隣人

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それは気持ちの良い九月の土曜日だった。午後二時で、僕は昼食を食べた後腹ごなしに近くの公園に散歩に来ていた。僕はいつも座る指定席のベンチに腰掛け、ポケットから文庫本を取り出して読み始めた。何分か経ったあと、ふと顔を上げるといつの間にか両隣に人が座っているのに気付いた。

 

変だな、と僕は思った。空いているベンチならほかにもあるのに。それに彼らがベンチに近づく音を僕は一切耳にしなかった。一体どうやって音を立てずに近づくことができたのだろう。

 

 

僕は右隣の人を見た。よく見ると彼は心を失った身体だった。彼は心を失った身体の常として、虚ろな目をしていた。まだ残暑の残る九月だというのに彼は焦げ茶色の分厚いコートを着ていた。頭には立派なフェルト帽を被っている。彼はおもむろに立ち上がると、奇妙なステップを踏んでくるくると回り始めた。それは心を失った踊りだった。僕はしばらくの間魅せられたように彼がそのステップを踏み続けるのを眺めていた。心を失った踊りは、心を失っているがゆえに、僕の心を打った。それはとても悲しい踊りだった。

 

 

僕は次に左隣の人を見た。よく見ると彼は身体を失った心だった。彼は身体を失った心の常として、ふわふわとして落ち着きがなかった。彼はおもむろに立ち上がると、その場で静かに歌い始めた。それは身体を失ったことを哀しむ歌だった。その歌は、その痛切な哀しみゆえに、僕の心を打った。でもその歌は、空を渡る風の音に簡単に吹き消されてしまった。

 

 

僕は今度は自分自身を見た。よく見ると、僕には身体もなければ、心もなかった。僕は身体も心も失っていた。じゃあいったい俺は何なんだろう?と僕は思った。気付くと僕は――あるいは僕の視点は――ふわふわと宙に浮かんでいた。公園のベンチはどんどん遠ざかり、心を失った身体と、身体を失った心が、小さな二つの点となってベンチの両脇に見えた。

 

その時誰かが言った。

なんじの隣人を愛せよ

 

俺は一体何なんだろう、と僕はもう一度思った。そういえばダンテが『神曲』で「愛とは魂の傾斜である」と書いていた。僕は身体も持たなければ、心も持っていない。おそらく魂そのものでもないだろう。もしかすると、僕は質量を持たないただの傾斜なのかもしれない。ちょうど風が、空気の移動に過ぎないように。

 

汝の隣人を愛せよ、とまた誰かが言った。

 

「愛とは魂の傾斜である」と僕は口に出して言ってみた。でもそれは声になる前にどこかに消えてしまった。なぜなら僕は声を出すための身体を持たなかったからだ。

 

汝の隣人を愛せよ、と誰かが言った。

 

分かったよ、と僕は思った。それで、僕は誰かほかの人を愛そうと努めてみた。でもそれは不可能だった。なぜなら僕は誰かを愛するための心を持たなかったからだ。

 

愛とは魂の傾斜である、とその誰かは言った。

 

僕は今や地球を離れ、宇宙に吸い込まれようとしていた。そこには完全なる暗闇がどこまでもどこまでも広がっていた。宇宙にも愛はあるのだろうか?

 

汝の隣人を愛せよ、とまた誰かが言った。

 

でもこんな暗闇の中では、誰かを愛することはひどく難しい。一体俺はどうすればいいんだ?僕は途方に暮れてあたりを見回した。するとそこには様々な種類の愛の原形が浮かんでいるのが見えた。白い愛の原形、赤い愛の原形、青い愛の原形。黒い愛の原形もあった。遠くの方では青く輝く地球が見えた。僕は暗い宇宙にいて、それらの愛の原形を地球に向けて注ぎ込むことにした。力の限り傾斜して。

 

愛とは魂の傾斜である、と誰かが言った。

 

汝の隣人を愛せよ、と僕は言った。

 

 

 

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