2024年、8月、近況

 ようやく暑かった八月も終盤に差し掛かり、かろうじて(少なくとも前よりは)過ごしやすくなってきた今日この頃ですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか? 僕はまあ似たような毎日を送っております。はい。

 いやあしかし暑かったですね(今日も十分暑いけれど)。日中は外に出るのがはばかられるくらいの暑さでした。サウナみたいだし。逃げ場がないし……。僕は去年の夏は仙台にいたので、それと比べると東京(都西部)はやはり暑いです。夜走っているときに何度も熱中症になりかけました。水のボトルと(腰につけるやつ)、塩分タブレットはいつも持ち歩いていたのですが、それでも。

 六月の始めに千葉の大房たいぶさみさきに行ってから、早くも三ヶ月近くが経とうとしています。いやあ時の流れるのは速いですね。あのときは渋滞に巻き込まれすぎてちょっと体調を崩していたのですが、そこから少し回復し、またいつものように小説を書き……と思っていたらかなりひどい風邪をひいてしまって、なんだか気持ちも落ち込んでいました。体調が悪いとランニングもできないし、筋トレもできないし、文章を書く集中力も湧いてこない。だから仕方なくAmazon Prime Videoで無料で観られる古いイタリア映画を観ていました。ロベルト・ロッセリーニ(『無防備都市』、『ドイツぜろ年』、『ストロンボリ/神の大地』、『ヨーロッパ一九五一年』)、フェデリコ・フェリーニ(『青春群像』、『8 1/2』)、ヴィットリオ・デ・シーカ(『ひまわり』)、ルキノ・ヴィスコンティ(『揺れる大地』、『ベリッシマ』)などなど。この時代のイタリア映画(1940年代から60年代くらい)はなかなか良いです。ずっと観ようと思っていたので、ちょうどよかった。どうやらフランスのジャン=リュック・ゴダールなんかはこの辺の映画を観て育っていたみたいですね。戦争中から戦後のイタリアの貧しい人々の生活が垣間見えて、とても興味深かった。ロッセリーニの映画には当時30代のイングリット・バーグマンが出ています(二人は不倫関係にあり、やがて結婚する)。デ・シーカ監督の『ひまわり』は戦争で行方不明になった夫を待ち続ける妻の物語(彼の『自転車泥棒』は素晴らしい。十年前に地元の図書館で借りて観ました)。ヴィスコンティの『ベリッシマ』は娘を女優にしたい母親の話。イタリア人母ちゃんのスーパー早口のセリフがいっぱい聞けて面白い。同監督、『揺れる大地』における貧しい漁村の家族のリアルな描写は、身に迫るものがあります。仲買人の搾取から逃れるために借金して独立したはいいもの……という話です(全部は書きませんが)。

 フェリーニは『道』がやはり素晴らしいけれど、今回別のものも観られてよかった(『8 1/2』における少年時代の主人公が海辺で暮らす謎の太った女性とダンスを踊るシーンは忘れられない。彼はそのことで罰を受ける)。ファンタジックなフェリーニとリアリスティックなヴィスコンティを比較するドキュメンタリーをずいぶん前に観たけれど、どちらもそれぞれの持ち味を発揮していて、面白いです。どっちが優れているというわけでもないんだろうな。きっと。

 そういえばちゃんと観ていなかったスタンリー・キューブリックの『シャイニング』も観た(僕は怖そうな映画は避ける傾向がある)。ジャック・ニコルソンの演技はなかなか鬼気迫るものがありますね。今さら僕がいうようなことでもありませんが。狂った夫に怯える妻のシェリー・デュバルも素晴らしいです。この人はついこの間亡くなってしまったけれど、ウディ・アレンの『アニー・ホール』にも出ていましたよね。ものすごく身体の線が細くて、独特な顔立ちをしている。一度見ると忘れられない顔です。

 そんなことをしているうちに、ちょっとずつ体調が戻ってきました。筋トレも再開し、小説も少しずつ書きたくなってきた。やはり体力というのは大事みたいです。体調が整っていないと、意識を集中することができないし、自信も湧いてこない。余計なことばかり考えて、だいぶくよくよしていました。

 そういえば風邪をひく前のことですが、なんだか働くのが嫌になってきて、You Tubeで自給自足生活をしている人々のチャンネルばかり観ていました。安く地方の山林や古民家を買って、生活費を極力かけずに暮らしている人々。都会生活に疑問を感じ、自らドロップアウトした人々。工夫次第でなんとかやっていけるもんなんだな、と勇気をもらいました(もちろん大変なことは多そうですが)。そういう選択肢がある、ということが心に余裕を与えてくれる気がする。東京にいるとなんだかコンクリートばかり眺めて暮らしていて、「本当の世界」から取り残されているような気持ちになることがあります。特に疲れているときなんかは。まあそれは僕が田舎育ちだからかもしれないけれど、本当に人生の「質」というものを考えたときに、別に都会にこだわらなくてもいいんだよな、と思ったりします。でも田舎には田舎特有の濃い人間関係があるしな……。もちろん最初からご近所がいない場所に引っ越して(自分で小屋を建てて)、そういった問題をスルーしている人もいます。仕方ないものと割り切っている人もいるだろうし、あるいはポジティブに捉えている人もいると思う。まあどこに暮らしていてもそれなりの苦労はあるみたいですね。当たり前のことですが。

