久しぶりに地元の同級生に会った。かなり気分が悪かったから「会わない」っていう選択肢もあったんだけど、結局会った。実際会ってよかったと思う。ちょっと噛み合わないところもあったけど、まあ少しは気持ちが楽になったから。
そいつとは群馬の外れの町で中学・高校とずっと一緒だった。ほかにも何人かメンバーがいて、そいつらといつもつるんでいた。よく悪さもやった。警察の厄介にもなったことがある。俺は自動車整備士の学校に行って、そのあと東京に出てきた。そいつは埼玉に最初就職して、それから結婚して地元に戻ったらしい。少なくとも本人はそう言っていた。
「三十五歳になったなんて信じられないよな?」とそいつはビールを飲みながら言った(腹がぽっこりと膨らんでいる)。「うん、美味い。高校の頃なんてつい昨日みたいな感じがするのに」
「本当にな」と俺は言った。「みんなで馬鹿なことやった」
「本当だよ」とそいつは言う。「それに比べりゃ今の子なんて大人しいもんさ」
「今回は? 仕事で?」
「まあな。つまりほら、こっちに本社があるんだよ。あんまりないんだけどね、呼ばれることはさ。まあでもいい機会だから電話してみようと思ったわけさ」
「都心に来るのは久しぶりなんだけどね」と俺は言った。「俺ん家ってほら、東京の外れだから」
「そうか、悪かったね。こんなところまで」
「いや、いいんだ。俺も話したかった」
俺たちは新宿の居酒屋の個室にいる。大声で騒いでいるやつらの声が聞こえる。若い女も混ざったグループ。店員がバタバタと動き回っている。誰かがビールをくれと叫んでいた。俺たちは刺身を食いながらいろんな話をしている。彼はいろんな同級生たちの最近の状況を知っていた。
「ほら、あいつ。オカベ。名古屋で働いているって」
「ふうん」
「あとナカムラ。あいつは前橋にいる。不動産屋で働いてる。この間結婚した」
「そうか」
「ミサキちゃんいただろ? あの可愛かった子? 東京行って結婚したけど、離婚して、戻ってきてる」
「どうしてそんなに詳しいんだ?」
「俺のお袋がおしゃべり好きでね。交友関係も広いから、いろんなところから情報が集まってくる」
「なるほど」
「お前んところは……その……ああ、残念だったな。妹さん」
「まあ」と俺は言う。妹が死んだのはもう六年も前のことだ。俺はそれ以来地元には帰っていない。
「葬儀もほら、近親者だけだったんだろ?」
「そうだな」と俺は言う。そしてサーモンを食べる。ビールを飲む。「実はその前に一回入院していたんだよ。二ヶ月くらいかな。んで、戻ってきた。もうよくなったと思ったんだ。だけどそうなっていなかった。一ヶ月後に自殺した。手首と頸動脈切ってね。風呂場でさ。血だらけだったって」
「誰が……最初に?」
「母親がね」と俺は言う。母親。「そのあと連絡が来た。まあもう死んじまっていたんだけど」
「その、ああ、なんて言ったらいいか……」
「まあ仕方ない。自分で選んだことだ」。本当にそうだろうか、と俺は思っている。内心。
「なんというか……前々から……病気だった?」
「たぶんね」と俺は言う。「俺はほとんど帰っていなかったからさ。つまり、東京に来てからは。妹とも全然話していなかった。でも聞くところによれば……うん、鬱病とか、そんな感じだったらしい。一回睡眠薬大量に飲んで、死のうとした。それで入院したんだよ」
「そうか」
「こんな話やめようぜ」
「悪かった。もう一杯飲む?」
「次はハイボールで」
「俺もそうしよう」
ハイボールが運ばれてくる。すぐ隣の個室で甲高い声の女が――おそらくは――前の彼氏の悪口を言いまくっていた。みんなそれを聞いて笑う。「とことん馬鹿だったの。もう救いようもないくらい」
俺はハイボールを飲む。
「あ、そういえばさ」と彼は言った。「あいつ、覚えてる? 絵ばっかり描いていたやつ」
「そんなやついたっけ?」
