容器 (2)

容器 (1)』の続き





 Tが入院した、というメールが来たのは、それからほぼ三ヶ月後の、十二月の半ばのことだった。アルバイトが終わって、夜十時半にアパートに帰り、それが届いていることに気付いた。知らない番号からのもので(それはショートメールだった)、Tの妹のフルネームが件名に書いてあった。「突然すみません」と本文にはあった。「実は兄が入院しまして。都内の――病院、というところです。どうも高いところから落ちて、脚を骨折したみたいです。両親に連絡が行ったのですが、兄本人はお願いだから来ないでほしい、と彼らに言ったそうです。うちの両親はあの人の性格をよく知っていますから、会いたくないと言っているのに会いに行ったら病院を抜け出して――骨折していても、です――どこかに逃亡するだろうということを知っています。だから私がつかわされたわけです。私は実は休学して、福井にいたままだったのですが、今回また東京に出てきました。もしご都合が宜しければ木村さんも来て頂けないかと思って連絡しました。前に住んでいたアパートはすでに引き払ってしまったので、今は兄のアパートに滞在しています。汚いのでいつも掃除ばかりしていますが……。明日の午後二時頃に――病院に来て頂けないでしょうか? ご都合が悪ければ別の時間でも大丈夫です。兄はおそらくは意図的に木村さんにこの件を伏せていたのだと思います。でも私はやはりご一緒になった方がいいと思うので……。夜分に失礼致しました。ご返信をお待ちしております」

 木村はすぐに返信し、明日その時間に行く、と伝えた。入院? あれだけ活発な男が、退屈な入院生活に耐えられるのだろうか? 高いところから落ちた? 木村はこの三ヶ月、何度もTに連絡しようと思った。今何してるんだ? と。他愛ないことでも構わないから、あの男と話がしたかった。でもあえてそれをしなかったのだ。なぜか? おそらくは彼の自由を阻害することを避けるためだ。彼らの友情には奇妙な一面があって、お互いがお互いの自由を奪わない、というのがその根底にある一番重要なルールだった。それが守られていたからこそ、本当の意味で信頼して、心の内をさらけ出すことができたのではなかったか? もっとも木村の方がただ単に遠慮していた、という面もあるにはあった。彼はいまだに自分は退屈な人間で、Tは一種の天才――あるいは天才的傾向を持った自然児――だと思っていた。自分なんかが安易に関わるべきではないのではないか、と彼は感じていたのだ。しかし入院となったら話は別だ。熊よりも丈夫そうなあの男が、骨折したのだ。命に関わるような状態でない、ということは文面からも明らかだったが……。

 その夜はなかなか寝付けなかった。翌日のその時間にはゼミの実習があったのだが、彼はそれを迷いなくすっぽかすことにした。もっと重要なことが世の中にはあるのだ、と彼は自分に言い聞かせる。もっともそのせいであとでかなり厄介なことになるのだが……なんとか単位は取れた。日頃真面目に通い続けているおかげだ、と彼は思う。

 午前中の講義を終えたあと、バスと電車を乗り継いで指定された病院に行った。なかなか大きな病院で、中で何度も迷い、そのたびに場所を教えてもらわなければならなかった。病室に行くと彼女がいた。Tの妹だ。にっこりと笑って出迎えてくれたが、その表情の奥には影があるようにも見えた。Tは一番奥の窓際のベッドにいた。カーテンで仕切られた別の区画には、三人ほど別の患者がいるみたいだった。「よお」と木村が姿を見せるとTは言った。うす緑色の入院用の服を着ていて、右足がギプスでぐるぐる巻きにされていた。「元気かい? 兄弟」

「まったく」と木村は言った。「もっと早く言ってくれればよかったのに。いつからいるんだ?」

「いつからかな……」とTは顔をしかめて言った。「いつだったか忘れちまったよ。とにかくさ、手術したんだ。結構複雑だったみたいでね。両親に知らせないでほしいって言ったけど、どうやら連絡がいったみたいだな。少しあとで電話がかかってきた。でもさ、俺ってあの人たちと一緒にいると身体の機能が全体的におかしくなっちまうんだよ。だから悪いけど全然大丈夫だから来なくていいと言っておいた。そしたら妹が来てくれた。まったくね」

「部屋が汚いから掃除ばかりしていたんです」と彼女はそこで言った。「どうやったらあんな状態になるのか……」

「生きるのに忙しくて掃除している暇がなかったのさ」と彼は言った。「ところで君は元気だったかい? あれから」

「元気だったよ」と木村は言った。「退屈で、灰色で、意味のない日々だった。でもなんとか生き延びていた。写真を撮ったりしてね。何度君に連絡しようと思ったことか……」

「なんだ。連絡くれりゃよかったじゃないか」

「君を邪魔したくなかったんだよ」と木村は言った。「君は天然記念物みたいなものだから」

 そこで妹がクスッと笑った。「私もちょっとそう思います」

「なんだよそれ」とTは言った。「それはけなしているのか、褒めているのか」

「褒めているんだよ」と木村は言った。「福井から帰ってさ、いろんな人に会ったけどさ、君ほどイカれている人はいない。君ほど生命力に溢れている人もね。君といると楽しいが、一人になるとちょっと落ち込んじゃうんだよ。俺はなんてつまらないんだろうってね」

「君は自己評価が低過ぎるんだよ」とTは言った。「それはずっと前から言っているぜ。君は責任を取りたくないだけなのさ。でも一度取ってしまえば……すごい状態になる。もう、誰も予測できないような」

「筋肉モリモリになって、毛むくじゃらになって、国会議事堂にタックルするとか?」

「そんなのは朝飯前だ。大海原を割ってだね、そして……」

「まあそれはいいとして、どうしてこんなことになったんだ? 生きるのが嫌になって飛び降りたのか?」

「まさか」と彼は言った。「俺は絶望はしない。それは言ったはずだぜ? 自殺するってのは俺のポリシーに反するんだ。それは自己憐憫れんびんのなせるわざさ。実はクライミングにハマってね。ほら、岩場を登るやつさ。崖とか巨大な岩の塊なんかをさ、ロープなしで登るんだよ。分かるかい? ちょっとした隙間に指を突っ込んでさ、そんで登る。その動画をたまたま見てさ、それは普通のおじさんみたいな人なんだけどさ、もう獣みたいな顔して登っていくんだよ。そして登ったあとは清々すがすがしい表情に変わる。まわりは木とか、虫とか、風とか、そういうものしかいない。まあよく見れば熊もいたかもしれないがな。とにかくさ、俺はそれに魅せられちまったんだ。そんで自分でもやってみようと思った。最初はね、詳しい人のところに押しかけて、教えてもらった。基本的な技術とかさ。そんでメキメキ上達したよ。そうか、だから君に連絡しなかったんだ。あまりにも夢中になっていたからさ。そんで……これだ。ハッハ。一人でやっていたんだよ。実はね。あとちょっとで登頂しそうになった。何度も何度も何度も失敗してさ。ようやく上の方に行ったんだ。あと一歩だ。この腕を伸ばしさえすればってところまでいった。でも掴んだところが予想外に脆くてさ、崩れちまった。俺はショックで受け身を取るのを忘れたんだろうな。足から落ちてさ、骨折だ。ハッハ。参ったね。俺も人の子だったってことだ。這うようにして下っていってさ、ようやく電波の届くところにやって来た。そんで救急車を呼んだ。しばらく木と共にいたよ。下界のことなんか忘れてさ。風が吹いてきた。鳥が鳴いていた。でもその鳥の鳴き声がさ、なんだか俺が死ぬのを待っているみたいな鳴き声なんだ。いやいや。参っちゃったね。でも俺は生きていた。カロリーメイト大量に持っていったからな。大丈夫だ。熊にも会わなかった。幸運にもな。そんで……入院だ。手術だ。ハッハ。でも大丈夫だ。うちは金持ちだから」

「お父さんはさすがに文句言っていたけれど」と妹が言った。「お母さんは心配しているし」

「でも大丈夫だよ。たかが足だ。死ぬわけじゃない」

「君は本当に……」

「でもさ、本当に心配なのはこっちだよ。ほら、俺の妹。彼女はまともな人間代表、みたいな顔して座っているけどさ、本当は違うよ。彼女もアウトサイダーの仲間入りだ。よお、宇宙人。地球の空気は美味おいしいかね」

