標識

僕の家の前には「40」と書かれた道路標識があった。もちろん制限速度四十キロ以下という意味なのだが、この標識は他の標識とは違ってほとんどの場合律儀に守られた。というのもその道路は完全に直角に折れ曲がっていて、四十キロ以上出そうものなら曲がり切れずにうちの田んぼに落ちてしまうのが目に見えていたからだ。でもこれまでに一度だけ例外があった。

 

 

それは良く晴れた土曜日の朝だった。僕は外に出てボール遊びをしようとしていた。すると木の隙間からうちの田んぼに何かが落っこちているのが見えた。そこからは誰か知らない人の声も聞こえた。

 

「オウ、シット!全くなんてこった」とその声は言っていた。恐る恐る近寄って見ると、田んぼに落っこちていたのは一台の青いオープンカーだった。それは完全にひっくり返り、腹を天に向けていた。僕は唖然としてその光景を見つめていた。車の隣には三十代くらいの男女が泥だらけになって突っ立っていた。二人とも派手な服を着て、濃いサングラスをかけている。

 

「なんであんなにスピード出してたのよ」と女が言っていた。
「君が朝ぐずぐずしてたのが悪いんだよ」と男が言った。
「だってお化粧に時間がかかるんだもの」

 

「おい、坊主」と言って男が急にこっちを向いた。「どっちが悪い?」
僕にはなんとなく女の人の方が悪いような気がした。「女の人です」と僕は言った。
「ほらな、彼もそう言ってる」と男は勝ち誇ったように言った。

 

「どこに行く途中だったんですか」と僕は聞いた。何しろこの町はとんでもない田舎なのだ。こんなところに彼らは何を求めていたのだろう。
君に会いに来たんだ」と彼は言った。
僕に?」
「そうだ」

 

「いいか、これは誰にも言っちゃいけない」と彼は言った。「俺たちはある特別な任務を受けて、君にある特別な任務を授けるべくここにやって来たんだ」
「はるばる何百キロも移動してね」と女が言った。
「一体どこから来たんです?」と僕は好奇心に駆られて聞いた。
「そんなことはどうでもいい」と男はいらいらしたように言った。「いいか」と彼は続けた。「君は特別なんだ。それは彼らも知っていることだ。ちゃんとマークしているんだよ。それでだね、今から君にその任務を授けようと思う。さっきも言ったように特別な任務だ」

 

「どんな任務なんですか?」と僕は聞いた。
「どんな任務かって」と男は言って女の方を見た。そして笑った。「それは口では言えないな」
「何か難しいことなんですか」と僕は聞いた。
「うーん。まあ難しいと言えなくもない。でも君にはできる。彼らはそれを知っている」
「彼らって誰ですか?」と僕は聞いた。

 

「まったく質問の多い子だな」と彼は言った。「そんなのはどうでもいいんだ。大事なのは君にその任務をやり遂げる意思があるかどうかってことなんだ」。そして男は急に真顔になり、大声で聞いた。「おい、君にやる気はあるのか?

 

僕はびっくりしてしまい、勢いのまま「あります」と答えてしまった。一体なんであんなことを言ったんだろう。

 

「それで良い」と男は言い、女に向かって合図をした。女はこっちにやって来た。男はズボンのポケットから小さな瓶を取り出し、女に渡した。瓶の中には蛍みたいに小さなものが光っていた。「じっとしててね」と女が小さな声で言った。彼女は蓋を開け口の中にその小さなものを入れた。彼女は口の中でそれをしばらく転がしていたのだが、やがて僕に近づき、そっと口づけをした。彼女は僕の口を開かせると、舌を使ってその小さなものを僕の中に押し込んだ。

 

「飲み込むんだ」と男が言った。僕は言われるがままそれを飲み込んだ。胃が熱くなるのが感じられた。
「これで君に任務が授けられた」と男は言った。「もしかしたら、いつかそれを重荷に思う日が来るかもしれない。なんで自分だけがこんなに苦しむんだろうと思う日が来るかもしれない。でもこれで良かったと思う日がきっとやって来る。それは俺が保証する。なにしろ君は特別な人間なんだからな」

 

男がしゃべり終えると僕は急に眠たくなってきた。目の前が暗くなり、もう立っていられなくなった。僕はその場にくずおれた。

 

目を開けると僕は自宅の玄関に横たわっていた。田んぼを見てみたが、そこにはもう車は無かった。車が落ちたという痕跡すら残っていなかった。

 

 

というわけであの「40」という標識を見るたびに、僕は自分が特別な人間であることを思い出すのだ。

 

 

プレイキャスト ポルシェ ボクスターS

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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