「いたよ。中学のときの同級生。最後の方は休みがちだったけどさ、アマノってやつ。髪が長くて、暗くてさ、でもよくヘラヘラ笑ってた」
「ああ、いた……かもしれない」と俺は言う。
「みんなでよく遊んだ。あいつもグループの中にいたような気がする。たまには、だけど」
「かなり大人しいやつだよな?」
「そうそう。それでさ……そいつが今前橋市内で個展を開いてる」
「個展?」
「つまり絵の個展だよ。すげえよ。画家になってんの。まあ群馬以外で有名なのかどうかは分からんけどさ、母親が教えてくれた。地元の新聞でインタビューされていたってさ」
「そうか」と俺は言う。アマノ。個展。
「暇があったらネットで調べてみなよ。ちょっと絵が載ってたから。まあ俺はそっちの方はまったく理解できないがね。でも良い絵だったよ。たぶん俺たちが知ってる景色。山とか、川とか、十字路とか」
「十字路ってどこの?」
「あの公民館があってさ、自販機があって、奥に行くと橋でさ……」
「ああ、分かったよ。お前ん家の近くだよな」
「そうそう。あそこの絵とかがある。ほかにもお地蔵さんとかさ。中学校の脇の桜の木とかさ。そういうの。ま、そういう同級生もいるってことだ。ほかには……そうだな、ナカタは逮捕されていた」
「逮捕?」
「うん。あいつ高校教師になったけど、盗撮で逮捕された。何ヶ月か前だけどさ。馬鹿だよな」
「ナカタってバスケ部だったよな?」
「違うよ、剣道部だよ。ひょろっとした眼鏡のやつ」
「ああ、思い出したよ」
「バスケ部のはタナカだ。あの坊主だった」
「そうそう」
「そんでお前は?」とハイボールを飲んだあとで彼が訊く。「順調かい? いろいろ?」
「順調じゃないね。正直なところ」と俺は言った。そして妻を殴って離婚したことを話した。子供は今三歳だが、妻が引き取った。養育費を払っている。面会は拒否されているわけではないが、行く気にはならないこと。
「でもなんで殴った?」と彼は訊く。
「酒を飲んでいた」と俺は言った。「そんでギャアギャア騒いできやがった。不倫してるってさ」
「不倫してたのか?」
「まあ、ちょっとね」と俺は認める。「風呂に入っているときにスマホを見られたんだよ。まったくね。そんで二回殴った。蹴りも入れたかな。鼻血が出た。子供が起きて、泣いていた。実家に帰るとあいつは言った。そんで、帰った」
「そうか」
「まあ、そうだな」と俺は言った。「実際それまでもさ、結構ひどい喧嘩してたんだよ。どうでもいいようなことでさ。手は出さなかったんだが」
「うん」
「でもそのときは歯止めが効かなかった」
「どうして?」
「どうしてだろうな……でもとにかく効かなかった。これじゃあ親父と――二番目の親父と――一緒だな、と思ったよ。でも止められなかった。幸い被害届は出されなかった。どうやら病院にも行かなかったみたいだ。だから俺は逮捕されてない」
彼は無言でハイボールを飲み干した。
「もう一杯?」と俺は訊く。
彼は頷いた。俺がタブレットを操作して、注文する。彼はまた同じものでいいと言った。
「仕事は?」
「相変わらず同じことやってる」と俺は言った。「車の整備士。でもだんだん嫌になりつつある。ときどき朝起きるのが辛い。このまま死んじまおうかと思う」
「その……やっぱり離婚が?」
「いや、これは実は結構前からだ。子供が生まれる前からかもしれない。俺なんかいなくても世界はきちんと回っていくんだよなあって思う。そして実際にそうなんだよ。俺がいなくても妻と子供は生きていけるさ。どうせそろそろ次の旦那が見つかる頃だろう。というかもっと前から目星は付けていたのかもしれないけどさ。あいつのことだから」
「それは……」
「悪いね。こんな話」と俺は言う。そしてイカを食べる。「まあとにかくさ、生きてはいる。それが大事だ。仕事もね、それなりに頼りにされてる。それはそれで……まあ、悪くない。職場に行ってしまえばね。やるしかないし」
「そうだな」と彼は言った。
