水分を摂ること

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それは仕事を辞めてすぐの頃だった。僕は大学を卒業したあと大手の銀行に勤めたのだが、一年で仕事を辞めてしまった。銀行そのものに問題があったわけではない。給料も良かった。しかし僕はそこにどのような未来をも見い出すことができなかった。

 

そんな時、大学時代の友人が福井に遊びに来るよう誘ってくれた。彼は言った。

「良いところだよ。きれいな日本海が見える。東京なんかよりずっと良い」

 

彼は今では福井の実家で暮らしていた。家が裕福だということもあって、(それにかなり変わり者だということもあって)今は仕事もせず、古典文学を読んだり、釣りをしたりして過ごしていた。僕の方には経済的余裕なんてものはほとんどなかったのだが、何日か旅行するくらいのお金は残っていた。

 

その電話の後、僕は福井県がどこにあったのか思いだそうとしてみた。しかしどうしても思いだすことが出来ない。僕は東北の田舎の出身で、進学を機に東京に出てきてからは旅行もしなかったから、西日本は未知の領域だった。確か京都があって、滋賀があって、石川があって・・・、その三府県の場所を思いだすことはできた。しかし福井だけは思いだせない。まあいいや、とりあえず行ってみればいい。どこにあろうと福井は福井だ。その友人の実家は鯖江市にあった。

 

後で地図で調べてみると、案の定福井県は石川と滋賀と京都、それに岐阜に挟まれた場所にあった。僕は新幹線で米原という駅まで行き、そこで特急に乗り換えた。鯖江駅にはその友人が迎えに来ていた。

 

「やあ、久しぶり」と彼は言い、銀色のフォルクスワーゲンビートルに僕の荷物を積んでくれた。彼はまず海に連れて行ってくれた。車の窓から見える町並みは特に面白いものではなかったが、初めて見る日本海ははっとするくらい綺麗だった。

「太平洋とは表情が違うんだよ」と彼は言った。

 

その日は彼の実家に泊めてもらった。彼の母親は息子が働こうとしないことについて僕に愚痴を言っていたが、もうあきらめたのだとも言っていた。「そういう家系なんですよ」と彼女は言った。彼の家系からは画家と、俳人が一人ずつ出ていた。彼の父親はその日何かの用で家を空けていた。

 

 

居間でビールを飲んでいると、誰かの足音が聞こえた。そおっと歩いているその雰囲気からして、どうも我々に気付かれたくなさそうだったのだが、結局彼が呼びとめた。「おい、俺の唯一の友達だ。挨拶をしてくれ」

 

それは彼の妹だった。彼女は彼より三つ年下で、京都にアパートを借りてそこから大学に通っていた。その日は週末ということもあって、たまたま鯖江に帰って来ていたのだ。彼女は丁寧に畳に膝をつき、「兄がお世話になっております」と言った。彼女がずいぶんかしこまった挨拶をしたので、ついこっちも堅くなってしまった。いえいえ。そんなことは。

 

「どんな世話もしてもらってないさ」と彼は小さな声で言った。彼の妹は挨拶を済ますと、そそくさと部屋を出て行ってしまった。「あれは良い子だよ」とあとで彼は言った。「ちょっと変わってるけどな」

 

 

そのあとで彼は自分の部屋を見せてくれた。本棚には様々な古典が並べられていた。壁には老子や孔子、果てはセネカからニーチェまで、色んな本からの引用文がぺたぺたと貼り付けられていた。それを見ていると、なんだか僕は胸が締め付けられるような気持ちになった。切実に何かを求めながら、それを手にできないもどかしさのようなものが、ひしひしとこちらに伝わって来たからだ。彼もまた(僕同様)苦しんでいるようだった。

「たまに思うんだよ。生まれてこなければどんなに楽だったろうってさ」

 

 

次の日の早朝、近くを散歩しようと思って玄関で靴を履いていると、彼の妹がちょうど二階から降りて来た。彼女は僕に、自分は犬の散歩に行くのだと言った。そこで我々は近所を一緒に散歩することにした。

「兄はいつも何かに悩んでいるんです」と彼女は言った。「うちの両親はただ変わり者なだけなんだと思っていますけど、それだけじゃないんです。兄は真剣に悩んでいるんです。昔はそれほどでもなかったんですけど、大学を辞めた辺りからなんだか塞ぎこむようになって・・・。

何をしていても楽しそうな顔をしないんです。いつも気難しい顔をしています。私が助けになってあげられれば良いんでしょうけど、兄は、私なんかには考えも及ばないことで悩んでいるんです。だから私にもどうしようもないんです。
今ではたまに一晩中起きていたりもします。一人でぶつぶつつぶやきながらノートに何かを書き込んでいるんです」

 

僕はただ相槌を打った。

「兄はいつもあなたのことを話しています。あいつは良い奴だって。ちょっと変わり者だけど、って言っていました」

 

僕は彼女自身について尋ねた。大学で何を勉強しているのか?

