ミスターピスタチオ

 その日僕はミスターピスタチオと待ち合わせをしていた。駅前の広場にある奇妙なオブジェの前に午後三時、という約束だった。僕は時間の十分前に到着した。いつもいつも時間に正確というわけではないが、誰かを待たすのは気分が悪い。それに今日はちょうど大した用事もなかったのだ。それで僕はそのオブジェの前で、ポケットに手を突っ込み、ただあたりを見回しながら彼がやって来るのを待っていた。

 それは本当に奇妙なオブジェだった。いくつかの三角形が組み合わされた中に、まん丸の鉄のボールのようなものが鎮座している。あるいは原子核をイメージしたものなのかもしれない。あたりに説明が書いていないか探してみたのだが、そんなものはどこにも存在しなかった。作者の名前も分からない。でももし原子核だったとしたら、その意図が全然僕には理解できないな、と僕は思った。そもそもどうして広場の真ん中にそんなものを設置しなければならないのだろう?

 いずれにせよ待ち合わせの目印としてはそれはうってつけだった。原子核だろうと、意味のない単なる三角形ときゅうだろうと、別にどちらでも構わない。僕の目的はミスターピスタチオに会うことなのだから。

 でも約束の時間の一分前になっても彼は姿を現さなかった。それは少々意外なことだった。というのも彼は昔から時間には正確だったし、もし相手を待たせるくらいなら切腹した方がましだと思っているような男だったのだ。それでも僕が以前彼に会ったのはもう十年近く前のことだ。彼だって十年分歳を取ったのだ。だとすると、考え方や習慣に変化が生じていたとしても何ら不思議ではない。

 以前彼に会ったとき、僕は二十歳(はたち)で、まだ大学生だった。当時僕は人生における根源的な問いに悩んでいて、それで彼に助けを求めたのだった。彼の存在を知ったのは本当に偶然だった。大学の同級生が教えてくれたのだ。

「ああ、そういった問題ならミスターピスタチオのところに行くといいよ」と。

 その同級生は僕がほとんど唯一大学内で話のできる男だったのだが、彼はその会話を交わした一週間後に大学を辞めてしまった。実家の豆腐屋を継ぐ、とその当時は言っていたが、実際にどうなったのかは分からない。彼もまた――もしまだちゃんと生きていたら、の話だが――十年分歳を取っているはずだ。

 とにかく、僕は教えてもらった住所に行き、そのアパートの一室のインターフォンを押した。もちろん事前にアポイントメントを取れればよかったのだが、ミスターピスタチオは電話というものを憎んでいて、もし携帯電話を持ち歩くくらいなら熊に――獰猛な熊だ――頭をかみちぎられた方がましだと考えているということだった。それで僕はいちかばちか、彼の部屋に実際に行ってみることにしたのだ。

 それは小奇麗な単身者用のアパートだった。僕の部屋なんかよりはずっとしっかりしている。彼の部屋は一階にあり、表札には「ミスターピスタチオ」という(ふだ)が貼られていた。僕は実のところ「ミスターピスタチオ」というのは一種の愛称だと思っていたので、少々びっくりした。あるいはそれが戸籍上の本名なのだろうか?

 インターフォンを押して、彼がやって来るまでの間、僕はドキドキしながら待っていた。あるいは迷惑だったかもしれない。なにしろ今まで一度も面識のない若者が突然訊ねてきたのだから。それでも僕の悩みは相当深いものだったため、もはや人間だろうとピスタチオだろうと、真剣に話を聞いてくれる人であれば誰でもいいから捕まえたい、という気持ちになっていたのである。

 やがてドアが開き、彼が姿を見せた。「やあ」と彼は場違いに明るい声で言った。「待ってたよ。入りなよ」と。

 僕はちょっと驚いてしまったのだが、あとから知ったところによると、ミスターピスタチオの感覚器官は非常に鋭敏にできているため、僕が来る三十分前くらいからすでに来客があることを予感していたそうなのである。

「コーヒーもれてある」と彼は言った。

 僕は遠慮なく中に入れてもらい――掃除の行き届いた、清潔な部屋だった。装飾品は一切なかった。彼は装飾品というものを憎んでいて、そんなものを飾るくらいなら世界中のホームレスとディープキスをする方がましだと考えていた――彼と話をした。彼はすごく真剣に僕の話を聞いてくれた。彼がそのとき出した結論はこういうものだった。

「十年後にもう一回会おう。そしたらいろんなことがもっとすっきりしているから」

 もしほかの人がそう言ったなら、それは間に合わせにされた適当な返事だと思ったかもしれない。でも彼の表情は真剣そのものだったし、だからこそ僕はこの十年の間きちんと生き続けてきたのだ。十年後、三十歳になったときに、人生における重要な謎が解き明かされるのだ、と。それは僕の生きる目的にさえなった。