「美味しくはないね」と彼女はニコリともせずに言った。「だからたまに息をするのを忘れてしまう」

「ハッハ。さすがだね。言うことがいつも毒を含んでいる。さすが俺の妹だ。風呂はピカピカに磨いたかい?」

「どうすればあんなにカビが生えるんだろう。本当に……」

「でも休学したんだね?」と木村は言った。「やっぱり」

「とりあえず一年は休もうって決めたんです」と彼女は言った。「両親は始めは反対したんですけど……」

「俺が是非そうさせてくれって言ったからさ」とTが言った。「俺が意見することなんか滅多にないんだけどな。今回だけは別だ。彼女には彼女なりの思いがあって、それを俺は理解することができるって言ったんだ。でもあんたたちには理解できないだろう、って。彼女は芸術家の素質があるって俺は言っておいたんだけどな」

「そんなのないよ」と彼女は言った。「ただビョウキなだけ」

「ハッハ。そう思っておけばいいさ。今に分かるよ。自分でも」

「なんというか……ご両親も気が休まらないだろうね」

「君もつまらないことを言うんだな。俺たちは両親を安心させるために生まれてきたんじゃないぜ? 俺たちは神の意志を実現するために生まれてきたんだ。分かるかい? だから時には両親に逆らってでも、自分の考える真実を優先させるべきなんだ。それを君たち二人は理解していない。それは言い訳なんだ。君らが機械みたいになったところで、彼らは救われたりはしない。アル中にアルコールを渡して、感謝されるようなものだ。それは〈良いこと〉ではないんだよ。麻薬だ。麻薬」

「麻薬」と木村は言った。

「そうだよ。分かるかい? なぜなら人生のどの時点においても、これで安心だ、なんてことは起きっこないからだ。常に変わっているんだよ。世界も、人も。心も。真実も。だから我々はいつも意思の力を使わなければならない。いいか? 人間は決断する能力を持っているんだよ。何が善で、何が悪なのか。どの道を進めばいいのか。今この瞬間何をすればいいのか。でもそのことを忘れちまったんだ。そしてそのままほとんどの人々は死んでいく。俺はそんな奴らの一員にはなりたくないね。ああ退屈だ。どうしたらいいのか?」

「本でも読んだら?」

「読んだよ。いっぱい読んだ。こいつに持ってきてもらってな。トマス・ピンチョンはイカれているね。俺よりもイカれている。でも面白いよ。たまにわけ分かんないところに運ばれていくけどな。あとはプルーストも読んだ。こいつもイカれている。イカれ方は違っているけどな。ドストエフスキーも読み返した。この人はまともだ。でもまともにイカれている。ハッハ。ということはみんなイカれているということだ」

「病院食はまずいって言うから、いろいろ買ってきているんです。果物とか。ゼリーとか」

「ほら、冷蔵庫にゼリーあるから食べなよ。君はゼリー大好きだったよな?」

「大好きってわけでもないけど。そういえばお昼食べてなかったな」

「なに? それは一大事だ。もうこの中のもの全部食べてくれよ。俺はまた新たに買ってきてもらうから」

「まあ頂けるなら」と木村は言った。

 その後Tはレントゲンを撮るために連れて行かれた。君たちは是非外を散歩しろと彼が言うので、そうすることにした。冬の乾燥した空気の中を、二人は歩いた。彼女はぽつぽつと自分のこと、そして兄のことを話した。兄のことを話すときには、表情が豊かになった。あきれたり、笑ったり、顔をしかめたり……。でも自分のことを話す際には、基本的には無表情だった。蛇口から水滴がしたたり落ちるみたいに、ほんのちょっとずつ、言葉を選んで話をした。その声が小さかったので、木村はかなり集中して耳を傾けなければならなかった。病院から離れ、歩道をしばらく歩いたあとで、小さな公園に着いた。小学校低学年くらいの子供たちが遊んでいた。端の方の木のベンチに、彼らは腰掛けた。

 彼女は生きるという行為の意味がよく分からないのだ、と言った。こんな話をしてごめんなさい。でもそれが本心なのだ、と。木村は誠実に耳を傾けていた。肯定もしなければ、否定もしなかった。ただ聞いているだけだ。というのもそのような姿勢が必要とされているという予感が、たしかにあったからだ。

「たぶんもっと前から続いてきたことなんです」と彼女は言った。「大学に入る前からね。兄は……たぶん似たようなものを抱えていて、でもそれを……ああいう奇抜な行動を取ることによってごまかしてきたんです。でも私はそういう行動力もないし。たぶん一番の問題は、ほとんど何にも興味を持つことができない、ということなんです。ほとんど●●●●、というのは多少例外があるということではあるんですけど……」

「それは何?」と木村は訊いた。

「何冊かの小説。音楽。絵画。そんなものです。そういうものに触れているときだけ、私は正しいものに近付いている、と感じるんです。でも離れると駄目なんです。私は……嘘をついていると感じる。つまり……自分自身に対して、です」

「僕にはその感じは……たぶん分からない。でも想像することならできる。きっと……いや、よく分からないな。僕はたぶん、安易にそんなことを言うべきじゃないんだろう。僕はごく普通の人間で、たぶんごく普通に生き延びていけると思う。少なくとも死ぬまでは、だね。でもきっと君たち兄妹きょうだいは……それだけじゃ足りないんだろうね」

「兄はそうなんだろう、と思います。でも私は……よく分からない。正直なところ。ときどき死んだあとの世界について想像するんです。それがやめられないんです。そこでは……人々は穏やかに時を過ごします。というか時なんてものはないんです。お金もない。争いもない。人々はそこでは名前を失っています。そこでただ自分自身として存在しているんです。それが夢に出てきたりもする」

「その世界で生きることが――あるいは死んでいることが――幸せなのかどうか僕には分からない。いずれにせよ僕は……そうだな、この場所はこんなもんなんだろうと思っている。つまりこの世界は●●●●●、ということだね。あんまり期待しても仕方ないんだろうって。僕自身もつまらないし、たぶん僕の両親もつまらない。このまま卒業して、会社に入ったところで、たぶん似たような人生が続いていくだけだろう。そう思うと何なんだろう、と思うことはある。でもほかに選択肢はないんだと思えば耐えられなくはない。もっとひどい状況だってあったわけだしね」

「木村さんは強いんですね」と彼女は言った。「でも何か……そう、兄が言っていたみたいに、何か変わるかもしれませんよ。いつか、もっと先に。木村さんは何か自分で生み出すようになるかもしれない」

「何かって何を?」

「それは私には分かりません」と彼女は言った。

 彼女が先に歩き、彼がその少し後ろを歩いた。似たような若いカップルたちが目に付いたが、彼らは基本的には幸せそうに見えた。我々は付き合っているわけでもなければ幸せそうでもないな、と木村は思いながら歩いている。冬で、曇っていて、街は相変わらず灰色だった。いや、正確にいえば色彩はちゃんとあるのだが、彼の目を通すと、すべてが灰色の粒子に絡め取られたみたいに見えてきてしまう。走り去っていくタクシー。風に乗って移動していく菓子パンの袋。大きな荷物を持った、ホームレスらしき男。冬なのに短いスカートを穿いた金髪の女性。香水の匂いが漂ってきた。彼らはそんな道を歩いていった。途中、ふと彼女が足を止めた。木村はぶつからないよう慌てて立ち止まった。それは病院の近くの街灯の脇だった。一羽のカラスが、横たわっている。目は開かれていた。どうやら死んでいるみたいだった。

「死んでいますね」と彼女が言った。

「たしかに」と木村は言った。カー、カー、と頭上で別のカラスが鳴いていた。威嚇しているみたいでもある。自分の餌だ●●●●●、ということなのだろうか、と彼は思う。「カラスは共食いをするんだろうか」と彼は言った。

「どうでしょうね」と彼女は言った。「その場面を見たことは……実際にはないですね」

「そうだよね」と彼は言った。

 彼らはお通夜の参列者のように黙ったまま病院に戻った。Tはすでに病室に戻っていて、一心不乱にサミュエル・ベケットの戯曲集を読んでいた。「やあやあ。戻ったか」

「うん」と木村は言った。

「秘密の会話の内容を教えてほしいな。俺は」

 木村はチラリと妹の方を見た。彼女は窓の外を見ていた。そこからは絡み合った電線が見えた。「ちょっと教えられないな。すごく……ダークだから」

「そう」と彼女はTを見て言った。「すごくね」

「参ったな」と頭を掻きながら彼は言った。

 その後アルバイトがないときには、大学の終わりに電車に乗って病院に通った。木村は自分が撮った写真を印刷し、アルバムに貼り付けてTに渡した。簡単なメモも付けておいた。Tは非常に喜んでくれた。「俺が欲しかったのはこれだよ」と彼は言った。

「まあ大した写真でもないけど」

「いや、才能があるね」と彼は言った。「視点の切り取り方が独特だ。すべてに死が含まれている。いいか? それが芸術と非芸術との違いだ。死が含まれていること●●●●●●●●●●。君は朽ち果てていくものに興味があるみたいだな。ピカピカしたものとか、生命力に溢れているものは一つもない。いや、よく見ると独特の生命力はある。この草とかさ」