「今は心理学を専攻しているんです。」と自分の話になった途端顔を赤くして彼女は答えた。「ユングとかフロイトとか、そういうのです」

 

さわやかな風が我々の間を通り抜けた。それは都会には存在しない風だ。彼の家の元気なコーギー犬はぐんぐん紐を引っ張りながらそこらじゅうにマーキングをしていた。

「ぱっとしない所でしょう」と彼女は言った。鯖江のことだ。「でもぱっとしないなりの良さもあります」

僕は宮城の出身で、ぱっとしなさにかけてはそれなりの権威なのだと僕は言った。彼女はくすくすと笑い、尋ねた。「では権威にお聞きしますけど、福井と宮城どちらがよりぱっとしないんですか」

ぱっとしなさは比べられるものではない、と僕は言った。それぞれのぱっとしなさにはそれぞれの個性がある。福井と宮城のぱっとしなさには、オレゴン州とネブラスカ州のぱっとしなさぐらい違いがあるのだと。「オレゴンとネブラスカに行ったことがあるんですか?」と彼女は聞いた。「まだない」と僕は答えた。

 

 

その日は彼が運転して東尋坊とうじんぼうに連れて行ってくれた。彼の妹も付いてきた。彼はそれについて意外そうな顔をしたが、特に何も言わなかった。車中我々はあまり話をしなかった。しかしだからと言って、特に気まずいというわけでもなかった。我々は三人が三人とも、それほどおしゃべりを好むという性格ではなかったのだ。しばらくすると前方にまた日本海が見えた。

 

東尋坊にはちょうど中国人観光客の団体が来ていて、写真を撮りながら興奮した面持ちで何事かをしゃべり合っていた。

「あの人たちは幸福そうでいいよな」と彼は言った。

 

その景色は確かにわざわざ見に来るだけの価値のあるものだった。打ち寄せる波が、大きな音を立てて崖にぶつかり、白く割れた。何羽かのカモメが気持ちよさそうに空を舞っていた。

 

僕はその時強い既視感を感じた。この海を、この崖を、このカモメを僕はどこかで見たことがある。正直に言って、それは既視感という以上のものだった。それは僕自身の中の最も柔らかい部分と結び付いていた。その感覚は僕の胸を締め上げた。

 

 

僕は気分が悪いので車に戻って休む、と言った。友人は僕にキーを渡し、俺はもう少し海を眺める、と言った。狭い車に乗り込むと、やがて彼の妹も乗り込んできた。

「大丈夫ですか」と彼女は聞いた。

「たぶん」と僕は言った。

「ちょっと待っていてください」と言って、彼女は自販機でミネラルウォーターを買ってきてくれた。僕は礼を言い、それを飲んだ。

「水分を摂った方がいいです」と彼女は言った。「知らず知らずのうちに脱水症状になっているんです。意識して水を飲まないとだめなんです」

 

僕は小さく頷いた。そして助手席のシートを深く倒し、目を閉じた。すると、嫌々ながら働いていた東京での日々のことが頭に浮かんで来た。あの頃は毎朝起きるのが苦痛だった。家に帰ると知らぬ間にしかめつらをしていた。顔に皺が刻み込まれてしまうんじゃないか、というくらいずっと。気付いた時には僕は、周りの誰をも好きになることができなくなってしまっていた。

 

昔はこんなんじゃなかった、と僕は思った。僕はかつて誰かを好きになることができたし、何かを信じることもできた。でも今では僕は自分自身すら好きになれなくなってしまっていた。これでは駄目だ、これでは駄目だ、と思いながら、様々な理由をつけてその仕事を続けた。どこに行ったって同じなんだ、とその時僕は自分に言い聞かせた。一体世界のどこにもっと良い場所があると言うんだ。

でもその結果僕は僕自身をさらに壊していくことになった。僕は日々擦り減り、擦り減った部分は空中にちりのように舞って、あっという間にどこかに消えて行った。その時失った部分は――どれだけ求めても――もう二度と戻ってはこない。

 

 

開け放した窓からは涼しい風が入り込んできた。潮の匂いのする風だ。彼の妹は、狭い車の運転席に座っていた。彼女は心配そうに僕を見つめていた。中国人観光客の大きな笑い声が、ここまで届いた。

 

「水分が不足しているんです」ともう一度彼女は言った。「ちゃんと水を飲まないと駄目なんです」

 

僕は眠り込もうとしていた。僕の右手は、無意識に彼女の左手を強く握り締めていた。

 

 

次の日の朝起きると、友人は丸坊主になっていた。彼の頭は気持ちが良いくらいに青々としていた。何ミリか、という短さだ。彼は僕の寝ていた仏間に来ると、堂々とこう宣言した。

「決めた。俺はアメリカに行く」

 

僕はまだ昨日の具合の悪さから回復していなかったし、目の前にいきなり青々とした坊主頭が現れたので混乱してしまった。僕はただ「ああ」と言っただけだった。

「一緒に行くか?」と彼は聞いた。

 

僕はまだ混乱していた。一体アメリカに行って何をするのか。なぜ坊主頭なのか。

「もし行くんなら丸坊主にしないと駄目だぞ」と彼は言った。「さっき妹に刈ってもらったんだ」。そこで彼は自分の頭を撫でた。「まっさらになるんだよ。早くしないとあいつ京都に帰っちゃうぞ」

 

僕はまだ朦朧としていたのだが、ふとアメリカに行くのも、坊主頭になるのも良いかもしれないという気がした。というか、なぜかそれが至極まともで、論理的に筋の通った行為であるような気がした。

「良いよ」と僕は言った。「坊主頭になって、アメリカに行こう」

 

僕は外に出て、彼の妹に頭を刈ってもらった。僕の髪の毛はふわふわと風に乗り、隣家の生け垣に引っ掛かって、しばらくの間そこにぶら下がっていた。彼の母親は両手を腰に当てて縁側に立ち、あきれたように我々を眺めていた。東の空からはちょうど朝日が昇って来るところだった。彼の妹は髪を刈り上げると、ごしごしと強く僕の頭を撫でた。

 

「忘れないでくださいね」と彼女は言った。「脱水になる前に意識して水分を摂るんです」

 

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