序文に代えて~または少し長めの決意表明~

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今僕は全くの白紙である。そこにはまだ(文字も記号も)何一つ書かれてはいない。Beginner’s Lifeというサイト名は、我々二人が人生の初心者である、という意味合いを込めて付けられた。もっとも直接の引用元は、たまたま僕の本棚にあった『ビギナーズ』というタイトルの短編集(レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳)なのだが。

 

全くの白紙であるというのは、考えようによってはなかなか悪くない状態である。と言うのも、そこに既に何かが書かれている人は、そのページを破り捨てるのに結構勇気が要るだろうと思うからだ。もちろん意味ある内容が書かれていれば、そのページを破り捨てる必要なんてないわけだが、僕の経験上(と言ってもさほど長く生きているわけでもないのだけれど)、そこにほんとうに意味あるものごとが書かれている人は、それほどはいないような気がする。

 

まあとにかくここで僕が言いたいのは、全くの白紙に新しく何かを書いていくというのは、結構楽しいじゃないかということだ。

 

僕はこの4月(2016年の4月)に東北の田舎から東京に出てきたのだが、それからというもの、自分がいかに中身の無い人間かということをひしひしと思い知らされてきた。具体的な体験の内容は書かないけれど、そのひとつひとつが(どちらかと言えば)身にこたえる経験だった。まあ未だにそれは――その経験は――続いているとも言えるのだけれど。

 

僕はおそらく文章を書いて生計を立てていきたいのだと思う。それが僕にとって、一番自分自身に近づくことのできる手段であるような気がするからだ。以前には僕は、自分なんかが何かを書いてはいけないのだと思っていた。でも今では、俺だって何かを書く権利くらいあるだろう、と思い始めている。

 

しかし問題なのは、僕自身が時として書くことから逃避している、ということだ。もちろん適当なことを適当に書けばそれで一応の体裁はつく。でももしそこにダイナミズムがなければ――つまりそこに自分自身というものが入っていなければ――ものを書くことになんて何の意味もなくなってしまう。他人を騙すことはできても、自分を騙すことはできない。とにかく何でもいいから書きさえすれば良いんだ、ということにはならない。

 

でも言うは易く、行うはかたしで(大事なことには大体この原則が当てはまる)、そうは思ってもなかなか気持ちが乗らないことが多い。書こうとすると急に理不尽な眠気が襲ってくることもある。気付くと、他の色々な用事にかまけてそこから逃げようとしたりしている。それでも僕は自分に言い聞かせる。じゃあ、一体ほかに何があるのか、と。

 

そうなのだ、確かに僕は――少なくとも僕にとっては――文章を書くことのほか、何かのある行為というものを思いつくことができない。僕の中にはある種の生き物のようなものが潜んでいて、それが僕を書くことに駆りたてる。
おい、何をやってるんだ。そんなことをしていて、本当にお前は満足しているのか?

 

生きることは――十全に生き続けることは――時になかなかハードである。そう考えると時々怖くなる。なぜならそれは常に前に進み続けることを意味するからだ。もちろんそういう人生を選ばない人もいる。というか大半の人が選ばない。でも僕にはほかに選びようがないのだ。それは理屈ではなく、本能的に感じていることだ。

 

そういう時僕は自分に言い聞かせる。怖がったって仕方がないじゃないか。こうしてせっかく生まれてきたのだもの。生きている間くらいしっかり頑張ろうじゃないか。

 

それに今上手くできなかったって、これを続けていれば――こういう姿勢を取り続けていれば――いつかもっと安定した自分というものを獲得できるかもしれない。少なくとも前に進み続けている限りその可能性はある。でもあきらめたら一巻いっかんの終わりだ。

 

そうだ、あきらめたら終わりなのだ。結局のところ今僕の置かれている立場というのは、さほどの苦境というわけでもないし、他人から見れば特にどうということも無いものなのだろう。でも僕にとっては(ほかに生計を立てる手段がないために)自由な時間を奪われている、というのが苦痛だし、いつまでも誰にも認められず、ずっとこのままの状態かもしれない、というもやはり怖い。でもそれとはまったく別に、僕にとってはやって来る一日一日がまさに勝負の日なのだ。そこには「こうしたら良い」という正解はない。正解があると思い込んだ瞬間、ある種の傲慢さにからめ取られてしまうことになる。

 

将来何をしたいのか、と最近よく聞かれるのだけれど(「できれば作家になりたいんです」と答えるしかない)、もしその質問に正確に答えるとすれば、傲慢な人間になりたい、ということになると思う。もちろん他人にはそんなことは言わないけれど、それにしても僕はやはり傲慢な人間になりたいと思っている。

 

それは「謙虚」ということではないのか、と今一瞬頭をよぎったのだが、それは単純な意味での「謙虚さ」とは少し違っているような気がする。もちろん生きて行く上で――十全に生きて行く上で――ある程度の謙虚さは必要だ。でもそれだけでは十分ではない。

 