「ただの雑草だよ」

「雑草だから何だっていうんだ? これのおかげで二酸化炭素が少しは減っているっていうのにさ。まあそれだけじゃない。俺たちだって来世は雑草に生まれ変わるかもしれないんだからさ。雑草に注目しておくのもいいことだと思うよ。本当に」

「ありがとう。ところで彼女は毎日来ているの?」

「まあな。着替えとか、そういうものを持ってきてくれる。でももうちょっとで退院だ。そしたら彼女は福井に帰るだろう。ただあそこはな……いい場所なんだが、ずっといると息が詰まる。少なくとも俺たちのような人間にとってはな。だからアパートを引き払うのは反対だったんだ。あいつ、少なくとも一年くらいは休学するつもりだって言っていた。別にいいよ。死ぬよりはさ。でも両親に本当の問題は理解できない。そして理解できない人たちといるとフラストレーションが溜まってくる。お互いにとってよくないんだ」

「じゃあ君と住んだら?」

「俺と?」と彼は驚いたように言った。「いや……それは駄目だ。俺がおかしくなる。そして長い目で見て彼女もな。本当は君が彼女と一緒になればいいんだ。それが完璧な解決策だ」

「何も解決しないよ」と木村は言った。「きっと」

「まあ無理強いはしないけどな。だってまだ彼女いないんだろう?」

「まあね。自慢じゃないけど」

「自慢にはならないさ。ただ君はそうだな……こう見えて意外に孤独を愛する男だからな。普通の女性は近付きがたいと思うのかもしれない」

「まさか。いつもフラフラして、寂しさにやられそうになっている。かろうじて生き延びているだけだよ。本当に」

「そんなことはないさ。君は本当は強いんだよ。それを認めようとしないだけでね。まあいいさ。病んでいる宇宙人の女の子なら、一人余っている。彼女がどう思うのかは……まあそれはそれで問題だけどな。なかなか難しい子なんだ。だから無理は言わない。ちょっと頭の片隅に入れておいてくれよ。それだけ」

「足はだいぶ良くなったのか?」

「まあもうほぼ完璧だよ。医者はもっと安静にしていろって言うけどさ。あんなのは嘘だ。金を稼ぐためのね。もうちょっとしたら脱出しようと思っている。ハッハ。誰も俺を閉じ込めてはおけないぞってね」

「でも足は大事だよ」と木村は心配して言った。「また悪くしたらどうする?」

「大丈夫だ。毎日煮干し食ってるからな。身体中カルシウムだらけだ。カルシウムの夢も見たよ。真っ白でな。コチコチなんだ。そこで俺はカルシウム音頭を踊っていて」

「はいはい……」

 その数日後にTは退院した。予定をかなり早めての退院だった。まだギプスをはめていて、安静にしていなければならないはずだったが、そんな忠告を聞くわけもなく、松葉杖でいろんな場所を驚異的な速さで移動していた。「これはこれで楽しいかもな」と彼は言っていた。「新しい人類の可能性だ。歩幅も広がるし、不審者が来たらこれでぶっ叩ける」

「君が一番の不審者だよ」と木村は言った。「妹さんは帰ったんだね?」

「そう。元気になった俺と一緒にいるのが耐えられないんだってさ。ハッハ。まあそれは半分冗談で、半分真実だ。俺がさ、もう大丈夫だから帰っていいって言ったんだよ。測量士Kがいるしな」

「でも僕も大学があるし、バイトもしなくちゃならない。うちはそんなに裕福ではないから」

「大丈夫だよ。もし本当にやばくなったら助けてもらうというだけでさ。あとはこの足だけ固定しておけばいいのさ。何回か病院に行ってな。ところで君たち二人は多少仲良くなったのかな? え?」

「何度か散歩させてもらったけどね……。まあ少しは。別に付き合うとか、そういうんじゃないけど」

「君たち二人とも……なんというか、遠慮深過ぎるんだよ。ちょっとは俺を見習えよ。そんなことやっていると機会を逃し続けるぜ? そして死ぬ直前にさ、あああのときああしとけばよかったんだって言うんだ」

「そうかもしれない」と木村は言った。「でもさ……彼女に関しては……。無理に行動を起こしたくなかったんだ。というか僕自身の気持ちも分からないしね。僕らは結構深く話をした。でもそれだけだよ。それ以上のことではない。彼女は君を心配していたけど。その足というか頭について」

「ハッハ。頭についちゃもう手遅れだ。どうしようもない。行けるところまで突っ走るつもりだ。松葉杖でな。でも彼女はどうなるかな……。馬鹿なことしなきゃいいけど」

「つまり……自殺ってこと?」

「まあな。彼女は前科があるんだ。自殺しようとしたのかは分からんが……。高校時代にね、何日か続けて休んだあと、突然夜中に行方不明になった。警察も出た。俺も探した。そんで、翌朝、葉っぱとか泥とかくっつけた状態でね、帰ってきた。何食わぬ顔をしてね。でも目に隈はできていたな。あの華奢な身体でさ。何をしようとしたのかは分からない。何しろ何も言わなかったからね。男に襲われたとか、そういうんじゃなさそうだった。でも一週間は黙ったままだったね。両親はそれからというもの、俺のことを心配するのをやめて、あいつに注意を向けるようになった。もろいお姫様。てんとう虫の精霊。ちょっと甘やかされ過ぎなんだ。俺からすりゃあ」

「君は彼女が……外に出るべきだと考えている?」

「まあな。それはそうだろう。あそこは安全過ぎる。実家はな。でも何も得られない。福井だから駄目なんじゃなくて、慣れ親しんだ場所だから駄目なんだよ。心は発展を求める。少なくとも俺はそう考えている。だからさ、俺は骨折を言い訳にして動きを止めるのが嫌なんだよ。俺は動いていたい。ずっとな。彼女にこの元気を分け与えてやりたいくらいだ」

「きっと少し時間がかかるんだよ。あの子の場合」と木村は言った。「人にはそれぞれのペースがある。君みたいなチーター級の猛スピードの人間もいれば、亀みたいにゆっくりな人もいる。どちらが優れているというわけでもないんだろう。きっと」

「まあな。それは認めてやるよ」と彼は言った。「でもまあ時間は貴重だ。それだけは言える。死ぬときに後悔したくないんだよ。俺はさ」

「それは僕もそうだけど……」

「そうだろ? でもまあ君らを見ていて思うのはさ、人間を変えるってのは至難のわざだってことだよ。至難の業というかさ……そう、すんげえ辛抱がいる●●●●●●●●●ってのかな。君が言うようにさ、それは亀が百メートル進むのをじっと眺めているようなものなんだ。しかもときどき眠り込んだり、方向を間違えたりしてさ。チーターとしてはもうイライラして、とっとと先に進んじまいたくなる。まあほっといて進めばいいだけの話なんだけどさ。なんというか、たまに心配になるんだよね。俺としては」

「人間が変わるのには時間がかかると」

「まあそうだな。それは真理だ。きっと。でもそれは〈変わる〉というよりは〈気付く〉というものなのかもしれないぜ。自分の中のもっと重要なものにね」

「それは具体的に言えば何になるんだろうね?」

「知らん。自分の頭で考えろよ。測量士K」

 その一ヶ月後にギプスが取れた。彼のギプスには通りがかりの人のメッセージが所狭しと書かれていた。油性マジックを持って、いろんな人に片っ端からメッセージを書いてもらったのだ、とTは言っていた。俺には決してできないことだよな、と木村は思う。

「これ何語なんだ?」

「たぶんベトナム語だ。そしてこれがネパール語。国の言葉でアイラブユーと書いてくれって言ったんだ。みんな喜んで書いてくれた。そのあと飯おごってくれたよ。ハッハ。でもおさらばだ。俺は自由になる」

 ギプスが外れたお祝いに二人で食事に行った。病院の近くのファミレスで、二人はステーキを頼んだ。

「まあここは俺のおごりだ。好きなだけ食べていいぞ」

「どうもどうも」と木村は言った。「でもこれからどうするんだ? というか今学期大学には行ったのか?」

「全然。でも講義は登録している。もう少しで試験だから、同級生たちに連絡して、片っ端からノートをコピーさせてもらう。ハッハ。俺はそういうのが得意なんだよ。要領がいいんだな。だいたいギリギリの点数だが、親に文句言われないくらいの単位は取れるだろう。君はきっと全然余裕なんだろうな。きっと」

「まあ卒論は書かなくちゃならないけどさ、それ以外の単位という点で言えば、かなり余裕はある。就活もそろそろ始めなくちゃならない。まあきっとなんとかなるだろうと思うけどさ」

