「スーツに着られる練習」

知り合いの大学生の子が珍しくスーツを着ていたので、どうしてそんなもの着ているのか、と聞いてみると、「スーツに着られる練習をしているんです」ということだった。
「え?」と僕は言った。「もう一度言ってくれませんか?」
「だから、スーツに着られる練習をしているんです」と彼は言った。

 

僕は少し距離を取って、あらためて彼の姿を見直してみた。確かに彼にはスーツが似合っていなかった。顔もまだ幼いし、体型もかなりの痩せ型だったから、着こなしているというよりは「着られている」と言った方が近いように見えた。でも彼はさっき「着られる練習をしている」と言った。それは一体どういうことなのか?
「それは一体どういうことなんです?」と僕は聞いた。

 

彼はわけ知り顔で説明してくれた。
「ある本に書いてあったんです。良いスーツを選び、そのスーツに着られなさい。あとはそれに身を任せれば、すべてが上手く行きます、と」
そのときスーツが言った。「つまりさ」とどこかについているはずの口で彼は言った。「俺がこいつを正しい方向に導いてやっている、ということなんだ」
そこでスーツがギュッと身をちぢめたらしく、青年が苦しそうにうっという呻き声を漏らした。

 

僕は驚いて口も利けないでいたのだが、スーツは構わず先を続けた。
「あんただって一目見れば分かるだろう」と彼は(たぶん)僕に向かって言った。「こいつはどう見たってぱっとしない。頭はまあ悪くないんだが、ひょろひょろしていて力もないし、握力だって小学校の女子児童並だ。いまだに家ではお母さんのことを『ママ』と呼んでるし、趣味といえば一晩中くだらないアニメをみてニヤニヤ笑っていることくらいだ」
くだらなくない」と青年はむっとして言った。
しかしスーツはまたギュッと身をちぢめたらしく、青年はうっと声を詰まらせ、涙目になって背中をさすっていた。
「筋を違えたかもしれない」
「まったく情けない奴だな」とスーツは言った。「まあとにかく、俺がこいつを助けるために一肌脱いでやろうと思っていたってことさ」

 

「それで、どこの面接を受けるんです?」と僕はようやく声を出した。
「それがさ」とスーツは言った。「こいつはそれも自分で決められないんだよ。そうだよな?」
「希望はあるんです」と青年はまだ背中をさすりながら言った。「できるだけきつくなくて、楽に仕事が覚えられて、残業が週に二時間以内で、意地悪な上司がいなくて、それで給料ができるだけ高いところ・・・」
「なあ」とそこでさえぎるようにスーツが言った。「俺に任せてくれればそんなの全部かなえてやる。だからもっと自然に俺に着られる練習をするんだ」

 

「分かりましたよ」と青年は言った。「あなたに任せればいいんでしょう」
「なんだ、不満そうじゃないか」とスーツは言った。
「実はね」と青年は僕に向かって言った。「僕だって最初のうちは『こんないい話はない』と思って喜んでいたんです。自分ではなんにもする必要がないんですからね。ただ任せていればすべてが上手く行く。でも最近はむしろこう考えるようになったんです。『いくらなんでもこんないい話はないぞ』って。だってそうでしょう。そんな素晴らしい就職先を保証してくれるスーツが、コナカの安売りコーナーに売っているわけがないんです。このスーツの言うことが本当に本当なら、僕なんかが買う前にすでに誰かが買っているはずです。そうでしょう」

 

僕は何と言えばいいのか分からなかったので、ただ一般論を述べるに留めた。「まあ一般的にはそうでしょうね」

 

「疑り深いやつだな」とスーツは言った。「そりゃ俺は一介の吊るしのスーツに過ぎない。オーダーメイドでもなければブランド品でもない。しかし俺は――スーツであると同時にお前の指導者メンターでもあるんだ」
「メンター?」と青年は言った。
「そうだ」とスーツは言った。「俺は思うんだが、きっと君があまりにも情けないから、見かねた神様が俺を使いによこしたんじゃないかな」
「じゃああなたは神様と知り合いなわけ?」
「そんなわけないじゃないか」とスーツは言った。「俺はただのしがないスーツさ。神様は――もしいたとしても――俺なんかのずっと手の届かないところにいる。でもそれはそれでいいんだ。結局のところ、俺は俺のできることをやるしかない。それが人生というものじゃないか?そして今俺にできることと言えば、お前を少しでも見栄え良くするってことなんだ。お前だって女の子にもてたいだろう?」
「そりゃまあ」と青年は言った。
「同年代の女の子と会話したことがあるのか?」
「そりゃああるよ」と青年は言って、その数を数えようとした。「ええと、お母さんとお姉ちゃんは入れていいのかな・・・」
「入れていいわけないだろう」とスーツは言った。「もういいよ。恋人なんてこれからつくればいいんだ。いいか、君は生まれ変わろうとしているんだよ。今までのぱっとしない君から、風采の上がる一人前の男に」
「そりゃどうも」
「そしてそれに必要なのは、とにかく力を抜くことなんだ」とスーツは言った。「ほら、まだ力が入っている」。そこで彼は青年の右脚のあたりを締め上げた。
「イテッ」と言って青年はその部分をさすった。
「いいから力を抜いて」とスーツは言った。「リラックスするんだよ。それにいい加減何かをグダグダ考え続けるのもやめるんだ。どうせ考えたって大したことは浮かんでこないんだから。いいから俺に任せなさい。そうすれば気付いたときには金も権力も、女も手に入っているぞ」
「でも頼むから意地悪な上司がいるところだけはやめてよね・・・」

 

 

そして彼らは僕の存在なんかすっかり忘れて歩き去って行った。僕はこの件についてよく考えて、それを自分の教訓にしなければ、と思っていたのだが、どれだけ考えても教訓は浮かんでこなかった。僕の頭には(周囲の人にチラチラ見られていることにも気付かずに)一人スーツと会話するあの青年の姿しか浮かんでこなかった。とにかく、彼が無事いい就職先を見つけられたことを願うばかりである。

 

 

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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