとしたんだよ」

 

「あの話の細部は覚えているか?」と僕は言った。

 

「いや」と彼は言った。「全然覚えていない。どうせ大したことのない話だろう」

 

それで僕は彼に、その日仕事の合間をってインターネットで調べた『耳なし芳一』の話の細部を聞かせてやった。芳一は盲目の琵琶びわ法師だったこと。その腕前に感動した平家の亡霊が彼を墓地に連れて行って、みなで『だんうらの合戦』のところを聞かせてもらったこと。芳一自身は目が見えず、それが亡霊たちだとは気付かなかったこと。芳一が住んでいた寺の和尚おしょうがそれを危険に思い、亡霊に姿が見えなくなるお経を身体中に書き込んだこと。でも耳だけを書き忘れて、彼と小僧は法事に行ってしまったこと。帰って来てみると、耳から血を流した芳一が倒れていたこと。

 

 

「なんで亡霊は耳を持って行ったんだ?」と彼は訊いた。

 

「亡霊には芳一の耳しか見えなかったんだ。それでその亡霊は、少なくとも自分が命令――芳一を連れて来るという命令――の一部を果たしたことを示すために、そこにあった耳を持って行ったんだよ」

 

「彼らは悪い亡霊だったのだろうか?」と彼は言った。「あるいはただのメランコリックな音楽好きの亡霊に過ぎなかったのだろうか?」

 

「分からない」と僕は言った。「しかし和尚の心配にも一理はあったんじゃないかな。それまでも平家の亡霊は悪いことをしていたみたいだったし――たとえば下関しものせき海峡の舟を海に引きずり下ろすとか――いずれ芳一に悪いことをするのは時間の問題だったんじゃないかな」

 

「ふうん」と彼はお経の書かれた顔をしかめながら言った。「そうすると俺の状況とはあまり似ていないな」

 

「まあそういうことになるね」と僕は言った。「君は琵琶びわ法師ではない。百歩譲ってギター弾きでもない」

 

「俺は俺さ」と彼はぽつりと言った。そこには思いがけず諦念ていねんのようなものが現れていた。そんなものが彼の中に存在するとは、今まで全然知らなかったのだが。

 

 

「それでどうする?」と僕は言った。「お経を書くかい?」

 

「いや、やめた」と彼は言った。「こんなもの役には立つまい」

 

 

「でも」と僕は彼がお風呂に入ってマジックを落としてきたあとで言った(もっともそれはほとんどそのまま消えずに残っていたのだが)。「だとすると彼らの狙いは何なんだろう? どうして君の肉体を交換していくのだろう?」

 

「そんなもの分からないよ」と彼は言った。「彼らは平家の亡霊じゃなさそうだしな」

 

「それでどうするつもりなんだ?」と僕は訊いた。

 

「君が来るまでは身体中にお経を書けば大丈夫だと思っていた。もちろん耳まできちんとな」。そう言って彼は、まだお経が消えずに残っている耳たぶを掻いた。「でもそれじゃあ不十分らしい。なんとなくそんな気がしてきた。俺はさ、芳一はつまり生来のごうのようなもののせいで、悪霊の理不尽な怒りを買ったんだと思っていたんだ。芳一には自分の何がおかしいのか分からない。にもかかわらず、ある夜悪霊が彼の身体を奪いに来る。慈悲も何もない。そいつはただ自分のやるべきことを果たしに来るだけなんだ。そしてそれを予知した和尚が、小僧と一緒にお経を書きまくる。もちろん耳だけを書き残してな。そして芳一は命は助かるが、結局耳を失うことになる」

 

「でも実際にはそういう話じゃなかった」と僕は言った。「亡霊のがわにもきちんとしたパーソナリティーが備わっていた。『壇ノ浦の合戦』のところを聞いて涙を流していたくらいなんだから」

 

「でも俺の中では、話はそうではなかった」と彼は言った。「そして今の俺の状況は、俺の方の話に近いような気がするんだよ」

 

「じゃあどうする?」と僕は言った。

 

 

「本当なら高名な坊さんとか、シャーマンとかに相談するべきなんだろう。でも果たしてこの時代にそんな人間が存在するのだろうか? 俺には分からないね。警察に相談することもできないしな。精神病院に入れられるのがおちだろう」

 

「じゃあ自分たちでなんとかするしかない」と僕は言った。

 