「君ならなんとかなるさ」とTは言った。「俺は大学を出たらさ、冒険に行くよ。いろんな国に行ってね。ひしひしとそう感じるんだよ。俺には経験が足らないってね。自分でもよく分かっているんだ。まだまだ未熟だってさ。だから何を書いても終わらせることができない。延々と長く書き続けることはできるんだがな。自分でもわけが分からなくなってしまうんだよ。でも大丈夫だ。俺にはできるという確信がある。俺は自由を失った人々にさ、自由の意味を教えたいんだよ。それが願いだ。そのためには……ぐずぐずしている暇はない。さあこんなのとっとと食っちまおうぜ」

「君は食べるのが異様に速いからなあ」

「早食い選手権に出たこともあるぜ。喉に詰まらせて救急車で運ばれたけどさ。ハッハ。そのせいで予選落ちだ。でもいい経験だった。病院に綺麗な看護師さんがいてさ……」

「僕も君くらいポジティブになりたいよ」と木村は言った。そして固くなった肉をなんとか噛みちぎる。

 その日以降、ほとんど二人は連絡を取らなくなってしまった。木村は木村でいろいろと忙しかったし、Tの方は骨折中のフラストレーションを発散させる必要があった。それだけでなく二人の中にはお互いが一人でなんとか自分を鍛えなければならない、という暗黙の了解のようなものができていたらしかった。何か面白い写真を撮る。そのとき木村の頭に浮かんでくるのは、もちろんTの顔だった。あいつに見せてやりたい。しかし連絡は取らなかった。彼は一人で、自分の生活を生きていた。やがて卒業し、無事に測量会社に就職した。人づてに聞いたところによると、Tは大学を中退して外国に行ったとのことだった。オーストラリアに行った、という人もいれば、スリランカの写真が送られてきた、という人もいた。いずれにせよ一人で「経験を積ん」でいることは明らかみたいだった。木村は寂しかったが、その寂しさを身に染み込ませようと努めていた。というのもここから逃げていてはどこにも行けないというような予感があったからだ。そのようにして日々は過ぎていった。


 就職した翌年にガールフレンドができた。同じ会社の一年後輩だった。おとなしい、一見地味な感じの女性だったが、話してみると意外にもユーモアのセンスがあった。そのギャップが木村を喜ばせた。二人はいろいろなことについて話し合った。彼女に撮りめていた写真も見せた。廃墟や、雑草や、さびの写真を。彼女は独特な感性があると言ってくれた。彼らは様々な場所にデートに行った。美術館や、水族館や、お洒落しゃれなバーなど……。もっとも公園を歩いているときにふとTの妹のことを思い出すことがあった。それは急にやって来て、彼の心の琴線に触れた。一瞬眩暈めまいがしたくらいだった。呼吸が浅くなり、視界が暗くなる。彼はベンチに座り、隣で心配そうに自分を見つめている女を見る。それは彼女ではない。髪が短いし、もっと……健康そうな顔をしている。彼は今のガールフレンドのことを愛していた。それはたしかだったと思う。しかしにもかかわらず、心のどこかにはTの妹のための場所が残されていた。俺は彼女に恋をしていたんだろうか、と彼は思う。でもよく分からなかった。

 大学を卒業した段階で「測量士補」という資格は得ていた。専門のカリキュラムを受講していたおかげだ。その後会社で一年と少し実務経験を積んで、晴れて木村は「測量士」となった。もっともカフカの時代とはやることがだいぶ変わっている。木村の就職した会社は比較的大手で、河川工事や、トンネル工事を請け負っていた。だから計測方法も多岐に渡った。最新の機器を使わなくてはならないことも多い。大変だが、意外にもやりがいのある日々だった。彼は持ち前の真面目さで、一つ一つ課題をクリアしていった。頭が切れるわけではないが、とにかく細かい作業や、単調な作業に根を上げることがなかったから、次第に上司の信頼を勝ち得ていった。収入は高くはなかったが、同年代の平均よりは上、というくらいだった。会社の近くにマンションを借りて住んだ。そこにときどきガールフレンドが遊びに来た。彼は料理が好きになって、そんなときに少し凝った料理を作ったものだった。スパイスからカレーを作ったり、オーブンを駆使して、フランス風の魚料理を作ったりした。適当なワインを買ってきて、彼女と二人で飲んだ。想像していたほど退屈ではないな、と彼は思う。

 もっとも歳を重ねるにつれて何かが足りない●●●●●●●と感じるようになっていった。それは――その萌芽は――おそらくは大学時代にすでに感じ取っていたことだったのだが、徐々にそれが彼の中で成長し、意識の表層に顔を出すようになったみたいだった。彼は同僚や上司たちとは、ほとんど仕事の話しかしなかった。プライベートの話題が出なかったわけではなかったのだが、そのような場合には大抵聞き手に回った。彼自身話すほどのことがほとんどなかった、ということもある。でもそれだけではなく、本当の意味では彼らとコミュニケーションを取ることができない、と考えていたことも大きかった。ある意味では自分から壁を作っていたわけだが――それは彼自身あまり好ましくないことだと分かってはいたのだが――そのような姿勢を取ることをやめることはできなかった。彼はあるときガールフレンドにまでそのような姿勢を取っていたことに気付いた。内側に閉じこもり、自分自身とだけ対話していた。彼女がそこにいる。それほどが強いタイプではなく、二人はほとんど喧嘩もしたことがなかった。そう、彼女はそこにいるさ。いつも、と彼は思っている。おそらくは結婚することを望んでいるのだろう。それは悪くない。彼女は良い子だ。派手好きじゃないし、自分自身のルールを持っている。それを逸脱しないように、いつも気を付けているのだ。彼女の両親だって、きっと慎み深い人たちなのだろう。話を聞いていて、それは容易に想像できた。彼女と結婚して、子供が生まれる。きっと可愛い子供だろう。俺は彼らを愛するに違いない。でもその先は? 俺は一生測量士のままなのだろうか? 俺はここから抜け出せないのだろうか?

 そんな折に浮かんでくるのはTの姿だった。あいつと話がしたい、と彼は思う。就職して数年すると、もう写真も撮らなくなってしまった。週末はガールフレンドとテートして過ごした。彼女と会えないときは、ただ疲れを取るために長く眠った。こんな状態でいいのだろうか、と彼は思う。あいつに見せる顔がなくなってしまうんじゃないだろうか? 俺は……知らぬ間にエッジを――人間としてのエッジを――失ってしまったんじゃないだろうか?

 おそらくは彼が「結婚してほしい」と一言言えば、彼女は同意してくれただろうと思う。しかしだからこそ彼はその一言が言い出せなかった。彼は心のどこかで「測量士K」というのは一つの暫定的な状態に過ぎないのだと考えていた。この仕事が悪いわけじゃない。堅実な、しかも社会に必要とされる仕事だ。誰にでも務まるわけじゃない。しかし俺はまだ固まってしまいたくないのだ。まだ二十代じゃないか? 世界にはいろいろな仕事がある。俺は……この歳で人生を決めてしまって本当にいいのだろうか?

 もっとも次にどうすべきか、というイメージはまったく浮かんでこなかった。彼女と別れて、一人になる勇気もなかった。彼はぐずぐずと毎日を生き続けていた。仕事は大変で、やりがいもある。現場は毎回変わり、多くの人々と連携を取っていかなくてはならない。彼は仕事に精を出した。主に、仕事以外のことについて考えるのを避けるためだった。しかし彼の心の一番奥の部分と、そして肉体はごまかすことができなかった。心の奥の部分は正直な行動を求めていた。それが彼には察知できた。肉体は休養と、アルコールを求めていた。彼は徐々に強い酒を飲むようになっていった。ガールフレンドがびっくりするくらいだった。これくらい大したことないよ、と彼は言った。今の自分にはね、リラックスする時間が必要なんだ。

 それでもある日曜日、不思議なことが起きて彼は我に返った。こんなことをしていてはいけない、と悟ったのだ。俺はまだ若いんじゃないか。本当の意味で自分に正直になるべきなんじゃないか、と。

 それは十一月の始めの日曜日の午後だった。ガールフレンドは親戚の法事で故郷の千葉に帰省していた。彼は久しぶりに一人で長い距離を歩いていた。午前中は二日酔いで寝ていたが――前日一人で夜遅くまで飲んでいたせいだ――これではいけないと身体を起こして、無理に歩き始めたのだ。空はどんよりと曇っていた。予報によれば、雨が降るのは夜からだ、ということだった。彼は傘も持たずに歩き始めた。学生時代に比べると、おなかまわりに柔らかい肉が付き始めていた。それを指でつまむこともできる。Tがこれを見たら何と言うだろうな、と彼は思う。彼は二十七になっていた。結婚の話は――そのようなほのめかしは何度か彼女の発言には出ていたのだが――彼の方からは一度も持ち出したことがなかった。仕事は順調だった。むしろ順調過ぎるくらいだ。ひたむきで、周囲の悪口を一切言わなかったから、上司に信頼されていた。給料も上がった。おかげでもっと高い酒を買うことができるようになった。彼は歩き続けていた。都会の街は人々でいっぱいだった。彼は彼らを掻き分けるようにして進んでいった。久しぶりに感じる孤独が今は心地良かった。目的地も決めずに歩いていた。外国人やら、奇抜な格好をした若者たちやら、女子高生やら、サラリーマンやら、様々な人々の脇を通り過ぎていった。見える光景は哀しげだった。彼には人間のすべての営為が、結局はむなしいもののように、感じられていた。何をしても結局は死ぬ、と彼は思っている。みんな彷徨さまよっている。このように移動して、最終的にはどこに行き着くんだ? 彼らは求めているものを手に入れることができるのだろうか? 果たしてそれは本当に「物」なのだろうか? 彼らは本当にそこにいるのだろうか? 俺がそう思い込んでいるだけではないのか?

