さて二月

 さて、二月も中旬になりましたが皆様はいかがお過ごしでしょうか? 僕は相変わらず似たような日々を送っています。アルバイトをして、走って(週に四日ほどに減らしていますが)、筋トレをして、料理を作って、それを食べて、あとは小説を書きます。お正月以降に、四百字詰原稿用紙289枚のものを仕上げ、ある文学賞に応募してきました(賞取れればいいのにな・・・)。それでまた一週間ほど前からまた新たな作品に取り掛かっております。

 それはそれとして昨日の夜には結構大きな地震がありました。皆様はご無事でしたでしょうか? 僕の実家のある宮城県北部もなかなか揺れたみたいです。なんだか震災から十年も経っているのに、いざ揺れ始めると、当時の記憶が鮮明に――というほどでもないですがそこそこ鮮明に――蘇ってくるというところがあります。地震は何度経験してもなかなか怖いですね。

 ということで今日はバレンタインデーなのですが――どのような観点から見ても僕には関係ないのですが――こうして一人でエッセイを書いています。午前中に長い距離を走り、たまに掃除機をかけて、布団を干し、昼寝をして・・・文章を書く。一週間に一度しかない休日がどんどん過ぎ去っていきます。まったく。一体いつになったらもっと自由な時間が得られるんだ、といつも思っています。でもまあ仕方あるまい。今はこの経験から何かを学び取る時期なのでしょう。なんとかそう思って頑張っています。

 まあそういう観点からいうと、一体何に優先順位を置くのか、というのは結構重要な問題になってくるみたいです。年を取るにつれて、その辺のバランス感覚というのは必須になってくる、となぜか最近感じています。やらなければならないことは多い。生きるということは雑務の連続でもあります。それでも中心に何かを持っていれば、それほど疲れきってしまうことはないのではないか? たとえそれがどれほど馬鹿らしく見えたとしても、です。

 まあ要するにほとんどの人は小説なんか書かないで生きているわけです。わざわざそんなことをする必要もない。どうして夜中にひとりでうなりながら文章の続きを考えなければならないのか? ネット上にアップすればバッシングを受けるリスクだってある(きっと暇なんですね)。時間も労力も取られる。文学賞なんていくつ出してもさっぱり取れない・・・。

 それでも自分の中に書かなければならない、というフィジカルな実感があるから僕は書いているわけです。まったく。それはある意味で義務だともいえるし――まあ個人的な義務です――ある意味では一種の特殊な楽しみだともいえる。だって誰もがそういった衝動を感じるわけではないのだから。視点を変えればものごとは違って見えてきます。俺はむしろ幸運なんだと思うべきなのかもしれませんね。なにしろ書くべきことが自分の中に眠っているのだから。

 いずれにせよ去年の今頃から「とにかく余計なことはしないで書くという行為に意識を集中しよう」と決意して生きてきました。まあちょうどコロナの騒ぎもあって、特にどこにも出かけずに、ひたすら同じような日々を過ごしてきました。アルバイト中もなんとか気持ちを切らさずに、これは自分の成長のために必要な経験なんだ、と自分に言い聞かせてきました。そしてそれはあながち間違った姿勢ではなかったと思います。というのもそこには継続性というものが生まれてくるからです(働いているときの自分と、書いているときの自分)。結局文章というものは、そのときの自分の在り方を映す鏡のようなものであるわけです。筆跡と一緒で、ごまかしというものが利きません。おそらく一文読んだだけで、分かる人にはすぐに分かってしまうのです。ああ、この人はこのようなレベルで生きているのだな、と。

 実はそれと似たようなことをミュージシャンの細野晴臣はるおみさんもずいぶん昔のラジオで語っていました(You Tubeにアップされていました)。音楽ってのは最初の一小節を聴いただけで、その人が何を思っているのか分かっちゃうんだよ、と。うーん。そうなるとなかなか難しいですね。何が難しいのか、というと、人間として変わるという行為にはやはり時間がかかるということです。でもにもかかわらず時間さえかければいいというものでもない。僕は細野さんの歌声がとても好きなのですが――気張っていないところ、格好付けていないところがとても好感が持てるのです――そこにももちろん細野さんの生き方のようなものが滲み出ています。だとすると自分は一体どうなんだろう、というのが目下の問題になってくるわけですが・・・それについてはなかなか自分では把握できない、というのが正直なところです。

 このようなエッセイならまあ比較的簡単にすらすらと書けるわけですが、そこにももちろんの僕というものが滲み出ているはずです。まったく。しかしまあ、あきらめてとりあえずあるものでやっていくしかありません。なにしろほとんど伸びしろない、というのが僕の唯一の取り柄なのですから。一つ一つステップを踏んで、なんとか前進していくしかない。

 それでも自分の中の優先順位のようなものが少しずつ下に下りてきた、という感覚があることも事実です。下に下りれば下りるほど目には見えなくなってきます。理解してくれる人もきっと少なくなってくる。でもそこにこそ何かがあるはずだと信じています。というかまあ信じようとして日々を生きています。

 僕は今年三十になるわけですが、五年前にはこんなことは想像もできませんでした。とにかく日々を生き延びるだけで精一杯だったからです。まああとはさすがに三十になったらもっと立派になっているだろう、という希望的観測を抱いていたことも事実です。しかし、実際にいるのは当時とさほど変わらない僕自身です。でもまあ、多少はタフになったのではないか、とも思います。まだまだだけど、ちょっとは。

 ということでまた小説に戻ります。最近はちょくちょくとまたフィッツジェラルドの短編を読み返しています。『バビロンに帰る』とか、『結婚パーティー』とか。彼は人間の心が抱える哀しみというものを、とても見事に文章で表現します。そこには彼にしかかもし出せない特別な感情の震えがあります。しかし、にもかかわらず、僕らはそれを読んで共感を抱くことになる。生身の人間として生きるということは生半可なことではないのだな、と一人の人間として実感することになります。それでもそこには哀しみだけがあるわけではありません。真実を認識することによってのみ得られる、一種の解放感というのかな。すっと風が抜けていく感じ。そういった感覚を僕は得ます。一応原文でもいくつか持ってはいるのだけれど、数年前はあまりよく理解できなかった。でも今読むと、一つ一つの細かい文章の揺れが、とてもしっくりと心のある種のひだに入り込んできます。ああ、この人はこういうことを書いていたんだな、と――少しは――理解できるようになりました。まあこれも年を取ったことの効用かな。

 最近も毎朝BBCのポッドキャストを聴いて朝食の準備をしたり、洗濯物を干したりしています。世界はなかなか大変みたいです。ミャンマーでは軍部によるクーデターが起こりましたし、コロナウィルスはまだまだ猛威を振るっています(変異ウィルスが危険ですね・・・)。アメリカでは人々の分断がさらに深まっているみたいです。それでもまあ、個人としてのレベルで見れば、やれることにさほどの変わりはありません。そしていつも思うのですが、結局のところ一人ひとりが自分の人生をきちんと生きるということの中にこそ、様々なコンフリクト(争い・紛争)の解決の種が潜んでいるのではないか。前からそう思っていますし、今でもそう思っています。人間暇になるとあまりまともなことを考えなくなるみたいです。それはまあ、僕も例外ではありません。ということで忙しく手を動かすことにします。それでは。

カバーの夕暮れの写真が素敵です・・・。
村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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