六月、及びドストエフスキーの『悪霊』について

 さて、ついに六月がやって来ました。梅雨(つゆ)の季節です。今日(6月4日、金曜日)も雨が降り、空気はじっとりと湿っています。街全体を、灰色の雲がどんよりと覆っていました。風が吹き、雨粒を斜めに飛ばします。走り抜ける電車も、いつもより心持陰鬱(いんうつ)に見えてきます。線路沿いに咲くヒナゲシの花が、もの寂しくゆらゆらと揺れています・・・。でもまあ考えてみれば、それもさほど悪くないのかもしれませんね。というのも季節がきちんと巡っているのだ、という感覚が(じか)に感じ取れるからです。

 それはそれとして、新型コロナウィルスのことです。世界的に見ればまだまだ収束は先みたいですが(インドがひどいみたいですね)、とりあえず遂にワクチン接種が目に見える範囲にまで及んできたようです。ということで、ようやく僕の職場のご高齢の方たちも――年齢のことを言われるとみんな嫌そうですが〈笑〉――ある程度ワクチン接種を受け始めています。やっとか、という気持ちが正直なところですが、まあ始まらないよりはずっとましですね。まだまだ変異種の問題なんかもあるし、若い人に一体いつワクチンが行き渡るのか分からないという状況でもあるので、ほっとするわけにはいかないかもしれませんが、少なくともどこかに向けて前進してはいるはずです。それはまあ喜ばしいことだと思う。

 それでも僕自身に関していえば、特にいつもと違ったことをしているわけでもありません。バイトに行って、走って、筋トレをして、サラダを食べて、あとは小説を書く。あるいは書き直しをする。その繰り返しです。ふと思い返せば、もう一年以上この街から出ていません。まったく。それはそれでちょっと異常だよな、と思わないこともないです。でもまあいいや。とりあえずこれ以外やりたいことがないんだし。

 ということで、この間から長い小説(原稿用紙249枚)と、中くらいの小説(原稿用紙144枚)を書き上げて、ひたすら書き直しをしていました。中くらいの方はある地方の文学賞に送りつけてやりました(あとはもう忘れる)。長い方はそのうちどこかに出すかもしれません。まあ少しずつは成長しているはずだ、となんとか自分に言い聞かせて、書き続けています。

 それはそれとして、最近なぜかドストエフスキーの『悪霊』を読み返していました。たぶんこれで三回目くらいだと思うのだけれど(最初に読んだのはたしか大学生の頃だった)、やっぱり面白いです。何が面白いかというと・・・きっとそこに出てくる人物が実にカラフルだからだと思います。ドストエフスキーという人は、一応小説の中の枠組みというか、一種のプロットのようなものはあるのだけれど(ここでは社会主義を奉ずる五人組と、そのグループによる裏切り者の殺害)、だんだんそれよりも出てくる一人一人の人間の異常性、あるいは退屈さ、要するに人格の発露、そういったものに興味がシフトしていくというような(ふし)があります。中心人物だけでなく、脇役たちもまた、きちんとしたパーソナリティーを備えています。そしてそのパーソナリティーは、おそらくは小説的に拡大されている。どこかの地点で厳密なリアリズムに徹することを外れ――たぶん意図的に、ですが――物語のワイルドなドライブが人々を動かしていきます。哲学的な論考もありながら、一方で常に対立するノーション(観念)が相争っている、という感じがあります。たとえば若い無神論者たちと、いささか感激癖のある元家庭教師(僕はこのステパン氏がものすごく好きなのですが)。あとは何も信じていないスタブローギンと、チホン僧正(そうじょう)(こちらはイノセンスを代表している、と思う)。その辺の対立項は(のち)の『カラマーゾフの兄弟』においてさらに拡大、及び強化されているわけですが、ここでもまあ十分に魅惑的な人々が登場します。これを読んでいるとドストエフスキーという人がいかに神のいなくなった世界において、人々が何を基盤に生きるべきか、そういったことを考えていたのかが分かるような気がします。宗教権力の腐敗。あるいは貴族と平民という歪んだ――あるいは硬直化した――構造の解体。1861年の農奴解放令。科学技術の発展と、それに伴うキリスト教的倫理観の崩壊・・・。

 もっとも一番重要なのは、彼の描く人物たちが、まさに「今、ここ」を生きている我々と置き換えてもまったく遜色ない、ということなのかもしれません。要するに社会的慣習とか(我々はもはやピストルで決闘をしたりはしない)、細かな環境の違いはあるにせよ(うちにはサモワールはない)、そんなことは脇に置いておいて、一人一人の考えていることが結局は一種の普遍性を持っているのだ、ということになると思います。