帰りの電車の中でアマノの絵のことを調べてみた。たしかに記事が出てきた。地元の新聞のインタビュー。髪を短くしているせいで、昔の印象はあまり残っていなかった。それでも中盤に少しうつむいている角度の写真があって、それが俺の記憶の中のアマノとよく似ていた。そう、こんな感じでうつむいていたっけ。あとは……うん、たしか隅の方でイケてないやつらとおしゃべりをしていたような……。
彼の絵はたしかに素晴らしかった。上手いのだが、「上手い」というだけではなくて、何か心の奥にグッと入り込んでくるような凄みがあった。現実よりも現実に近い、そんな感じだろうか、と俺は思う。実際この景色は――山は、川は、木は、野花は――俺の夢にしょっちゅう出てくる光景だった。もっとも夢の中では必ず何かがおかしくなっている。山は崩れ、川は淀み、木は枯れ、野花はどぎつい色に染まっていたりする。俺は行き場もなく彷徨っている……。
アマノは中学校時代にいじめられていたと答えていた。いじめられていた? と俺は思う。でもよく分からない。あいつはいつもヘラヘラ笑っていたじゃないか? それなりに楽しそうに?
「不良グループに目をつけられて、よくお金をせびられた」「女子の前で突然ズボンを下ろされた」「偽のラブレターが置いてあって、騙されて空き教室に行ったら、そのグループの面々が大笑いしていた」「家に石を投げられた」「川に落とされた」……。
本当にひどい、と思う。でももっとひどいのはその中心人物が俺だった、ということだ。俺はあのときあいつは楽しんでいるんだと思っていた。いや、違うぞ、と今になって思う。俺はちゃんとあいつが苦痛を感じてるってことを知っていたんだ。それを分かった上でやっていた。偽のラブレター。あれを考案したのは俺だ。女子に頼んで書いてもらって、あいつの下駄箱に入れておいた。そしてみんなで待ち伏せした。今の今までそんなことは忘れていた……。
昔のことだ、と俺は思おうとする。大したことじゃない。骨を折ったわけでもないし、金をせびったって……きっと数百円だろう? 川に落としたのも遊んでいる最中のことだ。でも俺たちはずぶ濡れのあいつを置いたまま帰ったんだった。今その記憶が蘇ってくる……。
嫌な気分だった。吐き気がした。でもよく考えてみろ、と俺は思っている。あの頃俺だってひどい生活を送っていた。実の父親はどこにいるのか分からなかった。二番目の父親はアル中で、嫌な目付きをしていた。ドロッとした目付きだ。あいつは怒りたいことがあるから怒るんじゃなくて、ただ怒りたいから怒っていたんだ。母親も殴られた。俺も殴られた。妹は隅の方で大人しくしていた。妹。
大体母親がおかしいんだ、と俺は思う。あいつがもう少しまともだったら俺だって……。アマノはインタビューでその経験のせいで人を信じられなくなってしまった、と言っていた。卒業式にも出なかった、と(俺は完全にそのことを忘れていた)。高校もすぐに辞めてしまって、しばらく引きこもっていたのだが、やがて通信制の高校を出て、本格的に絵を描き始める。それでも絶望との闘いだったと彼は言っていた。自分を信じることができないのだ、と。いろんな賞に送ったが、個性的すぎて理解されなかった。単純に技術だけでいえば彼よりも上手い人はたくさんいた。でもだんだんネット上で話題になり、買い手も出てきた。今ではなかなかの価格で購入されている、とのことだった。前橋のあとは大宮で個展をやると書いてあった。最後に写っている彼の顔は恥ずかしそうだったが、それでも自信が滲み出ていた。俺はその記事を閉じた。
