Home » 短編小説 »
短編小説 コメントはまだありません
Pocket

その朝僕は月面で目を覚ました。辺りは暗く、頭上では数えきれないほどの星々がきれいに輝いている。僕は始めのうちものごとの展開に付いて行くことができない。昨日の夜眠りに着いた時はちゃんと自分の部屋にいた。急に眠たくなって、いつもよりずいぶん早く床に着いた。そして今日もいつも通り仕事に行くつもりだったのだ。でも目を開けると僕はベッドごと月に運ばれてきていた。一体誰がそんな面倒なことをしたんだろう?そして何のために?よく見ると、ひっそりと静まり返った月の世界は無人というわけではなかった。そこには一人の少年がたたずんでいた。

 

「やあ」と僕はベッドから身を起して少年に声をかけた。彼は棒のようなものを使って夢中で地面に絵を描いていた。顔すら上げない。「ねえ!」と僕はもう一度声をかけた。

 

「ああ」と少年は言い、こっちを振り向いた。そして言った。「こんちは」
彼が顔を上げた時に気付いたのだが、その顔は僕の子どもの頃の顔によく似ているような気がした。でも単なる気のせいかもしれない。彼は挨拶を済ますと、すぐにまたお絵描きに戻ってしまった。

 

「ねえ」と僕はまた声をかけた。「ここはどこなんだろう?」
「月だよ」と彼は今度は顔も上げずに答えた。「そんなの見れば分かるじゃないか」
「でもどうして僕はこんなところにいるんだろう?」
「たまにそういうことが起こるんだよ」と少年は言った。「何かの加減でさ」
何かの加減で」と僕は繰り返した。

 

「君はずっとここにいるの?」と僕は聞いた。
「まあね」と少年は言った。
「寂しくはない?」
「もう慣れたよ」

 

その時前方に地球が見えることに気付いた。それは青く輝きながら、月の地平線から徐々に上に昇って来ていた。それは、なかなか美しい光景だった。
「地球に帰りたいとは思わない?」と僕は聞いた。
「どうかな」と少年は言った。「地球には愛が足りないからさ」
「愛が足りない?」
「うん」と言って少年は頷いた。

 

そう言われて良く見てみると確かに地球には愛が足りないような気がした。さっきは美しいと思えた青色も、なんだか悲しみの青色にしか見えなくなってしまった。
「なんで地球はあんなに悲しみに満ちているんだろう」と僕は言った。
「あなたのせいだよ」と少年は言った。
「僕のせい?」
「うん」と少年は言った。「あなたのせいなんだ」

 

僕には分からなかった。なんで僕のせいで地球が悲しみに満たされたりするんだ?
「でも僕一人のせいで地球全体が悲しみに包まれるなんてことが、本当にあり得るんだろうか?」と僕は聞いた。
すると少年は顔を上げてじぃっと僕の顔を見つめた。彼はとても澄んだきれいな目を持っていた。でもそこには、ちょうど地球と同じような青い悲しみが満ちているような気がした。
「あなたのせいなんだ」と少年はもう一度言った。「あなたのせいで地球は悲しみに満ちているんだ」

 

「どうしたら愛を取り戻せるんだろう」と僕は聞いた。
「僕は知らない」と少年は言った。そしてまたお絵描きに戻ってしまった。
そこで僕は質問を変えた。「でもさ、月にだって愛は足りないよね」
すると少年は言った。「だって月は白いから」
「月は白いから?」
「月は白いから愛が足りなくても大丈夫なんだ」
僕には彼の言っていることの趣旨がよく分からなかった。月が白い?でも僕らがいるでこぼことした月面は、一面がくすんだ灰色だった。月が白い?それになぜ白ければ愛が足りなくても大丈夫なのか、それも僕には分からなかった。考えるとだんだん頭が痛んできた。そこで別のことを聞くことにした。「ねえ、一体何を描いているの?」
すると少年は少し脇に避けて、地面に書いていたものを僕に見せてくれた。見るとそれは涙を流す大きな眼球の絵だった。とてもリアルだ。その目もまた悲しみに満ちていた。深い悲しみだ。僕は背筋がすっと寒くなるのを感じた。

