皆様は東京都八王子市南西部に位置する「浅川地下壕」なるものを知っているだろうか? 僕は知らなかった。つい一週間前までは。
浅川地下壕というのは太平洋戦争末期(1944~45年)に、陸軍東部軍の指揮の下、佐藤工業・大倉土木によって掘られていた、総延長約10kmにも及ぶ坑道群のことである。もともとは陸軍の倉庫として使う予定だったものだが、1944年11月から始まった米軍の空襲から逃れるために、中島飛行機という会社が疎開工場として使うようになった。「中島飛行機」というのは当時の日本の軍用機の生産においてかなり重要な役割を果たしていた会社であり、浅川地下壕に疎開することになった武蔵製作所(武蔵野市)では、一式戦闘機(隼)や、零式艦上戦闘機(零戦)といった当時の主力戦闘機のエンジンを制作していた。しかしだからこそ本土空襲を始めたアメリカ軍の最初の標的となり、終戦までの間に9回もの組織的な爆撃を受けることになる。
僕がこの地下壕の存在を知ったのは完全にたまたまで、あるレイテ島の生還者の方の証言を観たことがきっかけだった。なんというか最近は戦争を実際に経験した人の言葉を、飾りとかBGMとか解説とかなしに聞きたい、という気分だったので、NHKのアーカイブで様々な人々の経験談を観ていたのでした。中国雲南省から始まり、サイパン、フィリピン……と進んでいたところで、その方の証言がありました。その方は長年の間自分の経験を話すことを躊躇されていたのですが(小隊長として戦ったが、35人いた仲間のうち生き残ったのは2人だけだった)、「アサガワ先生」に誘われて今回このお話をすることになったのです、と語っていました。じゃあその「アサガワ先生」の経験談も聞いてみたいな、と思って、「浅川」「戦争」「証言」のようなキーワードで検索してみると……なんと、すぐ近くにある「浅川地下壕」なるものを発見したのです。偶然。
7年八王子に住んでいて、10ヶ月ほど仙台に戻って、また八王子に帰ってきたわけだけれど、まったくそんなもののことは知らなかった。日本各地にまだ地下壕のようなものが残っていることは知っていた。例えば松代大本営は有名ですよね。まあ僕はそれもNHKの特集で観て初めて知ったのですが。松代に関しては大本営とか天皇を疎開させる、というかなり大掛かりな計画だったわけで、一般の人の注目を浴びやすい。敗戦濃厚な中、本土決戦は避けられないと考えていた軍の中枢が、かなり精神的に追い詰められていたんだろうな、というのが容易に想像できる。地下にこもって徹底抗戦しようという考えである。そしてその間なんとしてでも天皇陛下は護らなければならない……。
そのような流れの中で――どうも最初は浅川が大本営の移転地として候補に挙げられたらしいのだが、却下されて松代に変わったらしい――軍の地下倉庫としてこのトンネル群は掘られ、後に中島飛行機の疎開工場へと目的を変えた。イ地区、ロ地区、ハ地区に分かれ、そのうちイ地区では(ロとハは未完成だった)実際に機械を据えつけてエンジンの生産が行われた。もっとも当初は月に300台の生産予定だったのが、実際には特有の湿気や、空気の悪さから、作業能率は上がらず、結局10台ほどしか生産されなかった、ということだ。掘削作業には朝鮮人労働者が動員された。当時は国家総動員法、国民徴用令に従って、日本国民(日本に併合されていた朝鮮半島の人々もまた「日本国民」である)は国のために働くのが当たり前だったから――少なくとも実際に兵隊に取られていない人々は、という意味だが――その点ではほかの国民と条件は一緒だったかもしれない。しかし祖国から遠く離れたところに連れてこられて、最も危険な仕事に従事させられる……(削岩機で穴を開け、そこにダイナマイトを仕込んで爆発させる、発破工法が採用された。そのあとで砕け散ったズリと呼ばれる岩の破片を運び出す)。「募集」、「官斡旋」、「徴用」という、人によって異なった名目で連れてこられたわけだが、もし自分だったら……と考えると、さほど熱心に働きたいとは思えないかもしれない。なにしろ自分の真の祖国ではないのだから(注:もちろん賃金を得るために熱心に働いていた人々もいたはずだ。仕事を得るために、むしろ進んで内地にやって来た朝鮮人も多くいた、と主張する人もいる。細かい実例を知らないので、僕にははっきりしたことは言えない。もっとも今回見た地下壕は、決して働きやすい職場とは言えない気がしたけれど)。文献によって数にばらつきはあるが、多いときにはおそらくは2,000人前後の朝鮮人労働者が動員されただろう、ということだ(「浅川地下壕の保存をすすめる会」の資料による。根拠のはっきりしている調査・記録によれば最小の説が1,100人〈家族を含めると1,500人:斉藤勉『地下秘密工場』1990年〉、最大が2,000人前後〈家族を含めると約3,000人:青木保三『七十年を顧みて』〉)。