今さら立派な人間になれるわけじゃない。それはよく分かってる。はっきりいって高校のときの方がもっと悪いことをしていた。自転車を盗んで警察に捕まったし、タバコを吸って停学にもなった。あそこでも誰かをいじめていたと思う(もはや誰だったのか覚えてもいないのだが)。動きがトロいやつとか、ガリ勉君とか、自分より弱そうなやつはみんな攻撃の対象だった。高校にもなると親父にも少し対抗できるようになってきて、何回か殴り合いの喧嘩をした。「いったい誰が養ってやっていると思ってんだ」とあいつは言った。「うっせえよボケ」と俺は言った。妹はやっぱり隅の見えないところに避難していた。
高二のときにようやく母親が離婚して、じいちゃん家 に移った。じいちゃんと母親はかなり険悪な仲だったのだが――どうも最初の結婚のときに反対されて、絶縁状態だったらしい――頭を下げて戻ったわけだ。学校がかなり遠くなっちまって、俺は原付で通うようになった。もっともサボッて街にいるときの方が多かったけれど。
二番目の親父(それは妹の実の父親でもある)から離れられたのはよかったけど、じいちゃんがまた一筋縄ではいかない人だった。「超」が付くほどの頑固者で、母親と喧嘩ばかりしていた。ばあちゃんは優しかったけど、すぐに認知症になってしまった。ほっつき歩いて帰れなくなったり――俺が原付で探しにいったこともあった――おしっこを漏らしたりするようになった。でも俺はばあちゃんが一番好きだったな。あの顔を見るとなんだかホッとした。俺が高校を出て、専門学校に行っている頃にはもうほとんど「寝たきり」みたいになってしまったけれど。
ばあちゃんは俺が東京に来て五年目に死んでしまった。最後には自分が誰かもよく分からなくなっていたみたいだ。東京に行くことはじいちゃんにも母親にも反対されたけど、俺としては群馬に残るつもりはなかった。あの町が嫌いなんじゃない。家族から離れたかっただけだ。
妹は母親の言いなりみたいになっていた。俺たちは正直長年あまりいい関係じゃなかった。つまり二番目の親父が明らかに俺と妹とで態度を変えていたからだ。妹はあいつの実の子供だった。だからだいぶ可愛がっていた。俺との間にはいつも壁があった。プラス、あいつは朝から晩まで威張っていた。なんでこいつはこんなに偉そうにしているんだろう、と俺は思っていた。
偉そうなのはじいちゃんも一緒だった。地元の建設会社の重役を務めたあとで、その頃には引退していたんだが、なんでも自分のやり方で通そうとした。ばあちゃんはずっとそれに従って生きてきたわけだ。男尊女卑っていうか。母親はそれに反抗して、若くして家を出た。そんで俺を出産した。そのあとで俺の親父はどこかに消えた。詳しくは聞いてないけど、どうもそんなところらしい。
母親はすぐに次の男を見つけた。それがあいつだったってわけだ。仕事はちゃんとしたが、とにかく押し付けがましかった。誰のために稼いでいると思ってんだ、っていつも言っていた。あいつが飲み会とかで帰ってこない日はすごくホッとした。もっとも母親は家でずっとあいつの悪口ばかり言っていたんだが。
俺はリラックスできる場所を知らなかった。生まれてから一度も、だ。だから常に身体に力が入っているんだと思う。いまだにそうだ。実は妹もそうだったんじゃないか、と俺は思っている。親父から殴られない分、あいつは母親の支配下にあった。着るものも食べるものも行く学校も全部母親が決めた。あいつは俺と違っていつもおどおどしていたから、たぶん学校でもいじめられていたはずだ。一度小学生の頃にランドセルをいっぱい持たされているのを見たことがある。そう、あいつはちょうどアマノと同じようなヘラヘラした笑いを浮かべていた。自分を守るための笑いだ。本当は楽しくなんかない。でもそれ以上いじめられないようにするために、ああいった表情を浮かべないわけにはいかなかったんだ。
でもその頃中学生だった俺は情けないと思っていた。だから助けなかった。ああいう顔をしていたらずっといじめられ続ける。嫌ならいじめる側に回るしかない。たぶんそう思っていたんだと思う。