彼は頷いた。「そう。だからこそ君を呼んだんだよ。こういうことで相談できるのは君しかいない」

 

 

我々はそこで黙り込んだが、そうこうしているうちにすでに夜は更けてきていた。そろそろ午後九時半になろうとしている。彼はおもむろにテレビを点けたが、野球中継はもう終わっていた。我々はよくこの部屋で一緒に野球を観たものだった。チームには関係なく、試合そのものを観るのだ。

 

「何が起こっているのか君が確かめてくれないか?」と彼は突然言った。

 

「僕が?」

 

「そうだ」と彼は言った。「おそらく俺が眠っているときに奴らは来るだろう。起きているときにはやって来ないはずだ。君はその場面を捉えて、なんとか止めてほしい。奴らの蛮行を」

 

「『止める』って具体的にはどうすればいいんだろう?」

 

「どうやったっていい」と彼は言った。「バットで殴り殺してもいいし、あるいは理を尽くして説得してもいい。君の好きにしてくれればいい」

 

でも僕にはそんなことが上手うまくいくとは思えなかった。そもそも僕は誰を相手にそんなことをするのだろう? それすらもよく分かっていないのだ。

 

「とりあえず何が起こっているのか確かめることはできるかもしれない」と僕は言った。「そのあとのことは保証できないけれど」

 

「それで大丈夫だ」と彼は冷静な表情で言った。

 

 

 

彼はその夜何杯か酒を飲んだ。その方が早く眠れるし、あるいは腕をもぎ取られる痛みだって感じないかもしれない、ということだった(もっとも右腕のときはまったく痛みは感じなかったはずなのだが)。彼はまるで死を目前に控えている人のような話し方をした。これが俺の飲む最後のビールになるかもしれない、とかそういうことだ。僕は言った。

 

 

「でももし本当に身体のすべてが交換されたとしても、君が死ぬわけじゃないだろう。君はおそらく生き続けられるはずだ。その新しい肉体でもって」

 

でも彼はただ首を振るだけで、何も言わなかった。

 

 

 

夜12時頃に彼はベッドに入って眠りに就いた。こういう状況の中で果たして本当にすぐ眠れるのか、と僕は心配していたのだが、それでも彼はあっという間に寝入ってしまった。きっと今朝早くから起きていたせいだろう。彼は今とても穏やかな寝顔をしていた。

 

 

僕は彼のベッドから少し離れたところに椅子を置いて、ただじっと何かがやってくるのを待っていた。電気は消して――というのもその方が彼らをおびき出すにはいいような気がしたから――窓のカーテンもぴたりと閉じた。どこか遠くの方で救急車のサイレンが鳴っているのが聞こえた。僕は息を殺してただ暗闇を見つめていた。

 

 

状況そのものは滑稽こっけいだと言ってもよかったが(彼の顔にはまだ油性マジックで書かれたお経が残っていた)、それでも僕は真剣にこの寝ずの番に取り組んでいた。何一つ見逃してはならない、と僕は思った。足元には一応包丁を持ってきてはいたが、実際にそれを使う状況になるのかどうかは分からなかった。そもそも闇の住人に包丁でダメージを与えることができるのだろうか?

 

僕は頭の中で、前の晩彼が言った「死のかたまり」のことを考えていた。単なる生の不在ではなく、手で触ることのできる死の塊。そして交換された彼の右腕。耳なし芳一。「生来のごう」と彼は言った。それは本来の物語ではなく、彼のバージョンのお話の中のものだったが、むしろそれだけ彼にとっては重要な観点なのかもしれなかった。生来のごう。なにも本人が悪いことをしたわけではない。しかしごうのせいでひどい災難が降りかかる。でもどうしてそれが彼なんだろう、と僕は思った。あるいはそれが僕だったとしてもおかしくはなかったんじゃないか?