 兵庫県の山奥で暮らしている老夫婦(撮られたのは1990年ぐらい)のドキュメンタリーがYou Tubeに上がっていましたが、それはなかなか素晴らしかった。贅沢をせず、畑を作って、牛の世話をして、自分で屋根の修理をして……等身大の生活があるような気がしました。おじいさんとおばあさん。ものすごく仲が良かった。でも今ではきっと二人ともお亡くなりになっているんだろうな。都会で時間に追われる生活を送っている人間にとっては一種の桃源郷のようなものなのかもしれない。もちろんだからと言ってあの生活の大変さ(不便さ)が少しでもましになるわけではないのですが。

 しかしよく考えてみればあの生活は(農業をやって、牛の世話をして、季節のものを食べて、自然と共に暮らす)うちのじいちゃんばあちゃんの生活なんだよな、とはっと気付いた。上の世代から引き継いだ生活様式をそのまま(ときには執拗に)維持していく。贅沢はしない。人との関係を大事にしていく……。

 僕は意図してそこから逃れてきたわけです。都会の方が自由になれそうだから、と。そして今度は都会があまりにも「人工的」過ぎるから田舎に戻りたいと考えている。都合が良過ぎるのか? ある意味ではそうだし、別のある意味ではそれは普通の思考なのかもしれない。「ここよりも良いところに行きたい」。たぶん結構たくさんの人が思っていることなのではないか? でもまあ体調が回復して、冷静になってみれば、考え方も中立的になってきます。要するにどこに行っても苦労はつきものだ、ということです。田舎には田舎の。都会には都会の。それぞれの良い部分を可能な限り利用して、自分がどう生きていくのかを(その時点その時点で)ポジティブに考えた方がいいのかもしれない。そう思いつつあります。

 そんで、なんとかちょっと回復して、七月の終わりに宮田氏の「仕事の手伝い」として福島県に行ってきました。彼が運転してレンタカーで行った。いやはや。まあ僕はドローンを眺めていただけですが(彼が事前にプログラムした内容に従ってドローンを飛ばし、画像を撮る。ただ雨が降ってきたり、飛ばせない場所があったりして、予定通りには進まなかった……。僕はドローンを見るふりをしてひたすら腕立て伏せやスクワットやウォーキングをしていた。ごめんなさい)。夜9時ぐらいに東京を出発して、東北自動車道を北上し、夜中の1時前くらいに福島駅近くのホテルに着いた。福島はすごく涼しく感じたことを覚えています。そんで、その日はテレビでオリンピックを観て……寝た。そして翌日から撮影。二日間小説が書けなかったわけだけど、それでもたまにいつも住んでいる街から離れることは必要だった気がしました。違う場所の空気を吸うこと。そこの匂いを嗅ぐこと。光を見ること……。最近思ってきたのは、そういった記憶が役に立つのはずいぶんあとになってからかもしれない、ということです。旅行に行って、疲れ切って、あれは何だったんだろうと思って、眠って、回復して、日常がやって来て……そして数ヶ月後に、ああ、ああいうこともあったな、と思い返す。もし同じような日常だけだとしたら、それは記憶の海に埋没してしまいます。そういった「ちょっとイレギュラーなこと」があるからこそ、我々は自分の記憶をある程度時系列に沿って保持しておくことができるのではないか? そしてそこには特有の匂いや、光や、音なんかが含まれています。僕は小説家(志望)だから特にそれが重要だと思うわけだけど、普通の人にとっても結構大事なんじゃないかと思ったりします。自分を温めてくれる材料として。

 そんで……そう、オリンピックだ。オリンピック自体には結構複雑な思いを抱いている僕ですが、競技そのものは観ていると結構面白い。ついテレビを点けてしまう。柔道とか、飛び込みとか、フィールドホッケーとか(これはネット)、スポーツクライミングとか、そういうのを観ていました。アナウンサーが名言狙いで騒ぐのは嫌だけど(消音)、まあ頑張っている選手たちは応援していました。

