Live Magic 2018 (3)

Live Magic 2018 (2)の続き

2018年10月21日、日曜日。今日も恵比寿ガーデンプレイスで開催されるLive Magic(二日目)に参加する。素晴らしい天気なのだが、いかんせん前日の夜にコーヒーを飲み過ぎたせいでひどい寝不足である。もっとも原因はそれだけではなくて、宮田氏の部屋に着いてから、昨日経験したことをその日のうちに文章にしてしまおうと思って、夜中までパタパタとキーボードを打ち続けていた。「まったく何をやっているんだろう」という感じだが、せっかくの機会だし、それに文章力の向上にもつながるかと思って、とりあえず書き上げた。楽しんでいただけたら幸いです。

結局4時間くらいしか寝なかった。それもぶつ切りの睡眠をかき合わせてなんとか4時間、というところ。もちろんこんな状態では集中してライブを観ることなんかできない。それはよく分かってはいたのだけれど、どうしても自分の文章を先に仕上げたかった。第一稿を書き上げたあとで細かい見直しをする。それにもまた時間がかかる。

そうこうしているうちに、あっという間にお昼になってしまう(ちなみに宮田氏は一足早く資格試験に出かけてしまっている)。他人の部屋に一人でいると、だんだん自分が誰なのかよく分からなくなってくる。それでもなんとか文章をアップし、忘れ物がないように荷物をかき集め、部屋を出る。

電車に乗って恵比寿まで行く。着いたのは14時過ぎで(ちなみに開場は12時、開演は13時)、結局楽しみにしていたDreb The Ambassador(デレブ・ジ・アンバサダー)の演奏を聴き逃してしまう。Drebは先週のBarakan Beat(毎週日曜日にやっているピーターさんのラジオ番組)のゲストでもあった。エチオピア出身で、現在はオーストラリア在住ということだった。そのいくつかの楽曲はラジオで実際にかかり、僕は結構楽しんでそれを聴いていた(エチオピアの音楽はなんと!日本の演歌に似たリズムを持っている)。結局昨日のガリカイさん(ジンバブエ出身)もきちんと聴けなかったから、これでアフリカ勢の演奏を二つ聴き逃したことになる。まったく。こんな機会あまりないんだけどな。でもまあ仕方ないか、と自分を――都合良く――なぐさめて駅から会場までの道のりを歩く。なにもかもうまくいくってわけじゃないんだから。

昨日渡されたオレンジ色のリストバンドを着け(ちゃんとなくさずに取っておいた)、それを入口の係員に見せて中に入る。一階のクロークに荷物を預け――そう、今日はあの重いリュックサックを預けた。五百円。しかしおかげでずいぶん肩が楽になった――階段をドシドシのぼって三階のラウンジに着くと、そこではちょうど久保田リョウヘイのハンドパンの演奏が始まっていた。今日も結構たくさんの人がいる(客層はやはり中高年が多い)。ちなみに「ハンドパン」というのは2001年にスイスで発明された楽器で、その歴史はまだ浅い。金属でできていて、ちょうどUFOみたいな形をしている。表面にはいくつかのへこみがあり、叩く場所によって音程が変わる。僕は一度ラジオで彼の演奏を聴いていたのだが、実際に見てみないと、どんな風にしてあんな音色が発せられるのか理解しがたいところがあった。でも一度見れば分かる。とにかくその手の動きは見事です。よく両手だけで――つまり特別な道具を使わずに――あれだけたくさんの音を調和させながら出せるものだ、と感心する。ちなみに彼は若干二十歳はたちで、話し方なんかを聞いていてもまだまだ若い、という印象を受けた(ちなみに細身の好青年である)。でもそれは決して悪いことではなくて、むしろれていない、初々ういういしい感じがして、自然な好意を抱くことができる。これからどんどん伸びていくんだろうな、と僕は思った。そしてそう思うと同時に、その姿に結構刺激をもらったりもする。なにしろまだほとんど知られていない楽器一つで道を切りひらこうとしているのだから。これは僕だって負けていられないのではないか。

ハンドパンの音色は優しく会場全体を包み込み、人々を(いくぶん)リラックスさせたようだった。もちろん速いフレーズに差しかかるとそこに熱がこもってくるわけだが。僕はサンドイッチを食べながらそれを聴いていた。Pulled Pork Sandwich(プルドポークサンドイッチ)。割いた豚肉とコールスローが入っていて、その上にバーベキューソースがかかっている。これはなかなか美味うまかった。

彼の演奏が終わると、ほかの人々に続いて隣のホール(Garden Hall、一番大きな会場だ)に移動する。そこでは昨日に引き続き、Zydefunk feat. Brandon “Taz” Niederauerの演奏がある。昨日は一階のルーム(Garden Room)だったから、それよりも一回り大きな会場でやるわけだ。僕は正直体調がすぐれなかったので――あの程度の睡眠では当然だろう――パスしようかとも思ったのだが、もう一度タズ君のソロが聴けるのなら、と多少無理をして中に入った。案の定彼らの演奏は最高でした。どうしても音量の大きさが気になるけれど(耳が痛い)、それはある意味では全身で彼らの迫力を感じ取れる、ということなのかもしれない。昨日とは違う曲をやっていて、それもまた楽しかった。四人それぞれがお互いを鼓舞し合い、刺激し合っていた。リーダー(Charlie Wooton、ベース)ともう一人のギタリスト(Daniel Groover)のソロも格好良かった。昨日も思ったけれど、なかなか面白いバンドでした。