 ふと足元を見るとカラスが死んでいた。黒い、ごく普通のカラスだった。強烈な既視きし感が彼を襲った。俺は明らかに似たような――いや、まったく同じ●●●●●●――光景を前に見たことがあった。あれはいつのことだったか……。そんなに昔じゃない。思い出せ。思い出すんだ。それは俺の心にとって非常に重要なことなんだから。これは気のせいじゃない。俺の中の何かがうずいているんだ。非常に深い場所にある何かが……。

 ドクン、という心臓の鼓動が鳴った。すごく大きな鼓動だった。そのタイミングで思い出した。そう、病院にTの見舞いに行ったときに、彼の妹と散歩をしている途中で見たのだ。まさにこんな感じだった。街灯の脇。外傷は見当たらない。しかし、確実に死んでいる。息が苦しくなっていた。心臓がドキドキと高鳴っている。一度目をつぶり、深呼吸をした。そして目を開ける。状況は何も変わっていなかったが、少しだけ落ち着きを取り戻していた。背後を歩く人々は、そんなものには目もくれない。ただ足早に、歩き去っていく。しかし木村は離れることができなかった。これは何かを意味しているのだ、と思っている。意味しているはず●●なのだ。そしてそれを、俺は理解しなくてはならないのだ。

 彼はとっさにスマートフォンを取り出して、写真を撮ろうとした。この光景を保存しておかなければならないと思ったのだ。しかしその瞬間、一人の女性が横を通り過ぎていった。死骸にはチラリとも目を向けない。細身のジーンズに白いスニーカーを履き、紺色の薄いコートを羽織はおっていた。黒い髪は長かった。その後ろ姿はTの妹に酷似していた。彼はスマートフォンをポケットにしまい、彼女のあとを追い始めた。本当にあの子なのかどうかは分からない。でもカラス、そしてこの後ろ姿……。なんだか偶然ではないような気が、彼にはした。ほとんど何を考える暇もなく、彼はあとをつけ始めていた。心臓はまた高鳴り出していた。今日は変なことが立て続けに起こるな、と彼は思う。

 彼女はまっすぐ歩き続けていた。彼は声をかけようか、ずっと迷っていた。でもなかなか勇気を出すことができない。もし間違っていたらどうしよう? それに本人だったとして、今さら何の話をすればいいのか?

 しばらくあとを付け続けていた。でも信号待ちで止まったときに、さりげなく横に立った。そのとき彼女がよく似た別人であることが分かった。鼻や、目の作りがよく見ると違っている。それに実際の彼女の年齢よりももっと若いみたいだった。彼はそれ以上追うのをやめた。細い背中はどんどん遠ざかっていった。彼は一度曇り空を見上げ、そして自分の足元を見た。自分がひどくみすぼらしい、意味のない人間になったような気がした。法事に行っているはずのガールフレンドの姿が頭に浮かんだが、そのイメージはすぐに消えてしまった。あとを埋めたのは二十歳はたちのときの福井の思い出だった。俺は結局のところ、あれから本当の意味で人生を楽しんだことが一度もなかったのではないか、と彼は思う。

 引き返して、元の場所に戻った。無意識にまたあのカラスの死骸を見たいと思っていたのかもしれなかったが……ない●●。確実に同じ場所に戻ってきたのに、何も、一切なくなっていた。誰かが片付けたのかもしれないし、別のカラスに食べられたのかもしれない。いや、まさか、こんな短時間で食べられるわけがない。それに骨はどうするんだ?

 カー、カー、という鳴き声が聞こえた。上を見ると、木の枝に一羽のカラスが止まっていた。あの死んでいたのとは別のやつだ。というか、そのはずだった。あそこから生き返ることはあり得ない。しかし彼にはどうしても同じカラスに見えてしまった。それはじっと彼を見つめていた。まるで何か伝えたいことがあるかのように。カー、カー、とまた鳴いた。そして、突然、飛び去ってしまった。どこか遠くの方へ。

 その出来事がなぜか彼に踏ん切りをつけさせたみたいだった。自分でもなぜかは分からなかったのだが、あのカラスの視線が――彼の中では死んでよみがえったことになっている例のカラスの視線が――勇気を与えてくれているような気がしたのだ。あれは結局のところ真実を見ている視線だった、と彼は思っている。あの視線の前では人は嘘をつき続けることができない。そんなことをしても結局は何のためにもならないことを、本能的に悟らされてしまうからだ。

 次の週に、彼はガールフレンドを呼び出して、別れ話をした。言い出すまでは緊張したが、最初の一言が出てしまうと、あとはすらすらと言葉は出てきた。彼女は黙ってそれを聞いていた。ショックも悲しみも、その顔からは読み取れなかった。彼は遠い場所にある海のことを考えていた。そしてそこに人知れず降りしきる雨のことを。

 彼らは混み合ったファミレスにいた。二人でよく来た場所だった。「長い目で見て、こうするのが一番いいと思ったんだ」と彼は言った。彼女は手の付けられていないコーヒーのカップを、ただじっと見つめている。

 沈黙が続いた。ひどく長い沈黙だった。周囲にいる人々は彼の目には皆幸せそうに見えた。小さな子供たちが騒いでいた。若い女性たちがおしゃべりをしていた。ウェイターの男の子が忙しそうに行き来している。そして罪のないBGM……。

「ほかに好きな人ができたってこと?」と彼女は小さな声で言った。彼は首を振った。

「いや、そういうわけじゃない」。でもその瞬間、あの髪の長い女性の後ろ姿が頭に浮かんできた。俺はあれをTの妹だと勘違いしたのだ。もし本当に彼女だったら……俺はどうするつもりだったんだろう? 俺は今嘘をついているのではないか?

「いや、分からない。でも……本当に今付き合っている人はいない。君のほかに、ということだけど」

「ときどき」と彼女は目を合わせずに言った。「あなたが何を考えているのか分からなくなることがあったの。というか……最近は特にね。しょっちゅうあった。私はそれを教えてもらいたいと思っていた。でもあえて●●●訊くことはしなかったの。あなたから話してもらいたかったから。でもあなたは自分の中に閉じこもっていて……当たりさわりのない話しかしなかった。私には理解できないと思ったから話さなかったの?」

「僕には……分からない」と木村は言った。「自分でも分からないんだ。自分で何を考えているのか。いた●●のか。でも今回の件に関していえば、君の方に落ち度は何もない。完全に僕が悪いんだ。僕が僕の都合で……今は一人になった方がいいだろう、と思った。ただそれだけのことだよ。僕は別に……大したことを考えていたわけじゃない。僕は君の考えているような立派な人間じゃない。いつも迷っているし……くだらないことばかり考えている。ときどき自分で自分が嫌になる」

「あなたは……」と言って彼女はそこで初めて彼の目をまっすぐ見た。透明な目だった。木村はドキッとして、目を逸らそうとした。でもなんとか踏みとどまった。「本当は何を求めているの?」

「僕には分からない」と彼は言った。「ずっと分からなかったし、これからも分からないままかもしれない」

 カー、カー、というカラスの鳴き声が聞こえた。頭の奥の方でのことだ。彼はその鳴き声をじっと聞いていた。結局のところ、これ以外に重要なことなんか何もないのではないか、と思いながら。