 そして今日、午後三時にこの奇妙なオブジェの前で会う、という約束がなされた。それは一週間ほど前に手紙の形でやって来た。おそらくは彼の筆跡と思われる字で、何月何日の午後三時に、あの奇妙なオブジェの前で、と書いてあった。あとは丸に片仮名の「ピ」という文字。僕は間違いなくこれはミスターピスタチオだ、と思った。ということでこの場所に今日やって来たのだ。

 ついに午後三時になったが、彼は姿を見せなかった。黒いスーツに例のピスタチオの殻、というのが彼のスタイルだったが、あるいはもはやそういった個性的なファッションは卒業したのかもしれない。ごく普通の格好をして、ごく普通に暮らしているのかもしれない。あるいは結婚して、家庭を持っているかもしれない。もしそうだったとしても、全然不思議はないはずだった。なにしろあれから十年も経ったのだから。

 腕時計のデジタル表示が午後三時一分になったとき、何かが起きた。僕は目をつぶり、そして目を開けた。そのときその変化に気付いた。それは世界がほんの少しだけ移動した、という感覚だった。僕はもう一度目をつぶり、もう一度目を開けた。でも世界は元には戻らなかった。たしかに移動しているのだ。周囲に見えるなにもかもが、ほんの少しだけ色彩を変えている。ごくわずかな違いに過ぎないが、僕にはそれが分かった。十年経って、初めて僕は理解した。ここはある意味では僕のための世界なのだ、と。

 そのときどこかでパチンと何かが弾ける音が聞こえた。それはおそらくピスタチオの殻だった。少なくとも僕は頭の中でそういった場面を想像していた。ミスターピスタチオ、と僕は思った。あなたは一体どこにいるのですか、と。あなたのことを思って、僕はこの十年間生きてきたのです、と。辛いときも、哀しいときも、空虚なときも、三十歳になって彼に会えば、いろんなことがすっきりと解決するのだ、と。そのときまではなんとか頑張ろうじゃないか、と。

 でも実際にやって来たのは、このちょっとした移動の感覚に過ぎなかった。そして殻が弾ける音。これは一体何を意味しているのだろう? 僕が求めていたのは、もっとずっと別の種類のものだった。世界が割れ、光明が差し、真実が姿を現す、というような。

 そのとき誰かが背中を触った。僕はとっさに後ろを振り向こうとしたのだが、その人物が鋭く静止した。「駄目だ」とその男は言った。「後ろを見てはいけない。なぜならそれは間違ったことだからだ」

「でも過去を振り返ることもときに必要では?」と僕は言った。「そうしないと正しい方向が分からなくなってしまう」

「君に関してはそれは正しいことじゃない」と幾分いくぶん穏やかな口調になってその男は言った。僕はまだ言いつけに従って前だけを見ていた。「ほかの人にとっては違うかもしれないがな。いずれにせよ、君は今日この日までなんとか生き延びてきたんだ。それは誇りに思っていいことだ。しかしまだまだ先は長い。いいかい? これから先、君は目に見えないもののために生きていかなくてはならないんだ。くよくよ後ろを振り返っている場合じゃないのさ。君は強くなったんだ」

「でも・・・」と僕は言おうとした。僕はまだ自分に自信が持てないのです、と。

「いや」と彼が途中で割り込むように言った。「君はそれができる。私がそれを保証する。なあ、君はついさっき殻を破ったんだ。自分のピスタチオの殻をね。それは素晴らしいことではあるが、同時に危険なことでもある。なにしろ何にも守られていないのだから。君は君自身のために生きていかなくてはならない。それが本当の意味での責任というものだ。さあ、私の言うことを繰り返して。一、運動をすること」

「一、運動をすること」と僕はよく分からないままに繰り返した。

「二、きちんと生きること」と彼は言った。

「二、きちんと生きること」と僕は言った。

「三、前だけを見ること」

「三、前だけを見ること」

「それでいい」と彼は言った。そしてポンと僕の背中を押した。

 僕は一切振り返ることなく、その広場を突っ切った。しばらくそのように歩いていたあとで、突然涙が流れ出てきた。それは誰のためでもない涙だった。いわば透明な涙だ。それはとめどなく溢れ出てきた。すれ違う人たちが不思議そうに僕の顔を見てきたが、それでも僕は顔を上げたまま歩き続けていた。そでぬぐうようなこともしなかった。ミスターピスタチオがついさっき死んだことを僕は知った。彼は自らの命と引き換えに、僕に大事なことを教えてくれたのだ。風が上空から吹き下ろし、やがてどこかに消えていった。僕はこの広い街に一人ぼっちだった。もはや誰も助けてはくれないことは明らかだった。僕は胸を刺すような痛みとともに、一種の真実を洞察していた。自由であるというのはこんなに孤独なことだったのか、と僕は思った。でももちろん、それは素晴らしいことでもあった。

Lubos HouskaによるPixabayからの画像
村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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