暑さ寒さも彼岸まで

さて、九月も下旬になりましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか?

なんというか、ようやく涼しくなって、精神的にも肉体的にも、ほっと一息つけるという感じであります。私としましては、近頃ちょっと長めの小説を書いていまして、それでこのサイトの更新がおろそかになっていました。申し訳ありません。

それに関しては一応完成はしたのですが――とりあえず賞に出す予定――なんというのかな、書き終わってみると、やっぱりこんなものじゃないはずだ、という気持ちがふつふつと湧いてくるのであります。まあ、まだまだ未熟だから仕方がないのだけれど、いろんな意味においてもっともっと成長していかなくてはならないと実感しているところであります。

ところでこの間筋トレ中に(ダンベルベントオーバーローイングというのをやっていました。身体をくの字に折り曲げて、両手でダンベルを引きます。うまくやれば背中に効きます)腰を痛めてしまって、こんなもの大したことないさ、と無視してそのまま走っているうちに、太腿の裏まで痛めてしまいました。ということで泣く泣くネットで腰のサポーターを買い、それを着けて今この文章を書いています。サポーターを着けると、なかなか腰が安定して楽であります。いかに自分が今まで不自然な姿勢で生きていたのかが分かるというものです。

Amazonで買いました・・・。

まあそれはそれとして、世の中のコロナウィルス騒ぎは収まりそうにありませんね。というかまあ、人々の意識の中においては、もう自粛ムードは過ぎ去ったのかもしれませんが、感染者自体はなかなか減っていきません。世界的に見ても、むしろ増えているところもあります。ワクチンが完成に近づきつつある、というのは朗報ですが、それが世界中に供給されるまではまだしばらく待つ必要があるみたいです。そうなると今年(2020年)とは一体何だったのか、という疑問が――少なくとも僕の中では――湧いてくることになります。なんとか平常に復すること、というのが世の中の一番の目標になっている気がする。そしてそれはもちろん間違ったことではありません。今回の騒動のせいで仕事を失った人々も多いだろうし、特に東京を始めとする都市社会のリスクも浮き彫りになってきています。まあそんなときに余計なことは考えていられない、というのがむしろ普通の状態かもしれない。

もっとも僕個人としては、テレビでスポーツ中継が観られて、あとは川沿いを走り、ある程度の筋トレができれば、まあ言うことはないわけです。アルバイトを無事続けられているというのは考えてみればありがたいことでしょう。しかしその中でもなお、やっぱりどこかに進み続けなければならない、と感じていることは事実です。もうこっち(東京の郊外)に来て5年目になっています。まさかこんなことになるとは、という感じですが、むしろ無事生き延びていられていることに感謝すべきなのかもしれない。正直フラストレーションがないといえば嘘になりますが(まあ当然のことか)、それでもそういった歳月を実際にくぐり抜けることが自分の(かて)になるはずだ、と思ってなんとか生きています。それでもときどきふと、自分の人生とは一体何なんだろう、と思っている自分を発見することがある。

それはあるいは九月の風が八月の風とは違って、乾燥していて、涼しいということも関係しているのかもしれない。そういう時期にはなぜかふと過去の自分と今の自分とを比較してみたくなったりするのです。僕はかつて28(もうすぐ29になりますが)になった自分を、一体どのように想像していたのだったかな、と。果たしてこんな自分が、こんな風に生きていることを想像できただろうか、と。

もちろんできなかったわけですが、それでもまったく悲観的になっているわけでもないです。別に自分に幻滅しているわけでもない。もちろん理想としては職業的小説家になって、自由な時間を得るというのが一番良いわけですが、そこまで行かずとも、個人的に成長していくことはできます。あくまでそれが人目につくのに時間がかかるというだけの話で。なんだか毎回おんなじことを書いているみたいですが、ほとんどそれだけが僕の生きるモチベーションになっています。日々ちょっとずつでもいいから成長すること。

文章を書くというのは地味な作業です。毎日毎日パソコンの画面に向かって、しかめつらをしながら(しかめつらはしなくてもいいのですが)一行一行辛抱強く辿っていきます。もちろんこういったエッセイの方がすらすら書けるというところはあります。小説になると――特に長めの小説になると――なんだか自分が書きながらわけの分からないところに運び込まれていくような感覚があります。そういったことを長いスパンに渡ってやり続ける。

まあ僕の場合長いとはいってもせいぜい250枚(400字詰め)とかそれくらいなわけで、本当はもっともっと規模の大きなものを書けるようにならなくてはならないはずです。そういう感覚が自分の中にはあります。そう考えると、小説って、結構効率の悪い容れ物だよな、と感じないわけにはいきません。たとえば音楽なら一曲数分で聴き終えてしまえる。クラシック音楽だって、一部を除けば、長い小説を読み終えるよりもずっと短い時間で聴き終えられるはずです。でもだからどちらが良いとかそういうことではなくて、それぞれの持ち場があるのだということです。音楽には音楽にしか表せない領域があるし、小説には小説にしか表せない領域があります。最近なぜかバルザックの『従兄ポンス』を読んでいたのですが(ずっと前に文庫本を買って、置いたままになっていた)、いやあ、やっぱりなかなか面白いです。バルザックの書く人物たちはとても生き生きしています。俗世間にまみれた薄っぺらな貴婦人でさえ魅力的です。彼の目は実にいろいろなものを観察していたのだなあと、今になって感心しています。パリという矛盾に満ちた都市にあって(人々の欲望が渦巻いています)、人間たちが何を求め、あるいは何を求めていなかったのかが、ありありと伝わってきます。生活様式や慣習は違えど、その奥にいたのは生身の人間の魂なのだ、というのがよく分かります。そこから僕は一体何を学べるのだろう、と思うと、ちょっと考え込んでしまいます。というのもただ楽しいから読んでいるに過ぎないからです。でも何かがあるような気がする。小説にしか生み出せない心持ちのようなものが・・・。

まあいずれにせよ、バルザックはバルザックであり、僕は僕です。本を読むときには純粋にそれを楽しめばいいのではないか、というのが僕の基本的な考えです。でもこのテクノロジーの時代にあって、十九世紀の小説を黙々と読んでいると、なかなかほっとした気分になることができます。You Tubeを観るのも楽しいけれど(最近なぜかマッチョ系の動画ばかりがおすすめに出てきます)、本を読むのも楽しいです。ここにはここにしかない「落ち着き」のようなものがある気がする。時代の流れに簡単に左右されない何かがその奥にはあるような気がします。そしてそれを生み出しているのが、バルザックといういささか破天荒な人生を送った一人のフランス人なわけです。自分が死んだ170年後に、こうして日本で作品が読まれ続けていることを知ったら、彼は一体何と言うだろうな、と想像してみたりします。もちろんそんなことは分からないわけですが、いずれにせよそういった時代の流れを超越した、より静かな物語の流れに身を浸すというのは、なかなか素敵な気分です。19世紀の小説を読むと僕は少しだけ、忙しい現代を離れることができます。そういうのって意外に大事なことじゃないかと僕は思うのですが。

バルザック、まだまだ読んでいないものがあります。いずれ全部読みたいのですが・・・。
村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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