 

「これは良くないな」と僕は小さく、でも断固とした口調で言った。
「良くない?」と今度は少年が聞いた。
「これは良くない」。そう言って僕はベッドから起き上がり、月面に降り立った。月は地球よりも重力が小さく、歩くのに少しコツが要った。でも僕はなんとか歩き、少年のそばに近寄った。そして彼を強く抱きしめた。

 

「可哀想に」と僕は言った。
少年は何も言わなかった。
見ると地球の色が変わっていくのが見えた。それは最初赤く変わり、次に緑色になり、次に黄色になった。でも次第に真っ黒い部分が両方の極地から広がっていき、やがて世界全体を包み込んだ。
「地球は死んでしまおうとしている」と少年が僕の胸の中でモゴモゴと言った。
「愛が足りないから?」と僕は聞いた。
「愛が足りないから」と少年は僕の胸に向かって言った。

 

気付くと、ものすごい轟音が辺りを包んでいた。良く見ると今僕らがいる月が猛スピードで地球に向かって引き寄せられて行くのが分かった。死ぬ寸前に地球はその重力を極端に増したようだった。
「僕らどうなっちゃうんだろう」と僕はひどく不安になって聞いた。
「地球の真ん中にぶつかるんだ」と少年が静かに言った。「そして愛をまき散らす」

 

僕らはものすごい速さで、今や黒く変わってしまった地球の中心に向けて突っ込んで行った。白い月黒い地球にぶつかろうとしている。その結果一体何が生まれるんだろう?
「新しい星だよ」と少年が僕の考えを読んだように言った。「地球でも月でもない、新しい星が生まれるんだ」

 

大気圏を越える時に僕はちらりと人々の顔を見た。地球の人々だ。彼らは皆一様に悲しみに沈み、うつむいて涙を流していた。楽しそうにしている人の姿は、一人も見えなかった。
「愛が足りないんだ」と僕は言った。
「愛が足りないんだ」と彼は言った。

 

地球にぶつかる最後の瞬間、僕は彼の言っていた意味を理解した。僕のせいで地球が悲しみに満たされている、ということの意味だ。つまり、僕自身が愛だったのだ。今までそれに全然気付かなかっただけで。僕自身が眠りこけていたからこそ地球は悲しみに包まれていたのだ。

 

月はものすごい轟音と共に黒い地球にぶつかった。地球上の大地は溶け、大気は何か別のものに変化した。全ての水が蒸発した。全ての生物が息絶えた。二つの星の断片が、ばらばらになって宇宙空間に飛散し、巨大な重力によってまた中心に集約された。そしてそこに、新しく何かが生まれようとしていた。
僕と少年は月と一緒に分子にまで分解し、新しい星の、新しい大気の一部となった。悲しみに暮れていた人々は一度死に、またゼロから生まれ変わった。別の組成を持つ、全く別の生き物に。僕と少年はそんな人々の肺の中に入り込み、その血管を縦横無尽に走り回って、また明るく輝く外に出た。

 

「悪くない気分だ」と僕は言った。新しい星の新しい地平線から、いつもの太陽が昇って来ていた。太陽の明るさだけは以前と何の変りもない。
「愛とは風だから」とその時少年は言った。「愛とは風のようなものだから

 

僕は新しく生まれ変わったその星を改めて眺めた。新しく生まれ変わった大地。新しく生まれ変わった空。新しく生まれ変わった海。それはなかなか悪くない光景に見えた。「これからどうしようか?」と僕は少年に聞いた。
すると少年は言った。「まだ足りない。まだまだ愛が足りない」

 

そこで僕らは無限に増殖することにした。無限にだ。

 

LEAVE A COMMENT