僕らはそんな穴に入っていく。一年に満たない期間で(1944年9月から1945年8月まで)約10kmもの穴を掘ったのだ。そんな突貫工事だったのだから、きっと事故もあったに違いない。資料によれば、ある朝鮮人労働者は「4名ばかり同胞が事故で死んだが、負傷者も多かった。しかし会社側はこれらの犠牲者についてはひたかくしにかくしていたので、実際は非常に多いはず」と証言している(朴慶植著『朝鮮人強制連行の記録』1965年)。
たしかに実際に目にすると――僕らが見たのはその一部に過ぎないのだけれど――これをそれだけのスピードで掘ったらそりゃ事故も起こるよな、という印象を受けた。広くて、高くて、長い。落盤だってきっとあっただろう、と想像する。
現在浅川地下壕には自由に出入りすることはできない。危険だということもあるし、土地の権利の関係もある。しかし例外的にイ地区――実際に機械が置かれてエンジン生産が行われていた地区――だけは、「浅川地下壕の保存をすすめる会」の方の案内によって、月に一度だけ見学することができる。僕は(僕と宮田氏は)今回それに応募したわけだ。
高尾駅から出発する。参加者はたしか17名だったと記憶している。宮田氏は寝坊したせいで少し遅れてから合流する。まったく……。
南口を出て、まずは浅川小学校に向かう。曇り空の下、桜が綺麗に咲いていた(八分咲きくらいだろうか?)。とても良い季節だ。しかし我々は――懐中電灯を入れたリュックを背負い、「濡れても大丈夫な靴」を履いた我々は(僕は雨靴を持っていった)――これから地下に潜る。地上に興味がないというわけではないのだけれど、たしかに地下には独特の魅力がある……気が、する。暗闇。湿気。何があるのか分からない世界。寝不足の目を擦りながら、集団に付いていく。
まずそこで地下壕の各地区の大体の位置を説明してもらった。こっちがイ地区で、こっちがロ地区。そしてこっちが……というように。奥では少年野球チームが練習をしていた。僕も昔一年だけ野球をやっていたことがある。あまり熱心ではなかった(友達とふざけてばかりいた)。もちろんベンチだったけれど……。
その後「みころも霊園」というところに移る。この特徴的な建物は産業殉職者の慰霊のために建てられたものである。もちろん戦後(1972年)。ここで資料を使いながら、たしか15分ほど、地下壕の歴史について聞かせて頂いた。そういえばそのときに見せてもらった写真で印象的なものがあった。一つは実際に浅川地下壕に置かれていた機械。そこには”CINCINNATI”と書かれていた。要するにアメリカ製だったのだ。どうやら持ち込まれた機械のほとんどがアメリカ製だったらしい。もちろん開戦前に輸入したものだ。それだけ日本とアメリカの技術力には差があったということだろうか……。
もう一つ印象に残った写真は、戦後、アメリカの調査団がトロッコのレールの上を歩く4人の日本人を写したものだ。トロッコはもちろん穴を掘ったあとのズリと呼ばれる破片を運ぶために使ったものだ。そこにいる4人は帽子を被っており、等間隔に並んで歩いている。いささかわざとらしい。ニヤニヤしている人もいる。すでに戦争が終わった時期で、緊張が緩んだのかもしれない。あるいはただ単に恥ずかしかったのかもしれない。おい、そこでちょっと歩け。そうそう、いいんだよ別に、わざとらしくても。レールのサイズを分かりやすくするためなんだから。いいか? いち、にい、さん、しい……。みたいな雰囲気がひしひしと伝わってきて、結構ほっこりとする。彼らがその後どういう人生を送ったのかは、もちろん僕には分からない。もし生きていたらどれだけ若くても90代後半にはなっているはずである。
そういえばその後みころも霊園からさらに移動したときに、実際にその写真の場所に立った。山の形なんかから、たしかにその場所だということが分かる。79年という歳月を経ても、山はさほど外形を変えないのだ。まあ当たり前といえば当たり前なのかもしれないけれど……(もしかしたらレールの上を歩く4人の写真はここで見せられたのかもしれない。記憶がごっちゃになっている)。
