「さっきまで死のことを考えていた」と彼は言った。僕は何も言わず、ただその続きを待っていた。電話越しに聞こえる彼の側の沈黙は、なぜかひどく重たく感じられた。
「実を言うと今日一日ずっとそのことを考えていたんだ」と彼は続けた。「なぜかは分からない。あるいは朝からずっと雨が降り続いていたせいかもしれないし、たまたま人生のそういう時期に当たっていた、というだけなのかもしれない。なあ、君はどうだ? 今日死について考えたかい?」
僕は今日一日仕事をしていて、死について考える暇なんかなかった、と言った。
「まあそうだろうな」と彼は言った。そしてしばらく何かを考え込んでいた。僕はその間、携帯電話を持ったまま、ただ漠然と自分の部屋を眺めていた。そこはなぜかいつもよりずっと薄暗いように感じられた。でも気のせいかもしれない。「なあ」とやがて彼が口を開いた。「君は死とはなんだと思う? 我々はどうして死ぬんだと思う?」
死とは生命あるものが生きるのをやめることだ、と僕は言った。そしてそれはおそらく、誰にも避けることのできないものなのだ、と。
「それじゃあ」と彼は言った。「君は死の実在を信じないのかい? 例えば手に取れるような死だ。ほら、ちょうど黒い塊みたいに」
そういうものはまだ一度も見たことがない、と僕は言った。
「俺はさ」と彼は言った。「どこかに、つまり俺たちの身体のどこかに、そういう部分があるんじゃないか、という気がするんだ。それはつまり『死の塊』だ。それは俺たちが死ぬ瞬間までじっと息を潜めている。身動き一つせず。完全に気配を消して。でも最後の最後に突然身体中を覆い尽くすんだ。そして俺たちは死ぬ。俺は自分の中にそういう部分があるような気がするんだよ。君はそうは思わないか?」
比喩的な「死の塊」というのなら理解できる、と僕は言った。
彼は電話の向こうで首を振った。そういう気配が感じられた。「いや、これは比喩じゃない。全然比喩なんかじゃないんだ」
彼はその後じっと黙り込んでしまったが、僕は何も言わず、ただ彼に考えさせておいた。きっと続きがあるのだ。
「あのさ」と案の定彼は続けた。「もし死がなかったら、『生』という言葉も存在しなかったんじゃないかと思うんだ。君はそれについてはどう思う?」
「あるいはそうかもしれない」と僕は言った。「でも実際にそういう状況に身を置いたことがないから、本当のところは分からない」
「俺たちは今生きている」と彼は言った。「それには君も同意するだろう?」
同意する、と僕は言った。
「でも俺にはよく分からないんだ」と彼は言った。「全然分からない。実を言うと今日の午前中、ずっと素っ裸で鏡に自分の姿を映していた。そしてこう思ったんだ。一体こんなものがこの世に存在している意味が、どこにあるんだろうってな。俺は今までたくさんの豚とか、牛とか、鶏を喰ってきた。魚も喰った。果たして俺はそんな殺生に値する人間だったんだろうか、とな」
君は考え過ぎている、と僕は言った。そんなことを言い出したら切りがないだろう、と。
「でもさ、俺には分からないんだよ。だってほかの人々は・・・」
そこで突然回線が途絶えた。僕は何度か呼びかけてみたが、聞こえてくるのは単調な電子音だけだった。僕の方の携帯には何の問題もなかったから、それはおそらく彼の方の問題だったのだろう。数分後に僕は電話をかけ直してみたが、そのときもまた無機質な電子音が鳴るだけで、いつまで経っても電話は繋がらなかった。
再び電話が鳴ったのは、次の日の早朝だった。僕はまだ夢の中にいたのだが、暴力的な着信音がそれを打ち壊した。バラバラになった夢の断片は――それは珍しく穏やかな夢だったのだが――虚無の彼方へと消えていった。それが再び回収されることは、おそらく永遠にあるまい。
「もしもし」と僕はまだ半分眠り込みながら言った。「どうしたんだ?」
でも聞こえてきたのは、ひとしきりの沈黙でしかなかった。僕は声を大きくしてもう一度言った。「もしもし! 何かあったのか?」
「・・・これは俺じゃない」と彼は言った。彼は確かにそう言ったのだ。これは俺じゃない、と。それはどういうことなんだろう?