 彼女が仕事を辞めた。同じ職場とはいえ、木村は外に出ていることが大半だったから、実際にはそれほど顔を合わせる機会が多かったわけではない。彼女は始めのうちはごく普通に振る舞っていた。会社の人間たちには付き合っていることは一度も言ってはいなかったが、何人か知っている人たちはいたと思われる。それでも努めて平静を装っているうちに、このまま今まで通り平穏に日常が続いていくのではないか、と感じられるようになった。もっとも彼女が居づらそうだったら、彼は自分が仕事を辞めようと考えていた。この会社での立場を失うのは痛いが、ずっといたいわけでもない。そろそろ環境を変えるのもありだろうと考えていたのだ。でも彼女が仕事を辞めた。理由は分からなかった。かなり急な話だったので、みんなが驚いていた。何か知っているか、と上司に訊かれた。いや、何も、と木村は答えた。

 申し訳ないとは思ったが、彼女がいなくなったことによって、木村の生活はよりスムーズになった。彼は積極的に職場では機械になろうと努めていた。表情を持った機械だ。彼は会社のために身をにして働くことができたし、その間は本心のことを考えなくてもよかった。彼は空白を恐れた。いた時間は酒を飲んだり、テレビを観たりして過ごした。後輩を連れて居酒屋に行くこともあった。何度か女を買ったが、そのたびにひどく後悔した。俺は努力して自分を空っぽにしているみたいだな、とある夜彼は思った。でもその空っぽさの真ん中●●●を、見つめることができないのだ。そのようにして日々は過ぎていった。時は掴むことができなかった。掴もうとしたときにはもう、彼の手の届かないところに移動していたからだ。彼は三十歳になった。そして自分に嫌気が差し始めてきていた。自分が退屈な「大人」の一員になったことが分かった。そして彼の身に付けた技術といえば、その退屈さを――空虚さを――ごまかす笑顔だけなのだ。彼は自分の仕事を憎み始めていた。それが社会の役に立っているからこそ、憎み始めていたのだ。なぜなら社会の中心にあるのはだと彼は感じ始めていたからだ。穴が歯車を動かす。大きなものも、小さなものも。外側に行けば行くほど、真ん中との関連は少なくなる。そしてそのうち目的そのものを忘れてしまうのだ。しかしすべてを動かしているのは穴だ、と彼は感じている。穴が人々の魂を動かし、穴が社会を形作った。そして人々がかえっていくのも穴なのだ。時間とエネルギーと金をついやして、人々は穴を作り出している。そう、社会が穴を作り、穴が社会を作っているのだ。そのようなイメージが、彼の中では常に存在していた。彼は穴を憎み、穴に心を惹かれた。生き続けることの中に、いったいどんな意味があるというのだろう、と彼はよく思った。

 五月の末に、ある夢を見た。測量を頼まれる夢だった。トンネルを掘る予定の山に、一人で来ていたのだ。彼はヘルメットをかぶっていた。でも、機械がない。どうして忘れてきたのだろうな、と思う。そのとき携帯が鳴る。彼は応答する。もしもし、と言う。相手は何も言ってこない。もしもし、と彼はもう一度言う。そのときあちら側から声が聞こえる。もう遅い、と。

 何が遅いのかは分からなかったが、電話は切れてしまった。彼はそれをポケットに戻す。山に入ってみることにする。何もしないよりはましだろうと思ったのだ。すると木のそばにカラスが落ちていた。カラスの死骸だ。それには首が付いていなかった。しかし……血も出ていない。

 彼はそれをじっと見つめていた。すると先の方に羽が落ちているのが分かった。黒い羽だ。それを辿っていく。一枚、二枚、三枚……。まるでみちしるべのように、それは落ちていた。進めば進むほど山は深くなっていった。怖いとは思わなかった。この羽を辿っていけば、また元の場所に帰れるのだから、と彼は考えていたのだ。

 百枚くらい辿っていった先に、少し開けた場所があった。そこだけ円形に木が切り倒されていた。切り株だけが残っている。彼はその場所の中心に立った。そして上を見る。そこには太陽があるはずだったが……太陽はなかった。代わりにあったのはだった。黒い穴だ。真っ黒で、ちょうど太陽と同じくらいの大きさをしていた。それは真下にある彼を見つめていた。彼にはそれが分かった。そのときバタバタ、という羽ばたくような音が聞こえた。彼ははっとして後ろを見る。そこには首のないカラスがたくさんいた。ついさっきまではいなかったはずなのに……。

 いずれにせよ山のようにそれらは積み重なっていた。そして今、一羽、もう一羽とどんどん羽ばたいて空に消えていった。鳴き声は聞こえない。当然だ、と彼は思っている。なぜなら頭がないのだから。

 すべて飛んでいってしまうと、カラスがいた場所に一人の女が現れた。全裸で、髪が長くて、肌が白い。以前見たことのある女だった。それはTの妹だった。死んでいるのかとも思ったが、ゆっくりと呼吸をしていた。彼女は十九歳のときのままだった。彼は彼女に近付いていく。勃起しているのが分かった。彼はその乳房に触れようとした。ほとんど膨らみのないその乳房に。そのとき彼女の口がかすかに動いた。彼女はこう言った。「あな」と。

 彼は上を見た。そこには穴がいていた。太陽のような大きさの穴。ドクン、という心臓の鼓動のような音が鳴った。その音に合わせて、穴の輪郭が細かく震えた。穴。

 彼は視線を彼女に戻す。しかし彼女はすでに白骨化していた。全部が白い骨だった。真っ白な骨だ。彼はそれに触れた。胸があったはずの場所。それはひどく冷たかった。カタカタカタカタという音が鳴った。その骨が震えているのだった。カタカタカタカタと鳴った。そしてドクン、という大きな鼓動。風が吹いてきた。ひどく冷たい風だった。ここはどこなんだろう●●●●●●●●●●、と彼は思う。そしてあたりを見回す。でも木々は鬱蒼うっそうとして、その奥には何も見えない。山が作り出した暗闇が、意識を圧迫してくるように感じた。彼は目を閉じた。そして両手で耳を塞いだ。しゃがみ込んだ。でもその音は消えなかった。カタカタカタカタ、とずっと鳴り続けていた。ドクン、という鼓動の音もまた。何のために俺は生まれてきたんだろう、と彼は思う。心から思う。でもその瞬間、自分にはもう心がないことに気付いた。彼は空っぽだったのだ。そこで目が覚めた。

 嫌な夢だった。嫌な夢だったが、見過ごしてはならない夢だとも感じた。台所に行って、ミネラルウォーターを飲んだ。どれだけ飲んでも足りないような気がした。彼は空に浮かんだ穴について考えている。あれは何だったんだろう……。

 Tの妹も出てきた。彼女は全裸で、美しかった。その肌は陶器のようにつるりとしていた。彼はその肌に触れたいと思ったのだが、触れたのはただの骨に過ぎなかった。あれは冷たかった。キンキンに冷やされた鉄のように冷たかったのだ。そしてひどく固かった。あの光景の全部は――そしてあの音は――何を意味していたんだろう?

 翌日、仕事帰りに、カフカの『城』を買った。昔読もうとしたことがあったが、最初の方でやめてしまったのだった。そのあと本は処分してしまった。彼はまずあれを最後まで読んでみようと思い立った。そうすれば……あるいは今の俺の状況を理解する手助けになるかもしれない。

 でも頑張って読んだところで、自分の精神を助けてくれそうな場面は見つからなかった。測量士Kは様々な人々に会い、様々な奇妙な話を聞かされるが、結局のところいつまで経っても城に辿り着くことができない。もっともその文体は彼の興味を惹いた。表面的には筋の通ったことを言っているように見えても、離れてみると何かが歪んでいるのだった。彼はその秘密を解き明かしたいと思った。それでカフカの別の作品も読んでみた。『審判』とか『失踪者』などだ。しかしどれだけ読んでも一番大事な謎は解決しなかった。むしろどんどんその迷宮に入り込んでしまうような気がした。彼は本を読むのをやめ、日常に戻った。しかし現実はあまりにも退屈で、単調だった。これから四十歳になるまで、俺は何を成し遂げられるのだろう、と彼は思う。でもよく分からなかった。表面的にいえばある程度のことは成し遂げられるだろう。トンネル、道路、河川の工事。公共事業はたくさんあった。そしてそのたびに、誰かが正確な地形図を作らなければならないのだ。もっとも自分の心となると……。

 彼は耐えがたい不毛さを感じた。Tに会いたかった。福井の空が懐かしかった。海が、崖が、田んぼが、蝉の声が……。あの頃俺は何かを信じていたのではなかったか? 今では忘れてしまった何かを……。そういえばあいつは昔、人間が変わるのには長い時間がかかる、というようなことを言っていた。ある人はチーターのように進むが、ある人は亀のようにしか進まない、と。俺は亀だ、と彼は思う。ここまで来ても、まだ勇気を出すことができない。というのも先に何があるのか分からないからだ。何をしたらいいのか分からないからだ。かといって死ぬほど追い詰められているわけではない。八年かけて作り上げたシステムによって、俺はほとんど自動的に生き延びていくことができる。ルーティーンに従って、同じ時間に起き、同じ時間に寝ればいい。職場では論理的思考だけを働かせればいい。簡単なことだ。本心が入り込む必要もない。そのようにして時は過ぎていく。