いずれにせよそこからさらに移動し、お寺のトイレを借りたあとで、いよいよイ地区の入口へと向かう。なんだか緊張してくるな……。ヘルメットを借り、僕はスニーカーから持ってきた雨靴へと履き替える。宮田氏は水が染み込みやすいメッシュのランニングシューズを履いている(これには笑ってしまった。だって警告されていたのに!)。それぞれの参加者が懐中電灯を持っている。「秘密の入り口」から――というのは近隣住民の方に迷惑がかかるから簡単には公表できない――穴の中に入る。本当に真っ暗で、結構気温が低い(冬は14℃、夏は16℃くらい、ということだった)。淀んだ空気の匂いがする。カビの匂いもたぶんそこには混じっている。ぞろぞろと我々は歩いていく……。
入り口のあたりには水が溜まっていたり、木の長い板が渡してあったりして、ちょっと不安になる。この先大丈夫だろうか……? でも意外にも奥の方はしっかりしている。水たまりもそれほど多くはない。蝙蝠を探していたのだけれど、僕には見つけられなかった……。
イ地区の坑道の幅はおよそ4mほど。高さは3mほどである。僕が頭の中で想像していた「防空壕」というものよりは少し広いかな、という印象がある。しかしこれは一般の人々の避難のために作られた壕ではなくて、エンジンの部品を作るための「地下工場」である。もちろん今は機械は完全に撤去されてしまっている。ゴツゴツとした岩肌が裸のまま見えている(素掘りというらしい)。地面には小さい石が敷き詰められていて、歩きにくい、というわけでもない(もちろん場所によっては非常にデコボコしているところもある)。直角に曲がって、入り口の光の見えないところに来ると、本当に暗い。参加者たちの懐中電灯の明かりがあるからまだ良いけれど、これがなかったらどんな暗闇になるのやら……。
案内の方が様々な説明をしてくれる。たとえば坑道の両脇にはトロッコが通った跡がある。あるいは壁にはダイナマイトを仕込むための細長い穴が空いていたりもする。白カビが天井を覆っているところもあった。東京大学が設置した地震計もある。そういった話を聞きながらどんどん奥へと入っていく。
僕はずっと「今ここで、この瞬間大地震がきたらどうしよう」とそんなことばかり考えていた。最悪のタイミングだろう、きっと……。でも幸い地震は来ずに、僕らは埋められずに済んだ。でもまあよく考えてみれば79年もの間このように残り続けているのだ。きっと岩盤は丈夫なのだと思う(たぶん)。
道の先に柵が設置されているところに来る。どうやらここが行き止まりらしい。本当はその先が地下工場のメインだった場所なのだが、土地の権利の関係とかで先に進むことはできないのだ。残念。実はその柵には隙間が空いていたのだが、地下鉄サリン事件(1995年)のときに奥にサリンが隠されているのでは、と警察が疑って捜査が入ったらしい。その後人が入り込まないようにその隙間もきちんと塞がれてしまったらしい。
まあどんな魂胆があるにせよ、なかなか一人では来たくない場所です。みんなと一緒で、懐中電灯を持っているからなんとか耐えられる(僕はノジマで前日にでかいやつを買った)。みんなで一斉に柵の奥を照らすと、まあなんとか多少は見えてくる。その先は戦後マッシュルーム栽培に使われたということだ。でもとっくの昔に撤退してしまっている。たしかにこの暗さと湿気はマッシュルームには適しているのかもしれないけれど……。
おそらくは一時間ちょっと経ったところで——暗闇にいると時間の感覚が分からなくなる——ようやく外へ出る。途中外に空いた閉鎖された入り口を見たのだけれど(人が通れないくらいの隙間が空いている)その光はものすごく明るかった。そして心底ほっとした。僕はやはり地上で生きるように作られた人間なんだな、と心から思った。
外の空気は清浄に感じられる。ほかの参加者の方々もほっとしたんじゃないだろうか、と想像する。借りていたヘルメットを外しながら考えていたことは、これはものすごい工事だった、ということだ。イ地区に関しては、ほぼ半年でこの穴を掘ったのだ。いやはや……。そして工場としてエンジン部品を作っていたときに「効率が悪かった」というのも容易に想像できる。なにしろ空気が悪いのだ。そして湿気もすごい。穴の中ではほとんど常にポツリ、ポツリ、と水滴が落ちてきていた。硬い岩に囲まれているとはいえ、やはりどこかには隙間が空いていて、山の水が流れ込んできているのだろう。人間だって具合が悪くなるし、機械だって具合が悪くなる。
でももちろんそんなことは大本営だって知っていたのだろうな、と想像する。しかし地下に潜るよりほかに選択肢がなかったのだ。サイパンは陥落し、昭和20年には沖縄や硫黄島でも戦闘があった。アメリカ軍機はどんどん空爆を続けている。軍事工場は第一の目標である……。