妹は一浪したあとに看護師の学校に行った。母親がそうした方がいいと言ったからだ。でも途中で心を病んで、一年休学して……なんとか卒業した。そのあとで地元の病院に就職した。ばあちゃんの法事のときにあいつに話をしたことを覚えている。それでいいのか? と。今出なかったらずっと母親の言いなりだぞと。
「私はお兄ちゃんみたいに強くないから」と例の笑いを浮かべながら彼女は言った。俺は何も言わなかった。好きにしろと思っていたんだ。
それでもその数年後に自殺未遂をして入院した。母親から電話がかかってきて、何やら喚いていた。俺はなんとかそこから状況を整理した。数日経ってから妹に電話をかけた。妹はすごく小さな声で応答した。「ちょっとほかの患者さんもいるから」と。
「悪いな」と俺は言った。一度切るね、と彼女は言って、少ししてかけ直してきた。
「もしもし?」
「もしもし」と俺は言った。「大丈夫か? 今?」
「うん。ロビーに来たから、大丈夫」
「その……つまり……」
「ごめんね。心配させちゃって。たぶんお母さんは大袈裟に伝えたんでしょ」
「『生きるか死ぬかの境を彷徨っていた』って」
「そんなことも……ないけど……」
「そんなにきつかったのか?」
無言。
「あのさ、余計なお世話かもしれないけどさ」
「うん」と彼女は言った。
「母ちゃんは良くも悪くも強烈なんだよ。それで……聞いてる?」
「うん。聞いてるよ」と彼女は言った。
「俺は離れた方がいいと思う。できるだけ早くさ」
「うん」
「あいつはお前に寄りかかってるし、お前はあいつに寄りかかってる。それって……たぶん良いことじゃない。偉そうなこと言える立場にないけどさ。そう思うよ。本当に」
「……うん」
「本当は看護師嫌なんじゃないの?」
「どう……かな?」
「じいちゃんもうるさいんだろ? きっと?」
「まあ……昔と変わらず、だけどね」
「なんというかさ……自分をゴミみたいに扱っちゃダメだよ。俺たち……そういう傾向がある」
「お兄ちゃんも?」
「たぶんね」と俺は言った。「すげえ深い闇の夢を見ることがある」
「闇?」
「そう。闇だよ。それが上にあってさ、どんどんそこに吸い込まれていくんだ。落ちていくんじゃない。上に行くんだよ。そういう夢。ずっと、ずっと止まらないんだ。掴まる場所もない。光もない。音もない。匂いもない。何もない。永遠に吸い込まれていく。そういう夢」
「うん」
「でもハッと目覚めると、少し落ち着く。いいか? 俺って東京でひどい生活を送ってる。パチンコして酒飲んで女と会って……でも、それでもあの夢よりはましだよなって思う。だから……」
「うん」と彼女は言った。「ありがと」
「なあ、離れるんだよ。あいつから」
「うん。考えておくね」
「じゃあ、元気でな。もうやるなよ」
「オーケー。大丈夫。じゃあ」
「じゃあ」
でも俺はちゃんと知っていたし、妹だってちゃんと知っていたのだが、あの二人は離れられっこなかったんだ。何か心の弱い部分で結び付いていた。そしてお互いがお互いの自由を奪い合っていた。彼女が死んだ夜、俺は夜中にハッと目覚めた。全身から嫌な臭いのする汗をかいていた。まさかな、と思う。俺はその予感を信じたくなかった。だからウィスキーを飲んで、寝てしまった。起きたとき、なぜか身体が軽くなっていた。顔を洗って、飯を食っているときに、母親から電話がかかってきた。前よりもさらに取り乱していた。その時点では確定はしていなかったんだが、そのあとでまた電話がかかってきた。今度こそ死んだ、とのことだった。血がたくさん出ていた。まだ二十六歳だった。二十六。
群馬に帰って、葬式に出た。母親は泣いていたけど、俺は泣かなかった(じいちゃんも泣いていなかった)。「私は不幸な母親なんだ」、というあいつの態度が気に食わなかった。結局「娘のことを考えている」という顔をしながら、本当はずっとあいつのことを利用していたんだ、と俺は思っている。彼女はずっと何かから逃げていた。その逃げているものから目を背けるために、常に娘を必要としていたんだ、と。