そのあとすぐ外のラウンジでピーターさんがDJをやった。彼の話し声はいつも穏やかで、それだけで人の心をリラックスさせてくれる(これはもともとのパーソナリティーによるところが大きいと僕は踏んでいる)。そのお話を聞いていると、正直僕なんかよりずっと日本語が上手うまいんじゃないか、という気さえしてくる。それでたまにピーターさんが英語をしゃべると、へえ、ピーターさん英語しゃべれるんだ、と思ったりする。よく考えてみたら当然なのにね。

もっとも僕はそろそろ意識が朦朧もうろうとしてきたので、軽くまた食事をし(フムスというイスラエル料理。ヒヨコ豆を煮込んでペースト状にしたもの。小さなピタパンが付いてくる)、あとは脇の方にある椅子に座って目をつぶっていた。もちろんここからではピーターさんの姿は見えない。何の曲を流しているのかもあまりよく聞き取れない。しかしもうそんなことを言っている場合ではなかった。なんとか次のノーム・ピケルニーまでに意識を回復させなければならない。

ちなみに僕が座った椅子には誰かが水をこぼした形跡があったのだが、もはやそんなことを考えている余裕すらなかった。一度座った以上、立ち上がりたいとは思わなかったのだ(ほかに空いている椅子があまりなかったということもあるが)。そのせいでお尻がちょっと濡れてしまった。

17時からホール(一番大きい会場)でNoam Pikelny & Stuart Duncan(ノーム・ピケルニー & スチュアート・ダンカン)の演奏が始まる。体力的にこれが最後かな、と思い始める。濱口はまぐち祐自も聴きたいし、もちろんトリのJon Cleary Trio with Nigel Hall(ジョン・クリアリートリオ with ナイジェル・ホール)も聴くべきだとは思うのだが、自分の身体が一番である。それにそろそろ精神的な消耗も感じてきた、ということもある(これについてはまたあとで述べる)。

もっともそんな状態で聴いたにもかかわらず、彼ら二人の演奏は素晴らしかった。最初にピーターさんが出てきて、「私は名人が好きなんですよ」と言っていた通り、まさに名人芸だった。ちなみにノームさんがバンジョーを弾き、スチュアートさんがフィドル(要するにバイオリン)を弾く。曲はカントリー調のものが多かったが、どれも聴きごたえのあるものばかりだった。アコースティックということもあって、音が大きすぎるということもないし。

ノームさんの指の動きは神業かみわざ的に細かい。そしてその動きから優しく繊細な音が――まるで小さな水滴のように――はじき出されていく。それに合わせて弓を使い、スチュアートさんがメリハリのあるメロディーを付け加えていく。単なる「カントリー」というだけには留まらない情熱的なものがそこにはあった。ちなみに二人とも歌も歌う。ノームさんのソロの演奏も心が洗われるように素晴らしかったけれど、個人的にはスチュアートさんの生き生きとした表情が深く印象に残っている。彼は今年で54歳のはずだが、細かいフレーズを汗をかきかき演奏している姿を見ていると、ちょうどついさっき見た15歳のタズ君のような若々しさが感じられてくる。彼はいまだにフィドルという楽器で(どうやらカントリーで使う場合には「フィドル」と呼ぶらしい)一体何が生み出せるのか、心底興味があるのだ。そういう純粋な好奇心のようなものは――もし本人が持ちたいと思うのならば――たとえいくつになっても持ち続けられるものなんだな、と実感した。もう一度繰り返すが、彼らのテクニックはまさに名人芸だった。

しかしそんな演奏のさなかにいながら、僕は帰るか帰るまいか、ずっと迷い続けていた。体調的に万全であればもちろんもっと集中してきちんと聴いていたと思う。でも問題はそれだけではなかった。

それはおそらく「音楽を聴く」という行為の本質に関することだったのだと思う。結局今自分はここでこうして他人の音楽を聴いている。しかしそれだけでは足りないのだ、という思いが確実にある。ほかの人がどうかなのは分からないけれど、少なくとも僕はそう感じる。やはり自ら何かを生み出す、という行為にかなうものはないのだろう。決してたいしたものを生み出しているわけではないにせよ、だ。自分の肉体と精神がそれを求めている、という感覚を、ステージの間中僕は常に抱き続けていた。

しかし「それでももう少し頑張ってこの人たちの演奏を聴いていこう」と思わせるのは、やはり音楽の持つある種の特別な力なのだと思う。今ここには何もない。しかし次の瞬間には何かが生まれるかもしれない。彼らはそれだけのテクニックと、そして気概のようなものを持っているのだから。そういうところは小説とは違っている。何かが生まれる瞬間を、文字通り我々は共有できるのだ。