 

 

「それはたまたま彼にその時期がきたからだよ」と暗闇の中で誰かが言った。僕ははっとしてそちらを向いたが、そこには何も見えなかった。ちょうどベッドに寝ている彼の足元のあたりだ。何か黒い塊のようなものが見える気がする。でもそれも気のせいかもしれない。僕はとっさに何かを言おうとしたのだが、なぜか言葉は出なかった。言葉は失われていた。

 

 

「しゃべらなくていい」とその声は言った。若い男の声にも聞こえるし、年を取った男の声にも聞こえる。声だけからその持ち主の顔を想像するのは困難だった。「君の考えていることくらい私には簡単に分かる」

 

あなたは何者なのですか?と僕は頭の中で考えた。

 

「それを言ってもおそらく君には理解できないだろう」とその声は言った。「我々は君とは違う論理のもとで生きているから。そこには違う重力があり、違う正義がある」

 

彼の肉体を奪うのですか?と僕は頭の中で訊いた。

 

「なにもただ奪っていくだけではない」と声は言った。「昨日だって新しい腕を取りつけてやったじゃないか。いいかい、彼は生まれ変わろうとしているんだ。我々はそれを助けてやっているだけなんだよ」

 

彼は自分の本質が奪われてしまうんじゃないかと怯えていました。

 

「本質か」と言ってその声は笑った。暗闇の中に不気味な残響が響いた。「君は本当に彼に本質なんてものがあると思っているのか?」

 

僕は何とも答えられなかった。

 

「君は自分の中に本質があると思っているかい?」

 

僕は考えたが、それでもよく分からなかった。しかし本質に類似した何か、いわば「核」のようなものはあるのではないか、という気はした。その人をその人たらしめている核だ。

 

 

「核か」とその声は言った。「でも君はそれを実際に目にしたわけではない。そうだろう?」

 

そうです、と僕は思った。

 

「君は『死のかたまり』のことについて考えていたな」とその声は言った。「なあ、その『死の塊』が『核』だということはないかな?」

 

 

死の塊が核? そんなことは思いつきもしなかった。でも僕にはそれは矛盾した考えのように思えた。「死の塊」とはつまり死に属するもので、「精神の核」は、つまり生に属するものだからだ。

 

 

「生と死は常に密着している」とその声は言った。「生の中に死があり、死の中に生があるんだ。これから君にそれを見せてやろう」

 

 

すると次の瞬間、ベッドの彼の胸のあたりがピカっと光って、そこから何かが浮き上がってきた。それは心臓のようにも見えたが、よく見ると心臓ではなかった。もっとずっと小ぶりで、もっとずっと黒い。それは小さな石のようにも見えたが、石であるはずはない。なぜならそれは、まるで呼吸をするみたいに、小さく収縮と拡張を繰り返していたからだ。

 

「これが彼の死の塊だ」と声は言った。

 

僕はそれにせられていた。それは美しい輝きを持っていた。もっとも明るく光っていたわけではない。それは黒く光り輝いていた。

 

 

「よく見ているんだ」と声が言い、空中に浮かんだその塊の中心が、ぱっくりと縦に割れた。するとその中から何かぼんやりと光っているものが出現した。淡い、青色の光だ。海の色に似ている。僕はじっとそれを見つめていた。

 

「これが何だか分からないか?」と声は言った。

 

一体何だろう、と思ってよく見てみると、それが彼の本質であることに気付いた。あるいは「精神の核」のようなものだ。その光り方は――色こそ違っていたが――彼の目の輝きとまったく同じものだった。僕はそこに懐かしい温かみを感じることができた。

 

 

「さあ、もっとよく見るんだ」とそこで声が言った。

 

するとその青い核の中心が割れ、その中にさっきと同じような黒い塊が現れた。それは死の塊だった。再びこれが現れたのだ。僕は混乱してしまった。彼の精神の核の中に、死が存在している。それは確かに美しく(つまり黒く)輝いてはいたものの、明らかに死の領域に属するものだった。精神の中心に、死があるということなのだろうか?

 

 

僕がそう思って眺めていると、やがてその塊も縦に割れて、中にまたさっきと同じような青い光が現れた。彼の精神の核だ。一体どうなっているのだろう? これじゃあ切りがないじゃないか。これが永遠に続いていくのだろうか?

 

僕は目を閉じようとした。この果てしのない堂々巡りを見ているのが、心底つらくなったからだ。しかしあの声が言った。「目を閉じてはいけない」。そして無理矢理僕の目を開かせた。

 

どうやってそんなことをやったのかは分からないが、僕のまぶたは完全に開かれていた。もはやまばたきすらできない。視界の中心には永遠に続く黒と青の輝きが交互に現れ、その周囲には明るいメラメラした炎のようなものがあった。炎?と僕は思った。一体何が燃えているんだろう?