でもなんだか憐れになってきた。母親もそうだし、じいちゃんもそうだ(じいちゃんは自殺したと近所の人に知られるのが嫌で仕方なかったらしい)。こいつら人間としてそんなに立派な部類でもないんだ、と俺は思っている。もちろんそんなことを考えている俺自身もそうなのだが。
ばあちゃんと妹が死んじまって、俺には帰る理由がなくなってしまった。母親からちょくちょく電話は来ていたんだが、ずっと無視していたらだんだん来なくなった。俺はその少しあとに結婚した。娘も生まれた。母親には何も言わなかった。じいちゃんにもだ。俺はあいつらとは関係のない場所で、新しい生活を作るんだ、と思っていた。
でもそれも上手くいかなかった。俺自身のせいではあるんだが、なんだかあいつらの「呪い」も入っているような気がする。呪い。ときどき幸せそうにしている親子を見ると不思議な気分になる。どうしてそんな笑顔を浮かべられるんだ? と。生きることの何がそんなに楽しいんだ? と。
それでも俺は生きてる。たぶん妹よりは強いんだろうな、という気がする。俺はあのヘラヘラ笑いが嫌いだし、誰かの言いなりになったりもしない。そんなことをしていたら一生奴隷みたいな扱いを受けることは目に見えているからだ。でもアマノ……。
なぜかあいつの絵が――そしてうつむいているあの写真が――頭に残り続けていた。その一週間ずっと落ち着かなかった。そのせいで何度か単純なミスをした。幸い後輩が気付いてくれたからよかったけど、そうじゃなかったら大変なことになっていた。
「どうしたんすか? 最近?」とそいつは言った。
「分かんねぇ。悪い。たぶん……ちょっと疲れているんだと思う」と俺は言った。
アマノに会いに行くしかないのかもしれない、と俺は思う。個展に本人が来るのかどうかは知らないけれど、とにかくその土日が最後らしかった。あまり大きくない会場だ。俺も一度も行ったことがない。実家に帰る気にはなれなかったけれど――俺はたぶんまだ母親を許していなかった――その会場だけならまあ耐えられるかもしれない。駄目だったらすぐに帰ってくればいいんだ。前橋。
圏央道・関越道経由で車に乗って行くことにした。もちろん新幹線の方が速いんだが、なぜか車で行きたかった。好きな音楽を聴けるというのもあるし、なぜか落ち着く。土曜の午前に出発して、一時過ぎには着いた。こうやって遠出するのは久しぶりだった。途中煽ってくる馬鹿がいたが、先に行かせてやった。好きにすればいい。俺は別に急がない……。
街が見えてくると、いろんな記憶が蘇ってくる。正直に言ってあまり良い気分じゃない。目に付いたファミレスに行って昼飯を食った。コーヒーを飲んで、タバコを吸う。店内は結構混んでいた。正直知り合いに会いそうな気がして、落ち着かない。会ったって別に構わないんだけど、もしかしたらそいつは俺がいじめた相手かもしれない。でも俺だってひどい生活を送っていた。ああするしか仕方がなかったんだ。あのときは……。
ギャラリーは五時に閉まるらしい。俺はファミレスを出て、近くのコインパーキングに車を停めた。少し歩く。秋の乾いた風がスッと通り抜けていった……と、すぐに着いてしまう。意外に立派な建物だった。入口のガラス戸に、俺自身の姿が反射していた。三十五歳、バツイチ、独身、自動車整備士。あまり……健康そうには見えない。俺はそいつの顔を見ていた。何人かほかにも歩いている人たちがいたが、ギャラリーには見向きもしなかった。俺は正直すごく緊張している。心臓がドキドキと高鳴っているのが分かる。やっぱりやめよう、と思って、二回ほど入口の前を通り過ぎた。だけどやっぱり戻ってきた。いや、行こう。三十五にもなってビビッている場合じゃない。ほら。