 たとえば俗物は俗物的なことを考えている。しかしその俗物ですら、そのときその瞬間を生きていた一人の人間なのです。ということは、明らかに固有の歪んだ部分を持っています。そういったちょっとした(ひだ)のようなものを、ドストエフスキーは見事に描き切っていると思う。怒りんぼの大学生シャートフ(彼は結局は殺されます。アーメン)。奇妙な哲学を持つキリーロフ(彼は信念に従って自殺します。アーメン)。ロシア版のイアーゴともいうべきステパン氏の息子のピョートル・ヴェルホーヴェンスキー(彼は様々な策を弄して、自分の計画を成し遂げようとします。そして結局は逃亡する)。そして影の主人公ともいうべきニコライ・スタブローギン(自分自身をも、神をも信じていない。にもかかわらず、奇妙な幻覚を見る。彼もまた結局は救いを得られず、自殺します。アーメン)。あるいは読者が唯一感情移入できるのは、語り手たる「私」(「G」とだけ、紹介されている)だけかもしれません。明らかにここにはドストエフスキー本人の面影を見ることができます。彼は自分を一種の傍観者という位置に置くことによって、様々なカラフルな要素を持った人々の動きを、逐一観察することに成功します。それでもおそらく彼らの一人一人は、要するに彼(ドストエフスキー自身)のそれぞれの要素の人格化されたものにほかならないのでしょう。もちろんどのような小説も多かれ少なかれそういった面はあるのですが、彼の場合その誇張のされ方が見事で――そして面白いので――ついそこに引き込まれてしまいます。僕はニヤニヤしながらある種の部分を読んでいました。ある意味で人間がいかに滑稽になり得るか、という部分に、フォーカスが当てられている気もしました。でも、それにもかかわらず、人間が意識を持って生きる、という行為には、何かしらシリアスなものが潜んでいる。その事実を、彼は独特の温かい目でもって、見守っています。それでも一番エッジを感じるのは、スタブローギンが生きるべきか死ぬべきかを本気で決めかねているところなのだと思います。それはおそらく彼(ドストエフスキー)本人の中でも簡単に答えの出ない問題だったのでしょう。だからこそこれだけ巨大な作品を書く必要があったのです。

 いずれにせよ面白い作品であることはたしかなので、気になる人は是非読んでみてください。悪霊に乗り移られた豚たちが崖から飛び降りて大量に死ぬ場面は――というか一番最初の題辞(だいじ)(エピグラフ)ですが(これは聖書からの引用)――なかなか頭から抜け落ちてくれません。その光景は何かを――何か大事なことを――暗示しているように感じられます。この作品においては、悪霊とはつまり無神論であり、豚たちに悪霊を引き渡して我に返る民衆は母なるロシアだとされています。それでもたぶんそれだけではないと思う。ドストエフスキーは常に個人の中に潜む(たましい)のようなものを見つめていました。その美しい側面だけではなく、醜いところも全部。これが――この作品のすべてが――自分自身を理解しようとする一つの試みだったとすれば、この人はものすごい執拗な探求精神を持っている、ということになりそうです。シベリアに4年間も送られたり(社会主義のグループに入っていたためです。死刑判決まで受けて、結局は恩赦を与えられた)、賭博癖に苦しめられたり、いろいろと苦労も多かったみたいですが、59歳で死ぬまで精力的に書き続けました。近代文学が産んだ天才の一人だと思います。しかし、それでもなお、確実なユーモアのセンスがある。

 さて、それはそれとして――と一言で言い切れないような気もするのですが、とりあえず――僕自身は、30も近くなり(あと5カ月を切りましたね、まったく・・・)なんとなく自らのパーステクティブが移動しつつある、という感覚を抱いています。もちろんもっと時間が(そしてお金が)あったらいいな、と思っていることに変わりはありません。それはまあ、事実です。それでも自分の中で文章を書くという行為が何を意味しているのかについて、もう一度考え直す時期に差し掛かっているような気がするのです。

 結局これまでは一種の本能的な予感に従って書いているに過ぎませんでした。まったく書かないで眠って、一日を終えることもできる。というかその方が健康に生きられるかもしれない。でも何かが僕を引き戻す。無理矢理古いノートパソコン(もう11年!)の前に座って、小説なりエッセイなりをなんとか絞り出す・・・。書き終えると大体不満しか残らないけれど、それでも今はこれしかできないんだ、ということが分かっているから、とりあえず我慢する。当面の希望はいつかもっと成長したら、今よりずっと自由になれるはずだ、という予感のようなものでした。そしてそれは今でも変わりません(そう、今この瞬間にも)。