「それはどういうことなんだ?」と僕は訊いた。
「俺が俺じゃなくなっている」と彼は言った。「とにかく家に来てほしい」
「だって僕は今から会社に・・・」
「これは緊急事態なんだ」と彼は言った。「会社も大事だが、これはおそらく君にとっても大事なことなんだ。頼むから少しだけ時間を割いてくれないか?」
僕は溜息をついて時計を見た。今から彼の家に行ったとしても、急げばなんとか会社に間に合うかもしれない。
「分かったよ」と僕は言った。「今すぐ向かうから」
「恩に着るよ」と彼は言った。
彼の家は僕のマンションから電車を乗り継いで三十分ほどのところにあった。まだ朝は早かったが、駅にはたくさんの通勤客の姿が見られた。彼らはみな一様に、速足で黙々と歩いていた。彼らはこれから仕事に向かうのだ、と僕は思った。きっと死のことなんか考えている暇はないだろう。
僕は彼の家からそのまま会社に行けるよう、スーツを着て電車に乗っていた。この時間帯にそちらの方向に行くことはめったにない。そういう普段とは違ったことをしているという意識が、感覚に僅かなずれを与えていた。僕は周囲の人々を見回したが、少なくとも今のところは、僕は彼らの側に属してはいなかった。彼らは今生に向かっているが、僕は今死に向かっているのだ、となぜかふと思った。そして少しの間、頭の中で死について考えていた。
マンションに着いてドアベルを鳴らすと、すぐさま彼が応答した。「すぐ行く」と彼はインターフォン越しに言った。
彼は言った通りすぐにドアを開けて僕を中に招き入れた。見ると彼はまだパジャマ姿のままだった。白と水色の縞模様のパジャマだ。ぱっと見ると、それは穏やかな――きっと軽犯罪者用のものだ――囚人服のようにも見えた。我々は黙ったまま廊下を抜け、居間に向かった。部屋にはあまり物がなくて、がらんとした印象を受けた。彼は僕を中央のソファに座らせた。
「それで」と僕は言った。「何があったんだ?」
彼は僕の前にじっと立ったままでいたのだが、やがてこう言った。
「なんだ気付かないのか?」
「気付かないって何に?」と僕は言った。
「これだよ」と彼は言って右腕を上げ、パジャマの袖を肘までまくった。しかし僕には何のことやらまったく分からなかった。いつもの彼の右腕じゃないか。
「右腕がどうしたんだ?」と僕は言った。
彼は首を振り、こう言った。「いいかい。よく見てくれよ。これは俺の右腕じゃない。誰かほかの人間の右腕だ。そんなの一目見れば分かるだろうに」
でも僕にはそんなことは信じられなかった。誰かほかの人間の右腕? どうしてそんなものがくっついているのだ? そんなことが実際にあり得るのだろうか?
「でも実際に起きたのさ」と彼は僕の心を読んだように言った。「これがその証拠さ」。そして腕についた一つのほくろを指差した。
それはごく小さいほくろで、僕にはなんらおかしなところがあるようには見えなかった。
「これは昨日まではあと三センチ肘の方に付いていた」と彼は言った。「奴らはうまくカモフラージュしたつもりだろうが、俺はすぐに気が付いた。それに動かした感じも全然違う。なんというか、もっと関節がぎこちなかったはずなんだ。それなのに今はこんなにスムーズに動いている」
そしてまるでチョップするみたいに、何度も空中で肘を曲げ伸ばしした。
僕は言った。「奴らって誰なんだ? 君にはその見当が付いているのか?」
「『奴ら』とはおそらく死の領域に潜む人間だ」と彼は言った。「昨日の夜死の話をしただろう? きっとあれがいけなかったんだ。あのせいで俺は眠っていた奴らを刺激してしまったんだよ。おそらく人間は本来死のことなんか考えてはいけないんだろう」
でも僕には分からなかった。彼は本当にそんな人間の存在を信じているのだろうか?
「なあ」と僕は言った。「もし百歩譲ってそんな人間がいたとして、君の腕は元に近い状態でくっついているじゃないか。これがもし腕がなくなっているんだったら問題だよ。でも今はくっついている。それも前よりもスムーズに動く状態で。それなら大した問題はないんじゃないかな?」
それを聞くと彼は、何も分かっていない、という風に首を振った。「君は何も分かってない」と彼は言った。「いいかい。こんなのは序の口に過ぎないんだ。彼らは明日にでも左腕を奪い、あさってには右脚を、その次には左脚を奪うだろう。そうしたら次はどこだ? 頭とか、心臓とかだ。そして最後にはきっと俺の精神の核ともいえるものを持って行くだろう。そこまでいったらもうおしまいだ。そこにいるのはもう、俺ではない『別の誰か』ということになる。そんなのは自明のことだと思っていたけどな」
僕はなんとか頭を働かせた。しかしそれでも状況をきちんと把握するには至らなかった。「君はそういうことになると確信している」ととりあえず僕は言った。
「これは確信だよ」と彼は言った。「俺にはそれが分かるんだ」
「君は昨日『死の塊』、ということを言ったな」と僕はふと思い出して言った。
「ああ、言ったよ」と彼は言った。「それがどうした?」
「もしかして奴らの狙いはその死の塊なんじゃないのか?」
彼はそれを聞くと少し驚いたみたいだった。「死の塊を? どうしてそう思うんだ?」
「いや、根拠なんかない」と僕は言った。「ただ昨日君がその話をして、それで今朝こんなことが起こった。そこにはなんらかの繋がりがあると考える方が自然だろう」
「でもそんなものどうするんだ?」と彼は言った。「死の塊なんて、一体何の役に立つんだ?」
「そんなこと僕には分からない。奴らに実際に聞いてみないと」
そこでふと時計を見ると、もう仕事に行くべき時間だった。彼は裕福な親の仕送りで生活していたから(もう三年になる)、仕事に行く必要はない。しかし残念ながら僕はそれほど恵まれた境遇にいるわけではなかった。日々の糧をこの手で稼がなければならないのだ。
「もう行かなくては」と僕は言った。そしてこう付け加えた。「しかし君をこのまま置いていっても大丈夫なのだろうか?」
「奴らはきっと日の出ているうちには来ない」と彼は言った。「なんとなくそういう気がするんだ。彼らは闇の住人だ。きっと夜の深いうちにしか行動しないだろう」
僕は彼の家を出て、会社に向かった。彼には、何か変わったことが起きたらすぐに連絡を寄こすように、と言っておいた。そうする、と彼は言った。
『死について 2』に続く