自転車

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彼は自転車に乗って、一晩中都心に向けて走り続けていた。走り続けていればあれから逃れられるのではないかと思ったからだ。なぜ都心なのかは分からない。目的地なんてどこでもよかったような気もする。しかし走り続ける以上どこかに向かっている必要があった。

 

それは七月の夜で、まだ昼の蒸し暑さが残っていた。彼は東京の外れにある街に住んでいたが、その日部屋でじっとしていることにどうしても耐えられなくなった。狭い部屋に一人でいると、あれが彼の心と身体をむしばんでいった。彼はその音すら聞き取ることすらできた。むしゃむしゃ、むしゃむしゃとそれは彼を蝕んでいった。ムシャムシャ。むしゃむしゃ

 

彼はなんとしてもそんなことを許すわけにはいかなかった。そこにいると自分の存在理由そのものが無くなってしまうような気がした。もっとも自分の存在理由がなんなのかは、彼には一向に分からなかったのだが。

 

もう何時間走っただろう、と彼は思った。太腿にかなりの疲労が溜まっていた。それでも彼はペダルを漕ぐのをやめなかった。とにかく進み続けることだけを考えよう。
しかしおそらくスピードを出し過ぎていたからだろう。ちょっとした段差を越えたときにタイヤがパンクしてしまった。彼はそれでも無理矢理漕ぎ進めたのだが、やがてチューブが完全に前輪から外れてしまった。彼は役に立たなくなった自転車をその場に放り出し、速足で歩き始めた。

 

深夜の都会には怪しげな人や酔っ払いがうろついていたが、彼はそんな人々には目もくれなかった。彼はとにかく歩き続けた。このまま歩き続けたら一体どうなるんだろう、と彼は思った。あるいは「ちびくろサンボ」に出てくるトラみたいに溶けてバターになってしまうのかもしれない。でもそれも悪くないな、と彼は思った。俺も溶けてバターになってしまいたい。フライパンの上に注がれて、じゅうじゅうとパンケーキを焼くのだ。

 

パンケーキというところで、自分がひどく空腹であることに気付いた。それでも彼は立ち止らなかった。空腹がなんだ、と彼は思った。飯を食って、生き延びて、それになんの意味があるんだ。ほかにもっと大事なものがあるはずなんだ。

 

腕時計の針は午前四時を指していた。秒針は休みなくチクタクと時を刻み続けていた。時計を見ると彼は息苦しくなった。時間を越えられたらな、とふと彼は思った。もし時間より早く進むことができれば、俺はあれから逃れられるかもしれない。大きな橋を渡った時、彼は手首から腕時計をもぎ取り、力強く川に投げ込んだ。こんなものを着けているからいけないんだ、と彼は思った。時間なんてあると思えばあるし、ないと思えばないものなんだ。

 

東の空がだんだん明るくなってきていた。疲労と、眠気と、空腹で彼はもうぼろぼろになっていた。それでも彼は歩くのをやめなかった。その頃にはもう何も考えられなくなっていた。彼の頭は完全な空っぽだった。俺は自動人形なんだ、と彼は思った。ただ進むことだけを考えればいいんだ。

 

次第に前方の高層ビルの隙間から明るい光が見えてきた。夜明けが近づいてきていた。彼はただ歩き続けた。もう何も考えなかった。新しく生まれ変わった太陽に向かって、彼はひたすら歩を進めた。

 

でもあるポイントに差し掛かったとき、急に足が止まってしまった。その地点から一歩も足が出なくなってしまったのだ。彼は混乱し、全身から冷や汗が流れた。このままではあれに捕まってしまう、と彼は思った。でももう一歩たりとも先に進むことはできなかった。前方ではまぶしく光る太陽がビルの隙間から顔を見せていた。

 

俺はどうしちゃったんだろう、と彼は思った。なんで先に進めないんだろう。でも心のどこかでは彼もちゃんと分かっていた。いつまでも逃げ続けていたってどこにも行けない。このまま街の中心部に向かったところで何か特別なものがあるわけではないのだ。圧倒的な恐怖の波が彼に押し寄せた。それはものすごい力で、彼を闇の奥に引きずり込もうとしていた。彼は全身に力を込め、歯を食いしばってそれに耐えた。膝ががくがくふるえたが、なんとかしてそれを抑え込んだ。彼は堅く目をつぶった。そして自分はなんでもなしなのだと思おうとした。なんでもなしが、一体何を恐れるというのか。

 

それでも恐怖は去らなかった。目に涙が溢れてきた。ここが正念場なのだと彼は思った。もしここで負けてしまったら、俺は一生なんでもなしのままだろう。

 

しばらく経った後、彼は意を決して後ろを振り向いた。心臓がドキドキと大きな音を立てていた。緊張のせいで全身の筋肉が硬く強張っていた。冷たい汗が脇の下から流れ落ちるのが分かった。ゆっくり目を開けると、そこには見たこともない光景が広がっていた。

 

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