リンボ(辺獄)より

 夕方の最も仕事が忙しい時間帯に電話が鳴った。

「もしもし。どちら様でしょうか?」

「店長、俺っすよ俺」

「ああ、君か・・・というか今何時だと思っているんだ。本当なら三十分前に来て働いているはずなんだが」

「いや、それがですね・・・クスクス」

「なんだその笑いは?」

「いや、実をいうと、俺今日の午後三時に死んじゃったんですよ」

「なんだって?」

「いや、だから今日の午後三時に死んじゃったんです。だから今日はバイト行けないんですよ」

 私は一瞬何と言おうか迷ったのだが、とりあえずは彼の話を最後まで聞いてみることにした。

「詳しい話を教えてくれないか?」と私は言った。

「それがですね」と彼は言った。「今日銀行に行って、ATMでお金を下ろしたんです。そんでそのあとでハンバーガー屋に行って、ポテトとシェイクと、チーズバーガーを頼んで・・・」

「とりあえず要点だけでいいから」

「ああそう・・・結局シェイクは頼まなかったんだった。なんか魚が食べたい気分だったんっすけど、なんかほら、それって健康っぽくて恥ずかしくないですか? ほら、俺一応アウトサイダーということになってるんで」

「まあ」

「そんで、ええと・・・。まあとりあえずその部分ははしょりますね。そんでその店を出て、道を歩いていたら・・・。そうそう、高校んときの同級生に会って、おう何してるんだって話になって・・・」

「頼む。要点だけで」

「はいはい分かりましたよ。そんでその同級生の弟がなんか大学二浪して入ったくせに二年留年して、ようやく今年卒業だっていうんで・・・」

「君がいないせいで仕事が押しているんだよ」と私は言った。

「オーケーです。店長。いつも真面目な店長。それで、その同級生と別れたあとに――またどっかで会おうとか言ったんですけど絶対に会わないですね。ハハ――ええと、そう、道路の脇になんか野良猫がいたんですよ。ああでも首輪してたか。だから野良じゃなくて、どっかの飼い猫だったのかもしれない」

「どんな色だった?」

「色? なんで色になんて興味があるんですか? まあいいや。ええと、たしか三毛猫だったような・・・。そうそう、三毛猫でしたよ。そんで、そいつがなんか俺の方を見て鳴いてるんすよ。おやおや、とか言って俺もそっちの方に歩いていったら突然道路に飛び出したわけ。車がバンバン通っているのにですよ。俺は一瞬止めようかと思ったんですけど、でもほら、やっぱ危ないじゃないですか。なんとか猫の無事を祈りながら見守っていたんです」

「君はその猫を救うために道路に飛び出して、トラックにかれたとかじゃないのか?」

「いや、まさか。そんな月並みなことはしませんよ。正直動物よりも我が身の方が大事ですからね。こう見えてもガールフレンドがいるんですよ。へっへ」

「そのあとどうなったんだ?」

「そのあと? ええとね、今ちょっと思い出しますよ。なにしろ死んじゃってるんでね。記憶が定かではないんです。ああ、そうそう。思い出した。その猫は無事向こう側に渡ったんです。それはたしかに見たな。なんかそっち側にいるおばあちゃんに甘えてた。そんでお菓子かなんかをもらって、かじりついていたっけ。そんで俺は一旦アパートに帰ろうと思って、道を歩いていたらなんか花が咲いているんですよ。白っていうか、紫っていうか、そんな感じのやつ。見たことあります?」

 その情報だけではよく分からない、と私は言った。

「まあ店長はそうですよね。きっと花のことなんか興味ないんだ。プラクティカルな人間ですもんね。まあいいや。そんで実をいうと俺も普段は花のことなんか全然興味ないんですけど、そんときだけはその花になんか心を惹かれて、しゃがみ込んでじっと見てたんですよ」

「その場所はどこだ?」

 彼は大体の住所を言った。それは私の家のすぐ近くだった。

「そうそう、店長の家のあたりですよ。そんで俺はその匂いを嗅いで、まあそろそろ帰ろうかな、と立ちあがったとき」

「立ちあがったとき?」

「ええっとね・・・なんだっけ・・・。そうだ。カラスがやって来て、すぐ近くに止まったんです。その花の脇にあった塀の上に。で、そいつがじっとこっち見てるんですよ。なんか不吉だな、と思っていたら・・・」

「思っていたら?」

「思っていたら、突然電話が鳴り出して、見たらお袋からなんですよ。でも変じゃないですか。平日のこんな時間に。あの人もまだ仕事しているんでね。いつもは夜にしか電話かけてこないんです。そんで電話に出たら」

「出たら?」

「出たら・・・ええっと、そうそう。なんか北海道のお土産もらったから今度そっちに送るねって」

「それだけ?」

「それだけです」

 そこで一旦私は深呼吸をした。この男は一体何を言おうとしているんだろう?