 ある朝鏡を見た。顔を洗って、ひげったあとのことだ。いつもならそのまま次の行動に移る。しかしその日だけは鏡から目を逸らすことができなかった。今こっちを見つめているこの男は誰だ? と彼は思う。それは自分自身の顔には見えなかった。自分の顔をこんなに真剣に見つめたのはずいぶん久しぶりのことだった。もちろん散髪に行ったりしたときには、多少は見る。でもそれはあくまで全体像を確認する、という程度に留まっていた。要するに変なところがなければいいわけだ。特に同僚や上司に変ですね、と言われなければ。しかし今、この瞬間、ここにいる男は何か別の存在に見えた。右と左で微妙に各パーツの位置が違っている。眉毛の生え方、鼻穴の大きさ。唇の形……。今まではなかったシミのようなものができていた。昔と比べて、肌につやがなくなっている。でも問題はそんなことではなかった。彼はおそらくは生まれて初めて、「自分」という枠組みを離れて自分を見たのだった。そこにいたのは「木村和彦」という一人の測量士ではなくて、ただのグロテスクな肉の塊だった。そしてどうやら見たところ、こいつは意識を持っているのだ。彼は一瞬、名前を忘れた。自分の職業も忘れた。ただそこにいて、じっと鏡を覗き込んでいた。両手で顔を触った。一つ一つのパーツの形を、大きさを、歪みを、正確に覚えておこうと思った。まるで立体的な地図を作るかのように……。

 そのとき不思議な音が聞こえてきた。カタカタカタカタという音だ。あの夢で聞いた音だ、と彼はすぐに悟る。Tの妹の骨が鳴らしていた音だ。カタカタカタカタ、とそれは鳴っている。これは死者の鳴らす音だ、と彼は思う。そして目を閉じる。カタカタカタカタ、とそれは鳴っている。ドクン、という大きな鼓動も聞こえた。それは、彼自身の鼓動ではない。上にある、空にいている、大きな穴の鼓動だ。カタカタカタカタ、と鳴り続けている。そして突然、んだ。

 無音。無音。無音……。

 彼は一瞬、空白を見ていた。いや、違うな、とすぐに思い直す。俺はあの骨の白さ●●を思い出していたんだ。混じり気のない白だった。本来この世には存在しない白だ。だからあれはすでにあの世に行っていたということになる。いや、つまり、あのとき俺が●●あの世に行っていた、ということなんだろうか? 俺は……。

 ブー、ブー、というブザーの音が聞こえた。彼はそこで我に返った。空白は消え、鏡の奥の男は「木村和彦」に戻っていた。「測量士K」だ。彼は頭を振り、意識をなんとか通常モードに切り替えたあとで、スマートフォンのところに行った。こんな朝早くに誰だろう? 嫌な連絡でなければいいが……。

 画面を見ると知らない番号からだった。迷惑電話の可能性もあった。以前何度かあったのだ。わけの分からないアンケートに協力しろだの、どこそこのマンションに興味はないかだの……。でも出てみることにした。何かが頭の奥でうずいていたからだ。その何かはおそらくはこう言っていた。これに出なければ一生後悔するぞ、と。

「もしもし」と彼は言った。ちなみに時刻は午前六時四十六分だった。普通の神経を持った人間は、こんな時間に電話をかけてきたりはしない。「もしもし!」

「ああ、君か?」とその相手は言っていた。「やあやあ。俺だよ。俺。覚えているかい?」

「Tか?」と木村は言った。「本当にそうなのか?」

「ハッハ。声が少し低くなったな。あるいは俺もそうなのかもしれんが。どうだい? 今何歳になった? もう四十くらいだっけか?」

「君と同じ歳だよ」と彼は言った。昔の日々が、急に頭に蘇ってくる。「三十歳。秋に三十一になる。いいかい? みんな等しく同時に歳を取るんだ。こっちだけ早いということはない」

「ああ、そうだったか。長いこと地球を離れていたんで忘れていたよ。火星にいたんだ。実はさ」

「本当に?」

「冗談に決まっているだろ? ハッハ。相変わらずだな」

「どこにいるんだ?」

「どこって……日本さ。というかさ、久しぶりに帰ってきたんだ。ハッハ。長いこと海外にいたもんでね」

「どこに行っていたんだ? 今まで……」

「いろいろだよ。最初はオーストラリアでワーキングホリデーをやって……金を貯めてアメリカにも行った。メキシコにも、南米にもね。東南アジアも回ったな。マレーシアとかさ。ハッハ。いろんな経験を積んだよ。とても一言では言えない。君の方はどうだ? 何をしていたんだ?」

「測量をしていた」と木村は言った。「せっせとね。そんで、僕らが作った地図を元に、道路とか、トンネルとか、そういうものを作るんだよ。やりがいのある仕事だ。社会に必要不可欠な仕事だ。でも僕はもう辞める」

「どうして?」

「どうしてって……。分からない。さっき決めたんだよ。ついさっきさ。僕はもう測量士Kではなくなる。ただの人間になる」

「ただの人間になって……何をするつもりなんだ? どうやって食っていく?」

「貯金はある。結婚はしていないし、贅沢しなければしばらくはやっていける。失業保険だってもらえるんじゃないかな。でも……具体的には分からない。何も、決まっていないんだ。君は結婚している?」

「ハッハ。俺に●●そんなこと訊くなんてな。彼女はいたよ。というかいた時期もあった、という意味だが。俺って結構モテるんだよ。実はね。でも長くは続かない。ハッハ。自由が大事だからね。実は俺今成田にいるんだよ。ついさっき飛行機を降りてさ。なあ、俺たち会わないか? 今日でも明日でもいいけどさ、なんか新しいことやろうぜ。誰も予想できないことを」

「なんで俺に電話をかけてきたんだ? このタイミングで? ほとんど十年ぶりくらいだ」

「君のことはずっと頭に残っていた」とTは言った。「ずっとね。俺にしては珍しいくらいだ。知り合いができては忘れ、またできては忘れっていうのが普通なんだけどさ。でも君のことは覚えていた。そしてそろそろ次に進もうとしているんじゃないのかな、って思ったってわけさ。ただの勘だよ。勘」

「なあ、一つ訊いてもいいか?」

「いいよ、もちろん」

「人は何のために生きるんだろう?」

「ハッハ。最高だね。君らしい質問だ。実に君らしい」

「んで、答えは?」

「俺には分からないよ。残念ながらな。ハッハ。失望したか? あれからずっと旅して回ってもさ、全然分からないんだ。でもさ……何かに動かされてる気はするね。それはずっと感じ取ってきたことだ。そしてその何かの声を聞いた方が……聞かないよりはいいんじゃないかという気がするね。なんとなくさ」

「それが君の学んだこと?」

「まあな。悪いな。失望させてしまって」

「いや、失望はしていない」と木村は言う。「僕は……ほとんど何も学ばなかったようなものだから。仕事をして、生き延びていた。ガールフレンドと付き合って、別れた。彼女を傷つけたと思う。僕のせいでね。でも一緒になるわけにはいかなかった。それが本心だったからだ。僕は……」

「君は?」

「うん、僕はね、たぶん長い時間をかけて、自分をり減らしてきた。擦り減らしたいと思ったわけじゃないんだけど、結果的にそうなってしまった。そしてついさっきね、それは酷いことだ●●●●●●●●、と気付いたんだよ。僕が学んだのはそれだけだな。僕は一瞬名前さえ失ってしまった。ねえ、自分の名前を忘れたんだ。僕はなんでもなし●●●●●●になった。そしてただ自分を見つめていた。何と呼べばいいのかも分からない自分のことを」

「これから名前を見つければいい」とTは言った。「それでいいんだよ。きっと。いいか? 君は一度ゼロになったんだ。それが必要だったからだ。これから変わる。どんどん変わる。いつかは死ぬよ。それはたしかだ。でもそれまでにはまだ時間がある。君は何をしたい?」

「君の妹に会いたい」と木村は言った。「どうしても会わなくちゃならないような気がするんだよ」

「それは……」と言いにくそうにTは言った。「なんというかな……」

「なんというか何なんだよ」と木村は言った。全裸の彼女、そして白骨になった彼女の姿が鮮明に浮かんできた。彼女は死んだのだろうか? カタカタカタカタという音がどこかで鳴ったような気がした。「まだ生きているんだろ? 結婚していても、恋人がいても構わない。ただ会って、少しだけ話がしたいんだ。それだけなんだよ」