確か河合隼雄さんのどれかの著作で読んだと思うのだけれど、ナバホ族のシャーマンが、シャーマンになるための資質について話すくだりがあった。「謙虚であること。そして自分を信じること」と(確か)そのシャーマンは言った。

 

これもまた、言うのは簡単だが、実行するのは難しいことの一つだ。謙虚でありながら、自分を信じること。でもやはりこれしかないと僕も思う。もちろん全ての人がシャーマンの資質を備えている必要もないわけだが、僕は自分自身のためにこの資質を(いつか)身につけたいと思う。でも人間の精神というのは、さほど融通の利くものではないらしい。頭でどれだけ分かっていても――どれだけ上半身に気合が入っていたとしても――変わることはそう容易ではない。実際に身体を使って生きて行く中で、時間をかけて鍛えて行くしかない、というのが実情みたいだ。

 

おそらく「謙虚になる」というのは、自分の中心にある何かに対して謙虚になる、ということなのだと僕は思う。それを何と呼ぶかはその人次第だが、それは確かにそこにある。いつも頭でばかり考えていると、どうしてもその中心との関係が切れてしまう。そうすると僕らはあっという間に根なし草みたいになってしまう。もちろん根なし草になってはいけない、という法律もないわけだが、僕はできればそれを避けたいと思う。

 

僕は時々自分が何にも結びついていないと感じる時がある。そういう時には自分の姿勢をもう一度見直さなければならない。傲慢になっていないか、もう一度詳細にチェックしなければならない。失われてしまった謙虚さを、再び取り戻さなければならない。

 

でもその一方で、「謙虚である」というだけでは足りない、というのも事実だ。そこに何かしらの自信のようなものがなければ――あるいはある種の大胆さのようなものがなければ――中心と繋がることはできないからだ。いつまでも弱気なままでいては、何一つやり遂げることはできないだろう。自分自身を低いもの、くだらないもの、価値の無いものとして扱っていては、いずれ本当に低く、くだらなく、価値の無い人間になってしまうかもしれない。

 

だからきっと、自分自身をどのように扱うのか、という姿勢が大事になって来るのだと思う。何か他のルールの下に自分を置くのか。あるいは他人の評価の上に自分を築くのか。
それとも自分自身の自由を最優先に置くのか。

 

僕は自分自身の自由を最優先に置きたいと思う。もちろん今はそれすら十分にできていないわけだが、いずれできるようになりたいと思っている。これは言い換えれば、意図的に非意図的になる、ということではないかと最近思うようになった。

 

もちろんほとんどの人はそんなことはやらない。でも僕は自分自身のためにその技術を身につけなければならないと感じている。どこまで行けるのかは分からないけれど、行ける所まで行かなければならないと感じている。なぜなら(少なくとも僕にとって)そこにしか未来はないからだし、それ以外に本当にやりたいと思えることがないからだ。

 

それに加えて、僕は自分自身に重みをつけなければならないとも感じている。重みというものが無ければ、人は自分に自信を持つ事なんてできないからだ。それにはきっと良い音楽や、良い文学が助けになってくれるはずだ。もちろんそれを聴いたり読んだりしさえすれば良い、というものではない。それでは一種のドグマになってしまう。僕が言いたいのは、それを本当に必要とする人間になれるかどうか、ということだ。それを本当に楽しめる人間になれるかどうか、ということだ。

 

結局のところ、人間としての重みというものは、そういう、一見すると何の役にもたたなそうなものの中に潜んでいるのだと思う。人生の目的、とまで言うと話が大げさになってしまうけれど、少なくとも虚しく生きることを避けさせてくれる何かがそこにはある。

 

もしそういうものを自分が生み出すことができれば、それに越したことは無いな、と僕は思う。そこには、ただ受け手になっているだけでは味わえない特別な何かが、きっと多く含まれていると感じるからだ(しかしこう見ると「何か」ばかり使っているな・・・)。

 

僕らはよく高給を取るスポーツ選手やミュージシャンをテレビで見て、ああなれたらいいな、うらやましいな、と思う(僕らじゃなく、もしかして僕だけなのかもしれないけれど)。でも忘れてはいけないのは、彼らは常に新たな勝負にさらされているということだ。もしかしたら明日勝ってヒーローになれるかもしれないし、負けてボロクソに言われるかもしれない。だから彼らは闘い続けるために、常に自分を鍛えていなければならない。そこに休息は無い。でも――と僕は思うのだが――本当に重要なのは勝負の結果などではなく、その、闘い続けようという姿勢そのものなのだろう。

 

そこにはきっと、厳しさだけがもたらすある種の楽しさがあるはずだ。僕はスポーツ選手にもミュージシャンにもなれそうにはないけれど、文章を書くことは好きだ。結局自分が楽しむという姿勢こそが、精神の充実に繋がって行くのかもしれない。そういう気持ちがあるからこそ、人は(もちろんある種の人はということだが)闘い続けることができるのかもしれない。そしてそれこそが、自由である、ということの本当の意味なのかもしれない。誰がなんと言おうと。

 


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