「ちょっと確認したいんだが」

「はいはい」

「君は本当に今日来られないのか?」

「無理っすよ。だって死んじゃったんですもん」

「だからどうして死んじゃったのか、という説明を訊きたかったんだが」

「ああそれならそうと言ってくださいよ。もっと早く。ええと、どこまでいったかな・・・。そうそうお袋から電話がかかってきたあとに、うん、早く送ってくれよとかなんとか言って、アパートに帰ったんですよ。んで、鍵を使って――まあ当たり前ですね――ドアを開けると、中に誰かがいるんですよ」

「誰が?」と私は言って、ごくりと唾を呑み込んだ。

「誰がって」と彼は言った。「それがですね、よく見えないんですよ。なんか暗くって、輪郭もぼやけていて・・・。そんで電気を点けようとしたら、そいつが『やめろ!』って叫んだんですよ。その、俺の部屋に居座っていた奴が、です。でも変じゃないですか。勝手に人の部屋に上がり込んで、電気点けるなって言っているんですから。でもなんかその雰囲気が妙に威厳があるというか、自信に満ちている感じだったんで、俺はつい『はい』とか言って従っちゃったんです。今思うとそれがまずかったのかな。でも後悔したってもう遅いですね。なにしろ死んじゃったんだから。ハハ」

「それで、その人物は何者だったんだ?」

「ええっとね。さっきも言ったように姿はよく見えないんです。でもなんか存在感がすごいんですよ。闇に満ちている、というかね。俺今まで一度もあんな雰囲気の人に会ったことないです。ああでも、店長はちょっと似てますね。そのちょっと暗い感じのところとか」

「私に似ている?」

「うん。今思うとそうですよ。あれ実は店長だったんじゃないすか? ってね。でも俺だってその時間店長がせっせと働いていたことくらい分かっていますよ。そいつはなんか・・・どっか別の世界からやって来た奴だったんですね。俺はそう思います」

「それで、そいつはなんて言ったんだ」

「そうですね。そいつは電気を点けるのをやめろと言ったあとに・・・そう、たしか俺の方に近寄って来たんです。俺はめちゃめちゃビビってたんですけど、なんか身体が動かなくって、ただじっとしてた。まるで蛇に睨まれた子ウサギみたいに。ねえ、これって良い表現じゃないですか? 『蛇に睨まれた子ウサギみたいに』。『私は蛇に睨まれた子ウサギみたいに身動きが取れず、ただ死を受け入れるほかなかった』」

「実際はどうだったんだ?」

「実際? ええと。たしかそいつがこっちにやって来て、なんか言ったんです。さっきみたいな威厳に満ちた声じゃなくて、そっとささやくような感じで。ええと。なんだったかな・・・。今思い出しますね。ああ、そうだ。だ。を言ってたんだ」

「あのことって何なんだ?」と私は言った。

「ねえ店長。これは一生、誰にも言わないって約束できます?」

「約束?」

「そう。言っちゃだめなんです。そう決まっているんですよ。もし誰かに漏らしたりしたら、俺が非常に悪い立場に立たされることになります。店長といえども、もしそれを約束できないのだとしたら教えることはできません」

 しばらく考えていたあとで、私は言った(正直なところ、知らぬ間にその話に強く引き込まれていたのかもしれない)。「うん。約束するよ。だから教えてくれないか? その謎の人物が君に何と言ったのか」

 そのとき店長呼び出しのブザーが鳴ったが、私はそれを無視した。自分の中の何かが、この話の続きを聞きたいと強く要求していた。

 少し黙っていたあとで、彼は言った。その言葉を。その非常に大事な言葉を。彼はそれを二度繰り返し、そして電話を切った。明日のシフトのことを訊くのを忘れていたが、実のところもはやそんなことはどうでもよかった。というのもその言葉が私の頭の中を駆け巡っていたからだ。なんだか急に年を取ったような気がした。これから先に横たわる自分の人生が、単なる苦役にしか感じられなくなった。急に音が消え、無音があたりを包み込んだ。私は自分を単なる裸の少年なのだ、と思うことにした。そうすることでいろんなことがシンプルに見えてくるのではないか、と感じたからだ。でもそれは不可能だった。私は裸ではないし、少年でもなかった。何か非常に大事なものが自分から失われてしまったことを知った。それは失ってしまわなければ、そんなに大事だったとは気付かなかったものだ。それを彼は、おそらくはそうと気付かずに、私に教えてくれたのだ。

 しばらくして音が戻ってきたとき、私はまだその場に座り込んでいた。いくつかの夢が死んだことが分かった。しかし、にもかかわらず自分は生きているのだ、と私は思った。その先にあるのは一体何なんだろう?

」とすぐ背後で誰かが言った。

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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