階段を上って、二階に行った。そこが会場になっていた。客は見たところ三人しかいない。入り口に奴のプロフィールと画集が置いてあった。俺はそれをパラパラとめくった。七十くらいのばあさんとたぶんその娘が絵を熱心に見ていた。コソコソとおしゃべりをしている。もう一人は太った白髪の男だった。俺は画集を閉じ、先に進む。入場は無料。比較的小さい絵がたくさん飾られていた。人物画もあったが、風景画の方が多かった。「ものすごく上手い」ってわけでもないけど、タッチが独特だった。ド素人の俺にもそれが分かる。顔のない男の絵。腕が機械になっている女の絵。そして……そう、俺たちが育ったあの町の絵。どんどん見ていく。奥には俺が知らない街の絵がたくさんあった。港、橋、ビル、河原、十字路 。十字路。
その絵の前で止まる。実際にそこにあったもの、というよりは、俺たちの記憶の中にあったもの、という感じがする。俺にはそれが分かった。光の加減が、本物とはちょっと違っている。建物や電柱がほんの少し歪んでいたが、それはまさに俺が見ていた通りの景色だった。中学生の頃の景色。俺はこれを見ていた。奴もまた同じ景色を見ていたんだな、と俺は思う。
そのとき隣に一人の男が立った。少し猫背の、大人しそうな中肉中背の男……。アマノだ、とすぐに気付く。彼は俺の隣でその絵を見つめていた。たぶん俺には気付いていない。脇の下から汗が垂れてくる。それが分かる。
「僕の……家の近くの絵です」とアマノは言った。「ここがなぜか好きなんですよ。夢にも出てくる」
「夢?」と俺は言う。
「ええ、夢です。中学校の同級生たちとここに来るんですが、みんなそれぞれ別の方向に行ってしまうんです。東西南北、ね。僕だけが真ん中に取り残されている。僕はどこに行ったらいいのか分からないんです。それで、そのときね、ドクン、っていう鼓動が聞こえる。でもそれは僕の鼓動じゃなくて、誰かほかの人の鼓動なんです。そのとき影ができていないことに気付く」
「影」と俺は言う。
「ええ。それで、僕はすごく幸福になるんです。ふわふわと浮かんで……。でもハッと思うんです。もしこのまま浮いていったら死んでしまうぞ、ってね。それでなんとか地面に下りようとするんですが……下りられない。どんどん上に上がっていくんです。見ると光がなくなっている。空は真っ暗で……急速にそこに吸い込まれていきます。救いのない気分です。もう幸福じゃない。そこで……ハッと目が覚めます。そういう夢です。僕はまず電気を点けて、自分に影ができていることをたしかめます。そうしないと落ち着かないんです。変でしょ? これって?」
「あの、アマノ……」と俺は彼の目をまっすぐ見ながら言う。彼の目は怪訝そうに細められ、そして一度見開かれた。そのあとでゆっくりと閉じる。また開く。笑みのようなものが浮かぶ。
「ササキ君」と彼は言った。ササキというのは俺の中学校時代の苗字だ。母親が離婚してからは変わった。
「うん」と俺は言って頷いた。「久しぶり」
「久しぶり」と彼は言った。そして手を差し出してきた。
俺はそれを握ろうとして、やめた。「あのさ、記事を見て、東京から来たんだ。車でさ」
「車で?」と彼は自然に手を下ろしながら言う。「わざわざ?」
「うん」と俺は言う。「その……絵、良かったよ。本当に。あの、ごめんな。いや、謝って済むものでもないのかもしれない。でもとにかく謝りたかった」
「何を?」と彼は笑いながら言う。
「いろいろと」と俺は言った。「中学時代のこと。ひどいことをやった。本当に悪かった。全然気持ちを理解していなかった。俺はアホだった。ごめん。本当に」
ほかの客たちがジロジロと俺たちを見ていたが、そんなことは気にしなかった。俺は深々と頭を下げた。
「ねえ、いいよ。そんなこと」と彼は言って、俺の肩を触った。「もう終わったことだよ。全部」
涙が出てきた。止めることができなかった。俺は頭を下げたままでいる。
「顔上げてさ。もう、いいんだ。そんなこと」。なぜアマノも涙声になっていた。「ほら」
「うん」と俺は言った。そして、十字路を見る。