戦後(1945年10月24日)に現地を調査した米軍戦略爆撃調査団(United States Strategic Bombing Survey)は以下のような記述を残している。
「この工場の操業場の最大の問題は、湿った床と空気に起因した。検分したすべてのトンネル(第1~第6)の床が濡れており、数か所では数インチも水が溜まっていた。このため、作業員の健康を著しく害し、機械の腐食は深刻であった。調査時には、機械には保護のためグリースを塗り、油紙の覆いがされていた。にもかかわらず、機械の多くはひどく錆びていた」
もっともこの工場の存在は戦中は知られていなかったらしく、1945年8月2日未明の八王子空襲を免れている。
今回の見学を終えてぼんやりと考えていたのは、戦争がもたらす集団的な狂気が、結果的に多くの人々を奇妙な方向に向けてしまう、という事実の怖さについてだ。本土決戦は避けられない。地上の工場は空襲を受ける。じゃあどうすればいいか? 降伏する、という選択肢は最後の最後まで大本営にはなかったみたいだ。多くの人々を巻き込んで、巨大な穴を掘る。湿気とか空気の悪さとか、そんなことに文句を言っている場合じゃない。たくさんの労働者たちがお国のために動員される(朝鮮半島出身者も混ざっている。浅川地下壕に関しては学徒も動員されたということだ)。そのような状況における、「誰かが命令を出し、下にいる誰かがそれに無条件に従う」というシステムの怖さを僕はひしひしと感じる。もちろん戦場においてはもっと血なまぐさいことが行われていた。広島や長崎のこともある。東京大空襲もあった。それに比べれば別に浅川地下壕というのはさほど興味を引くようなトピックではないのかもしれない。それでもなおあの長く暗い穴には、その当時の閉塞感がまだ残り続けているような気がした。決して気持ちのいい場所ではないけれど、たしかに貴重な経験であったと思う。
追記:ちなみに関連して、八王子大空襲についても調べてみた。昭和20年(1945年)の8月1日の夜に、警戒警報、そして空襲警報が発令された。しかし川崎や鶴見が空襲されているという情報が入り、「今日はやって来ないだろう」と多くの人々が勝手に警戒を解いてしまった(どうやら何度も何度も似たような避難を繰り返していたので、避難疲れがあったらしい)。その後2日の0時頃にB29が飛来し(169機来たらしい)、0時45分にM47焼夷弾(これは目標を照らすため)、0時48分に主力部隊がM17集束焼夷弾を投下したとのことだ。この「M17集束焼夷弾」というのは「M50」という4ポンド(約1.8kg)の細長い六角柱形(直径約5cm、長さ約55cm)の焼夷弾が110本束ねられているものである。このデカいM17が上空で散開し、尾の部分にリボンの付いた110本のM50が雨のように市街地に降り注ぐ。1.8kgの焼夷弾と、M17の部品が落ちてくるのだから、その直撃を受けて亡くなった人も多くいたという話だ。でももちろん焼夷弾の本来の役割は火災を発生させることである。酸化鉄とアルミニウムの還元反応による2,300℃の高熱によって、外側のマグネシウムを燃やす。地面に着弾すると、閃光を発しながら火花を散らし、周囲にあるものに引火する。
そんなものが2時間の間に1,600トン落ちてくるのだから、生きた心地はしなかっただろう。もちろん死者もたくさん出た。450名ほどが亡くなったとのことだった。負傷者は2,000人以上。被災人口は7万人。消失家屋は14,000戸にも上ったそうだ(『八王子空襲』 八王子市教育委員会、平成17年)。
動画で、実際に空襲に遭われた方々(当時はまだ子供だった)の話の中に、僕がよくランニングをしている浅川の話が出てくる。とにかく市街地は燃え続けているので、近くの河原にたくさんの人々が避難していたらしい。逃げているうちに家族とはぐれてしまった方もいた。もちろんもっと多くの被害を出した空襲はあったのだと思う。もっと悲惨な経験をされた方々もたくさんいたのだと思う。それでもなお(たとえ家族が死ななかったとしてもなお)、その方々の個人的な経験が――ものすごく鮮明に記憶が残っているのだが――とても貴重であるような気が、僕はしている。戦争という状況は否応なく死の付近に人々を追いやる。あるいは実際に殺してしまう。平和な状況ではまずあり得ないことだが、自らの肉体的存在の脆弱性に嫌でも気付かざるを得ない。時間が圧縮されたような感じになるのではないか、と僕は想像している。死を実際に目の前にしたときに、人々が何を感じるのか。こういう言い方は悪いのかもしれないけれど、それが僕の一番興味のあることだ。