 ただもっと人間的に成長したら、文章そのものもずっと変わってくるはずだ、という予感もまたありました。そしてそれは事実だったと思います。たぶん「今ここを流れている時間をどう捉えるか」ということが重要なのだと思う。最近特にそう感じるようになってきました。これは樋口(ひぐち)一葉を読んだときにも感じたことなのだけれど、結局彼女にしても、ドストエフスキーにしても(あるいはカフカにしても、バルザックにしても・・・)みんな今を生きていたわけです。それぞれの世界で、それぞれの時代で、それぞれの事情の中で、今を生きなければならなかった。そしてその流れ去る「今この瞬間」を把握する一つの手段が小説だったのではないか、と。

 生きることに目的を要求するのはおそらく人間の意識だけです。たぶん動物たちは目的なしに生きていると思う。肉体的な生命力が――それ自体はとても素晴らしいものだと僕は思いますが――彼らを生かしているのです。それはたぶん間違いはないと思う。しかし自分に関しては、やはり何かを考えないわけにはいかない。そしてその部分が、僕をマジョリティーの流れから抜け出すことを可能にしたのだと思います。あるいは無理矢理連れ去ったといった方が近いか。

 結局安定した職業に就いて、きちんとお金を稼いで、結婚して、子どもをもうけて・・・という一つのオーソドックスな流れは、それなりの必然性を持っているわけです。それ自体が悪いわけでは決してない(まあ当然のことですが)。でも僕はそこだけに自分を委ねるわけにはいかないと悟ったのです。というか身体的な嫌悪感が自分を知らぬ間に満たしていた、というか。行動の一番最終的な目的を、誰かに委ねてはいけない。それが本能の言っていたことでした。そしてその結果、こうしてアルバイト生活をして、小説を書き続ける、という境遇に至ってしまったのです。

 どうして俺はこんなことになってしまったんだろうな、とときどき思わないこともありません。たしかにまわりの普通の29歳のように、きちんと正社員になって働いていれば、もっとまともな生活が送れたはずなのです。でもそれはあくまで経済的なことだけです。精神的には、たぶん今よりもさらに貧しかったと思う。。少なくとも今は自由を目指してはいます。日々そこに向けて努力しようともがいてはいます。だからこそ自分の中の本能的な部分を納得――まあ比較的納得、という意味ですが――させることができているわけです。

 結局それは目に見えないものです。数字でも計れないものです。しかし、にもかかわらず、最も重要なものです。死を抱えながら生きる私たちにとって、本来欠かせないはずのものです。。でもその本質を、僕はまだ掴み取れないでいる。なぜなら僕は常に動き続けているからです。大事なのはそれが固定されていない、ということなのです。

 たぶんこんなことを言っても本当の意味では誰にも理解されないと思う。それでもプライオリティーをそこに置いて生きていくしかないのだ、というのが最近ひしひしと感じ取っていることです。というかまあそれしか道はなかったのだろう、と。

 与えられた意識をどのように使うのかは人それぞれです。別に大して使わなくたって人は生きていけます。働いて、飯を食って、あとはまあ、交通事故に遭わないように注意していればいいのです。でもただ単に生き延びることにどれほどの意義があるのか、という疑問が、そろそろと頭をもたげてくることになります。少なくとも僕の場合はそうです。

 たぶん一定程度そういった「ただ生き延びているだけでは足りないんだ!」という人が存在している方が普通なのだと思います。いろいろなバランス感覚を持って生きているとはいえ、まったく精神の自由を欠いた状態で生き続けることは、きっと苦痛でしかないでしょう。そういった状況は比較的簡単に想像することができます。

 僕はおそらく、自分をもっと一つの「精神」として捉えるべきなのだと思う。目に見える肉体はここにありますが(今日スライサーでキュウリを切っているときについでに親指もスライスしてしまって流血していますが、とりあえず)、あくまでそれは()れ物です。重要なのはその中に流れているものです。この言葉を選んでいるのか。この行動を選び取っているのか。いまだによく分かりません。もちろん生まれてこなければそもそも恐怖を感じる必要もなかったはずです。死を認識することもなかったはずだ。しかし同時に愛を――愛とは何なのか、というのが一番の謎ですが――感じることもできなかったはずです。そう考えると人間存在というのは非常に奇妙なものです。どうして自分が明治時代ではなく、この21世紀に生きているんだろう、と本気で不思議な気持ちになったりもします。あるいはもっと別の時代でもよかったんではないだろうか、と。それでも今ここに時間が流れている。そしてその事実をこうして把握できる。そのこと自体に感謝すべきなのでしょう。僕はここから何かを抜き取らないといけないはずです。そういった予感がひしひしとあります。ただ無為に時を過ごして、傍観者のままで人生を終えるわけにはいかないのです。そういった流れに、何かに連れてこられてしまったのです。だからこそこうして夜中に文章を書いているのです。

 自分とは何なのか? この人生とは一体何なのか? というのがこれからの僕にとっての大いなる疑問になりそうです。果たして神は存在するのか? もししないとしたら、我々は何を規範に生きればいいのか? モラルとは本当はどういったものなのか?