 

 

でもそれに気付くのに時間はかからなかった。なぜなら燃えているのは僕自身だったからだ。僕は目でその生と死の交互の現れを見、そして身体は焼けつくような熱さにさらされていた。いや、「焼けつくような」という表現は妥当ではない。僕は実際に焼けついていたからだ。

 

 

何が起こっているのかよく分からなかった。僕は彼の部屋にいたはずなのに、今ではこうして燃え上がっている。このままでは僕の肉体は完全に燃え尽きてしまうだろう。全身からたくさんの汗が流れたが、それもすぐに蒸発してしまった。皮膚が焼け、肉が見えた。でもそれもすぐにげ落ちてしまった。僕は骨だけになったが、それでもなお視線はあの青と黒の――生と死の――光の現れを見つめていた。周囲には赤い炎が広がっていた。これは何なんだ? と僕は思った。一体何が起こっているんだ?

 

 

「それがつまり生きるということなのさ」とどこかでまたあの声が聞こえた。でも僕はもう何も聞いてはいなかった。僕はもう僕ではなかった。僕の肉体は完全に焼け落ちてしまっていて、骨すらも残っていない。僕は何者でもなかった。生きてもいないし、死んでもいない。とっくに眼球は溶け落ちていたはずなのだが、なぜかあの光だけは見えていた。青い温かな光、そして黒い冷たい光。生きることと、死ぬこと。それはどこまでも交互に続き、果てというものがなかった。その奥に何があるんだろう、と僕は思った。何か価値あるものが存在するんだろうか? 追求するだけの価値のあるものが。でもその疑問もすぐに消えてしまった。僕自身と一緒にどこかに消えてしまったのだ。あとに残ったのは、いつまでも燃え続ける一つの炎だけだった。

 

 

 

目を覚ますと、カーテンから朝日がこぼれていた。時計を見ると、午前の5時半だった。僕は椅子に腰かけたまま眠り込んでいたようだった。だとすると、あれは全部夢だったのだろうか? 僕の中には、まだ燃え続ける炎の感触が残っていた。そしてあの交互に続く青と黒の光。

 

 

僕は椅子に座ったまま両腕を伸ばして、強張こわばった身体をほぐした。自分が今、こうして肉体を持って動いているということが、なんだか不思議に思えた。僕は一度死んだのではなかったか。完全に燃え尽きたのではなかったか。

 

 

でもどれだけ時間をかけたところで、結局何が起きたのか理解することはできなかった。彼らには彼らの正義があるのだ、とふと僕は思った。たとえそれがどんな形であれ。

 

とりあえず僕は、今自分がこうして生きていることを事実として受け入れることにした。そうしないとそこから先の物事がどこにも進んでいかないと思ったからだ。しかし心の奥深くでは、まだ僕はその確信を持てずにいた。つまり「自分が生きている」ということを自明のこととしてとらえることができなかったのだ。とりあえずこうやって身体を動かしてはいるものの、そんなのはただの見せかけに過ぎないような気もした。僕は首を振った。でももしそうだったとして、一体僕に何ができるというのだろう?

 

 

そこでふとベッドの方に目をやった。そういえば彼はどうなったんだろう? 彼の左腕は無事だったのだろうか? でもそこに彼の姿はなかった。そこにはただ、人型の虚ろなへこみがあるだけだった。

 

ぼんやりと無人のベッドを見つめていると、後ろのドアが開いて当の彼が入って来た。彼はれたてのコーヒーを大きなマグカップに入れて飲んでいた。コーヒーの香ばしい香りがこちらにまで漂ってきた。彼は言った。

 

「君も起きたか」

 

そして窓の方に行き、閉まっていたカーテンを片手で開けた。朝のまぶしい光が鋭く部屋に差し込んだが、僕は目を閉じなかった。なにしろそれは新しい一日の、まったく新しい日の光だったのだから。

 

 

「まるで生まれ変わったような気分だ」と彼は言った。そしてカップを窓枠に置いて一度大きく伸びをした。そして「君はどうだ?」と僕に訊いた。

 

でも僕は何も答えることができなかった。言葉はどこかに消えてしまったようだった。僕は彼の方を向いたが、実をいうと彼のことを見ていたわけではない。というのも僕は目の奥で、まだあの永遠に続く青と黒の光を追いかけ続けていたからだ。

 

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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