ちなみに空襲の前日にアメリカ軍は「伝単」というビラを撒いていたらしい。そこには12の都市が飛行機の写真を囲むように書いてあって、これから数日のうちにこの都市のいくつかを(あるいは全部を)爆撃しますよ、という予告文が裏面には綴られていた。ちなみに12の都市とは右から順に水戸、八王子、郡山、前橋、西宮、大津、舞鶴、富山、福山、久留米、高岡(長岡の誤記ではないか、と言われている)、長野である(いくつか種類があり、別の都市が記載されているバージョンもある)。調べてみると終戦までに結局この全部の都市で空襲があった。当時小学生だった証言者の方は、先生にバイ菌が付いているかもしれないから触っちゃいけないと言われながらも、こっそり持ち帰ったのだそうだ。裏面の文章がなかなか興味深いので引用してみる。
「日本國民に告ぐ
あなたは自分や親兄弟友達の命を助けようとは思ひませんか助けたければこのビラをよく読んで下さい
数日の内に裏面の都市の内全部若くは若干の都市にある軍事施設に米空軍は爆撃します
この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があります軍部がこの勝目のない戰争を長引かせる爲に使ふ兵器を米空軍は全部破壊しますけれども爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分かりません御承知の様に人道主義のアメリカは罪のない人達を傷つけたくはありませんですから裏に書いてある都市から避難して下さい
アメリカの敵はあなた方ではありませんあなた方を戰争に引っ張り込んでゐる軍部こそ敵ですアメリカの考へてゐる平和といふのはたゞ軍部の壓迫からあなた方を解放する事ですさうすればもつとよい新日本が出来上がるんです
戰争を止める様な新指導者を樹てて平和を恢復したらどうですか
この裏に書いてある都市でなくても爆撃されるかも知れませんが少くともこの裏に書いてある都市の内必ず全部若くは若干は爆撃します
豫め注意しておきますから裏に書いてある都市から避難して下さい」
句読点がないのがなんとなく不気味な気がする。「人道主義のアメリカ」はもちろんこの5日後に広島に原子爆弾を投下する。もっとも戦争という大きな流れの中で何が正当で、何が正当ではなかったのか、僕には判断することができないし、それはなかなかデリケートな問題であるように思える(被爆者の方々の証言を見れば見るほどアメリカに問題があるように思えてくる。しかしなぜそんな事態に至ったのか、というと……もちろん日本の軍部には責任があるだろう。でも国民は? 国民には責任はないのだろうか? そう考えていくとだんだん分からなくなってくる……)。いずれにせよあったことはあったのだし、もはや今さら取り消すことはできない、ということなのだ。僕らはそこにある現実の「時」を経験された方々の声を聞くことしかできない。死んだ人は蘇らないし、燃えた家は戻ってこない。一度戦争という大きな流れができてしまうと、個人の力ではどうしようもない地点にまで進んでしまう。きっとだからこそ語り部の方々は事前に注意しなさいよ、という警告を含めて、体験談を語ってくれているのではないか? 僕にはどうもそういう気がする。
焼け野原になった写真を見ると(八王子でも、そのほかの都市でも)、本当に努力して何もないところから(本当に文字通りのゼロから)今の日本を作り上げてきたんだなあ、と純粋に尊敬の念を抱く。大抵の体験談は終戦のところで終わっている。まあ当然と言えば当然のことなのだけれど、僕としてはその後その人たちがどのような人生を歩んできたのか、そこに興味があるのだ。生き方が人間の顔や、声を作るのだと思う。だからこそ、飾らない言葉で語る人々の話が、自然なやり方で、僕の心に響いてくるのだと思う。哀しげなBGMとか、大袈裟なナレーションとか、そういうものがない方が、直接に心に届くものがあると僕は信じる。結局彼らが語っていることの骨子は、このような日常の延長線上に死が――戦争が――あった、ということではないのか? 人々はただ死に、ただ傷付いていく。生き残った人々は生き続けることを考えなければならない。もっとも一時停止されていた心の動きは、やはりどこかで再開するのだと思う。そのときにあらためて記憶がどのような感情を呼び起こすのかが、僕の知りたいことです。
なかなか不思議な週末だった。しかしまあ、これは例外だと思います。たぶん。僕は穴に潜って、戻ってきた。でもここは地上です。少なくともまだ僕は生きている。だとすると……自分にできることを――自分のやるべきことを――やるしかない。たとえ一見退屈に見えたとしても。
それでは。お元気で。