「彼女は非常に暗いところにいたんだ」と少し声のトーンを落として、彼は言った。「非常に、ひじょおぉぉぉぉに、暗いところだ。いいかい? 彼女は二度自殺未遂をした。最初は二十代の始めで、次がついこの間だ。彼女は大学を辞めたんだ。結局ね。で、自宅で、文章を書いたり、絵を描いたりしていた。俺がそれを勝手にいろんな人に見せてさ、褒めてくれる人もいたんだ。でも長くは続かなかった。彼女は闇に呑まれてしまった。外出しなくなり……睡眠薬を大量に飲んだ。そのときは母親が見つけたから助かった。二ヶ月くらい入院していたね。でも出てきた。俺はその時期スリランカにいたんだが、すっ飛んで帰ってきた。んで顔を引っぱたいてやろうとしたんだが……実際に会うとさ、そんな気持ちもなくなってしまった。静かでさ……ニコニコしているんだ。なあ、ニコニコしていたんだぜ? 死のうとしていた女がだよ。俺は面食らってしまった。あんまりしゃべんなかったが、彼女は『私は大丈夫だから』と、そういったことばかり言うんだ。何が大丈夫なもんか。いいか? 絶対に死ぬなよ、と俺は言っておいた。彼女は頷いていたが、どこまで本気だったのかは分からない。でもそのときは回復したんだよ。ゆっくりとではあったがね……。そんで退院したあとはね、自分でカウンセリングにまで通ったんだ。彼女は自分なりに足掻あがいていたんだ。この世でなんとかやっていくためにね。そんで大学に入り直した。心理系の資格を取るためさ。自分もカウンセラーになって、病んでいる人を助けたいんだと彼女は言っていた。俺は何度か電話で話をしたんだがね、そのときは元気そうだった。ただ完璧に治ったわけじゃないことはよく分かってはいたがね。いいかい? 俺たちの病気ってのはさ、死ぬまで治んないんだ。それはつまり固まりたくない●●●●●●●っていう病気だからさ。分かるかい? 君も同類だよ。測量士K。いや、測量士K。普通の人間は固まれば安心する。ああこれで食いっぱぐれないぞ。頭を使う必要もない。勇気を出す必要もない。おんなじことをやっていれば、年寄りになるまで生きていけるんだぞってね。でも俺たちは違う。俺たちはそんなことをしたら一瞬で窒息してしまうんだよ。彼女がカウンセラーになるってのも、どこまで本気なのか分からなかった。結局は両親を納得させるためなんじゃないかとね。そういう意味では彼女は俺よりも弱かったんだ。俺は周囲が何と言おうと何を思おうと気にしない。ただ衝動のままに動く。腹が立てば怒るし、悲しければ泣く。しかし彼女はそうじゃなかったんだ。彼女は幼少期からね、自分の本心を隠すことに慣れ過ぎてしまっていたんだ。そのツケが回ってきたのさ。二十代になってね。でもさ、最初はうまくいきそうに思えた。新しい大学もね、ちゃんと通っていたんだよ。奨学金借りてさ。でも卒業したあたりでおかしくなった。そのあと大学院に行けば資格が取れたんだが、彼女のエネルギーは尽きてしまったらしい。実家で休んで、また絵を描いたりしていた。なあ、彼女何を描いていたと思う? その時期にさ。カラスばっかり描いていたんだ。カラス●●●だよ。カラス。そしてほとんどが頭がないんだ。両親は気味きみがっていた。でもそんなこと言えないもんな。また死ぬとか言い出すかもしれないから。そんで、そのあと一年くらいしてかな、また東京に行くと言ったんだ。そして出てきた。しばらくある出版社でバイトしていた。なあ、彼女がだぜ? その時期にちょっとだけ会ったが――一時帰国したときに会ったんだ――自分で金を稼ぐことができて嬉しそうだった。こっちで文章や絵で生計を立てていくことが夢なんだと彼女は言っていた。それは素晴らしい、と俺は言った。というのも俺たち兄妹きょうだいがね、長く雇われびとでい続けることはできないってことは明らかだったからだよ。そう、俺たちは自由にならなくちゃな、と俺は言った。なんとなく口振りからするに恋人もいるみたいだった。もう二十代後半になっていたからな。好きにすればいい。俺は文句は言わない。

 でもそいつと何かあったのかもしれんな。いや、それは推測に過ぎないんだが……。とにかくついこの間だ。三週間くらい前かな。彼女またやったんだ。睡眠薬だ。でも不思議なのは、自分で救急車を呼んでいるんだ。もっともその時点で結構時間は経っていたみたいだが。ふっと意識を回復して、電話した。救急隊がドアを押し破って入ってきた。どうもそうだったらしい。なんとか一命は取りめたよ。だからどこまで本気だったのかは分からん。両親が慌てて福井から出てきた。俺も連絡を受けた。正直ね、あんまり驚かなかったよ。俺たちはこういう運命にあるんだって知っていたからさ。いいかい? 一種の綱渡りなんだ。いつ闇に呑まれるか分からない。だから前を見て進み続けなければならないんだ。止まったら終わりさ。バランスを崩して、下に落ちていってしまう。俺はそれを知っていた。いいかい? 俺だって闇の気配を感じながら生きているんだ。というかだからこそ●●●●●いつも突っ走っているわけだが。

 うん、そんで、帰ってきた。彼女は今は病院にいる。危険な状態は脱した。でも精神科病棟にいるのさ。ハッハ。参ったね。でも俺は彼女が異常だとは全然思っちゃいない。むしろ自由を売り渡して普通に生きている一般人の方が異常に思えるくらいさ。俺たちは自由じゃなくちゃ駄目なんだよ。たとえそれが制限された自由だとしても、だね。自由を目指していますって姿勢を、自分自身に見せなくちゃならない。そうじゃないと窒息してしまう。嘘になるからだよ。嘘」

「彼女と話はしたの? つまり……その二回目のあとに」

「少しだけな」と彼は言った。「ほんの少しだけ。また失敗したな、って俺は言ったんだよ。笑いながらさ。自殺の才能ないんだよ、と俺は言った。そうかもね、と彼女は言って笑っていた。でも不思議な場所にいたの、とも言っていたな。森の真ん中で、そこだけ円形に開けていて、穴が見えたって言っていた。太陽みたいな穴だって」

「それで?」

「ええと……それで……そうだ。君のことを言っていた。今まで忘れていたよ。そんなのはただの夢だと思っていたからな。彼女は……そう、そこで骨を見たと言っていた。そしてそれは君の骨なんだそうだ。彼女にはすぐに分かったって。木村さん今何してるんだろうねって言っていた」

「なんて言ったんだ? 君は?」

「たぶん測量士をやっている」と俺は言った。「彼女はさ、木村さんが心配だって言ったんだよ。そう、思い出した。あの人死んだんじゃないかって。いや死んじゃいないって俺は言っておいた。というのも君がちゃんと生き延びているっていう予感があったからさ。測量士Kは簡単には死なない。彼は死ねないんだ。タフだからさ。城を探し続ける運命にあるんだって言っておいた。彼女はそれはよかったと言っていた。なあおかしいと思わないか? みんな自分のこと心配しないで、他人のことを心配するんだよ。まずは自分のケツを拭けってんだ。そう思わないかい?」

「きっとそうなんだろうね」と木村は言った。カタカタカタカタという音は消えていた。「ねえ、彼女も含めてさ、何か新しいことができないかな? それが求められているような気がするんだよ。なんとなくね」

「まあ聞いてみよう。じゃあ今日か明日、彼女の病院に行こうぜ? それで決まりだな?」

「今日行こう。もう仕事には行かない」と彼は言った。

 電話を切ったあと、椅子に座って、ただ深呼吸をしていた。電気も点けなかった。カーテンを開けていなかったので、部屋は薄暗かった。しかしその隙間から、日光が入り込んできていた。それは斜めの線を形作り、床を照らしていた。彼はその線をじっと見つめていた。そして穴について考えようとした。人々を動かし、時に呑み込んでしまう、黒い穴のことを……。

 ドクン、という鼓動が鳴って、目を覚ました。知らぬ間に眠り込んでいたみたいだった。時刻を見ると、午前十時十八分だった。すでに仕事は始まっているはずだった。彼は立ち上がり、着替えて、部屋を出た。外の世界は明るい陽光に包まれていた。風が吹いてきていた。何羽かのカラスが、電線から世界をろしていた。彼は何かを考えようとした。何か、意味のあることを。でも何も頭に浮かんではこなかった。彼はただの容器として、この世界に存在していた。

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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