そのステージの間は、そんな風にして自分の意識を保っていた。ときどき眠気がやって来たが、とりあえずその時点ではどこかに去ってくれた。ノームさんとスチュアートさんの演奏は、フィドルとバンジョーという楽器編成ということもあって、決して派手ではないけれど――特にエレキギターが活躍するZydefunkと比べると音はずっと小さい――その奥には非常に熱い心持のようなものが感じ取れた。二人とも小奇麗な服装をした穏やかそうな方だったけれど、その魂にはもっとハードな演奏をする人たちに負けないくらいの情熱が宿っている。そしてそれを実際に表現するだけのテクニックを持ち合わせているのだ。

彼らの演奏を聴き終わると、僕はとてもいい気分になった。肉体的には消耗しているけれど、精神的には高揚している。しかしここまでだろう、という思いもあった。考えてみれば、今日だけでも四時間(午後2時に着いて、今は夕方6時だ)他人の音楽を聴くために時間を割いている。フェスティバルという特殊な状況であったとはいえ、僕の精神はこれ以上自分自身を離れることを良しとしなかった。そこでそのあとの濱口はまぐち祐自とJon Cleary Trio with Nigel Hallをパスし、早々に家に帰ることになった。

あるいはあとになってこの二つを聴き逃したことは後悔するかもしれないけれど、少なくともその時点では僕の集中力は限界だった。昨日あと少しでも寝ていれば話は別だったんだろうけどな・・・。それでも人ごみを離れ、一人で道を歩いていると心からほっとすることになった。結局自分という人間には、一人で文章を書くという行為が一番向いているのかもしれない、とも思う。みんなと一緒に盛り上がるという行為が、昔からどうしても苦手なのだ。

それでも――たとえほかの人のように身体を揺らして手拍子を打たなかったとしても――今回このフェスに参加できたことは良い経験だったと思う。非常に疲れた、というのが第一の感想だけれど、その疲れと引き換えにしか得られないものがたしかにそこにはあった。そして思うのは、やはり自分の脚でここまで来て、自分の目で会場の様子を見て、自分の耳で実際に生の音楽を聴く、という行為が自分にとってまさに必要とされていたのだ、ということだ。おそらくこの期間の間、もし家にいて小説を書いていたら、きっとひどく後悔していたはずだ。俺はここで一体何をやっているんだろう、と。もちろん現実に遠出とおでをすると――といっても都心に出ただけなのだけれど――予想外のことが次々に起こるものだが、今回のことはそれも全部ひっくるめて良い経験だったと思う。

もっとも帰りの電車の中で僕は結局いつもと同じことを考えていた。それはつまりこういうことだ。最も重要なことは、他人の中ではなく、自分の中に求めるしかないのだ、ということ。それはまあ実をいえば常に考え続けていることではある。そしていろんなところでいろんな経験をするたびに、結局この事実がより深く自分の中に刻み付けられていくような気がする。にもかかわらず、外に出て音楽を聴くという行為には何か素晴らしいものがある。多少無理をしても足を運ぶだけの価値が――もちろん出演するミュージシャンにもよるのだが――そこにはある。たぶんそのバランスが大事なんだろうな、と僕は思う。内側に集中することと、外側に意識を向けることのバランス。おそらく自分自身に集中することは、とても重要であるにもかかわらず、それだけではいささか危険な状態に陥ってしまうのではないか。外側にある事物と自分自身との距離を測る、という行為がときに必要とされるのではないか。そしてうまくいけば、そこにある種の共感のようなものを見つけられるかもしれない。

細かい理屈はいいとして、結局心がそのとき求めていることをその都度聞き取るしかないのだと思う。だから常にできるだけ注意深くいる必要がある。もちろんときどき失敗はするけれど。

今回たくさんの――といってもよく考えてみればそれほど多くの数でもないのだが――ミュージシャンを見てきたけれど、そこに共通して感じ取れたのは、彼らが一生懸命音楽を演奏している、ということだ。それはまあ考えてみれば当たり前のことなんだけど、とにかくその姿を実際に目にすることで、僕は非常にポジティブな影響を受けることができたと思う。大事なのは、自分と変わらない生身の人間がまさに目の前でそれをやっているということ。そして彼らは――何を隠そう――それを可能にするためのテクニックをちゃんと持ち合わせているのだ。しかし決してその場に安住しようとはしていない。そこにはさらなる発展の余地がある・・・。

そういう前向きの姿勢は、タズ君や久保田リョウヘイ君のような若いミュージシャンだけでなく、もっと年上の人々の中にも感じ取ることができた。そして僕は――単なる観客としての僕は――その姿に見事に勇気づけられた。そしてこう思う。彼らは彼らの仕事をやっている。僕は僕の仕事をやらなければならない、と。たとえつたないテクニックしか持ち合わせていなかったとしても、だ。結局実践することによってしか人は成長することができないのだから。

では僕の「仕事」とは何か? それはこの文章を書くことだ。

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です