 まあ言い出すと切りがないですが、要するに興味があるのはそういったことたちです。あるいは過去の作品に、最近より関心を惹かれているのもそのせいなのかもしれません。これまでは彼らは――というのはその作者たちですが――歴史上の、ただ単に立派な作家、というだけのことでした。でも今ではなんというか、隣で生きている、生まれた時代が違っただけの生身の人間という感じがしています。いつの時代でも本当のモラリティーというのは、常に動き続けているものだったのだと思います。きっとだからこそきちんとした文章で捉えられたそれは、一種の普遍性を持っているのでしょう。そういう観点でいうと小説という形態はいまだに謎を含んでいます。それは直線的なロジックを排除することによって、矛盾を包含することができるからです。人間がこの世を生きるという行為には、常に矛盾がつきまとうものなのかもしれません。ドストエフスキーを読んでいると特にそれを感じることになります。

 おそらく人間の精神というものは、我々が思っているよりもずっと多くのものを内部に含んでいます。夢が一種のヒントを与えてくれます。それは動き続けているがゆえに、一つの物語としてイメージを――イメージたちを――表出します。その組み合わせは、一見脈絡のないものです。少なくとも僕の夢においてはそうです。しかしそのつながりの中に――あるいはつながりのの中に――何か大事なものが含まれているのでしょう。それがそのような形式を取らなければならなかった必然性のようなものです。あるいはそれは一種の狂気かもしれない。あるいは別の観点からいえば、もっとずっと価値を持ったものかもしれない・・・。

 いずれにせよ、小説家の役割は意図的にそこに降りていって、こちらの領域に夢を持ってくることにあります。というかまあ最近僕はそう思い始めています。頭で作った文章は結局はどこにも行きませんが――それは小さい枠組みの中で完結してしまっている。その分理解しやすいが、奥行きといったものは存在しない――十分な深さを持った文章は、それなりの広がりを持つことになります。本人でさえ意図しなかったような広がりです。僕が目指しているのはたぶんそこなのだと思う。もちろんそんなことしなくたっていいわけだけど――ほとんどの人はそんな面倒なことはやらない――それでも僕はやならければいけないんだ、という本能的な予感のようなものを感じ取っています。なぜか? おそらくそこにこそ精神の自由というものが潜んでいるからです。

 意識というものは不思議なもので、目に見えません。でも確実にそこにあることは分かる。ある人間を見たときに、我々は彼――あるいは彼女――の肉体を見ます。それはおそらくごく普通のことです。でもその人物は――死体でない限り――常に動き続けているものでしょう。その奥に潜んでいるのは何か、と僕は思うのです。その言葉を選んでいるのは誰なのか、と。そう考えると、そこにいるのは透明な何かだ、としか言いようがないような気がするのです。結局意識とは身体的な感覚の総体だと言えるのかもしれません。でもだからといって、何かがすべて説明されるわけでもない。科学的に把握できるのは、あくまで外面的なところまでです。主観的な世界については、我々は自らの力でもって把握しないといけない。少なくとも何かを理解したければ、ということですが。

 まあこんなことをくどくどと述べたところで何かが理解できるというわけでもないのですが、最近こういうことを考えています。まったく。そしてそれは、僕の人生にとってなかなか重要な意味を持つことであるような気がしているのです。今までここにこうして世界が存在し、こうしてここに自分が生きていることは当たり前だと思っていました。でもちょっと待てよ。本当はそうじゃないかもしれないぞ。明日がちゃんとやって来るなんて一体誰に分かるんだ? どうして5年後も自分が生きているなんて、そんなに簡単に断言できるんだ? 過去は本当に過去だったのだろうか? それは誰かが作った、一つの物語に過ぎなかったのではないだろうか?

 まあいずれにせよ、人間とは不思議なものなのだ、ということです。そしてその「不思議さ」を探求する一つの手段が文章なのではないか、と。そして小説。それは総体として、どこかとつながることを可能にしてくれます。頭だけで理解されたものではない、身体的な何か。通り抜けるという行為に付随する、フィジカルな感覚。。進むべき道筋はまだはっきりとは見えてこないけれど、大体この辺なんだな、ということは感じ取れるようになってきました。僕はたぶん、自分の感覚だけを頼りに前に進んでいかなくてはならないのでしょう。そういったstruggle(苦闘)の先に、あるいは何かが見えてくるかもしれません。今度何か分かったら、また報告します。それでは。

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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