 しかしスポーツというのはその世界の「狭さ」について考えると、ちょっと複雑な気持ちを抱かざるを得ないところがあります。たとえば柔道の選手は暗に金メダルを期待されているところがあって、負けると「申し訳ない」というような感じになってしまう。悲壮感が漂ってきます。でも本当は自分のためにやるものですよね。スポーツって。僕も中学・高校時代にはそうは思えなかったけれど、一旦離れてみるとそう思います。あれだけ大きな競技会になると(プラス日の丸を背負っている)、どうしても騒ぐ人が多くなるのは仕方ないのだけれど……。やはり大した努力もせずに匿名でネット上に意見(や悪口)を投稿している人の声よりは、本人の気持ちを優先したいという思いを抱かざるを得ません。本人が楽しめば(たとえ失敗したとしても)それでいいのではないか? メダルを取ることで国民生活が豊かになるわけでもないのだから。

 プラス、「狭さ」についてちょっと考えたこと。たとえばある競技を極めるために、ものすごく小さい頃から英才教育を受ける人がいます。ほかのことはやらない。やったとしてもできるだけエネルギーと時間をかけない。その特定の競技の向上にだけ、お金と時間とエネルギーを注ぐ。そのような環境で育ってきた人も少なくないはずです(代表に選ばれるような人たちは)。でもそれって人間教育としてどうなんだろう、と思うこともある。いささか視野が狭くなってしまうんじゃないか、と。でもお前は何かを成し遂げたのか、と問われればノーだし、だとしたら人生のうちで一度でも何か偉大なことを成し遂げた方が素晴らしいんじゃないかと言うこともできる。大金を稼ぐ人もいるし、そのままコーチや監督になれる人もいる。プラス、じゃあスポーツに打ち込まずに学校の勉強をやったり、友達と遊んでいたら、バランスの取れた、素晴らしいまともな人間になれるのかといえば……僕には分からない(スパルタかゆとりかの二元論になっちゃいそうですね、これだと)。結局就職したりしたらそこもまた一種の「狭い世界」だということも事実です。保険会社も。運送会社も。小売店も。なにもかも。だから考えれば考えるほど分からなくなってくる。本人が幸せかどうか――自由かどうか――というのが一番の(素朴な)判断基準かもしれない、と今ふと思いましたが……。いずれにせよそんなことを考えているせいで、100%完全に応援する、というわけではないにしろ、全力で競技に打ち込んでいる選手たちを見るのは楽しかったです。バドミントンのラリーの速さに驚いたりとか……。まあ、というのが僕のオリンピックの感想です。

 そんで、盆踊り世界選手権があって……八月がやって来ました。いやあ、暑いですね。エアコンは点けっぱなしだし(そうじゃないと寝られない)、走るのを夜にしてもなかなか距離は伸ばせないし、で、なかなか以前の調子に戻らないところがありました。でもまあ執拗に書き続けてはいます。「少なくともゼロじゃない」というのが自分に言い聞かせていたことでした。どれだけ体調が悪かろうとも、ちょっとは書く。まあそんなのは自分のためでしかないんだけど(僕が書こうが書くまいがほかの人にはどうでもいい)、そういうちょっとした積み重ねが自分を支えてくれるような気がしていたのです。はい。

 それでも結果も出ないままこんな歳になってしまって(32歳)、さすがに落ち込むことはあります。でも最近気付いたのは、人間の気持ちってかなり変わりやすくて、あんまり信用できないな、ということでした。僕は結構一貫した人間だと思い込んでいたんだけど、そうでもないらしい。体調が悪いときにはクヨクヨしているし、ちょっと良くなると別のことを考え始めている。動画視聴遍歴にしても「戦争関連の動画(NHKアーカイブス)」→「自給自足・古民家再生系(You Tube)」→「イタリア映画(Amazon Prime Video)」→「パリオリンピック」→「お笑い系(You Tube)」という感じで、一貫していない笑。まあ当たり前だけど、人間の興味というのは次々に移り変わっていくものなんですよね。終戦記念日(8月15日)の前後にはNHKで戦争関連のドキュメンタリーが多く放送されていて、録画して今はそれを観ていますが。

 真面目になり過ぎると肩が凝ってくるし(それでたまにお笑いを見ていた。眠れない夜なんかに)、リラックスばかりしていると、人生に中身がないような気がしてくる。そろそろ「バランス」について考えるべき歳になっているのかもしれない、とか思いつつあります。うまくいくかどうかは分からないけれど。

 ということでまた自分の文章に戻ります。結局のところ大事なのは「その時点での自分」にとって何が一番必要なのかを見極めることなのではないか、という気がします。それはたぶん論理的思考によってではなくて、グッと腹に力を込めるというか、集中するというか、そういう感覚的なことでしかないのではないか……。だからこそ筋トレが重要なのかも、と思ったりもします。

 まあなんにせよ本当に集中したときには、人は一度に一つのことしかできません。そう思うとちょっとほっとする(行動の選択肢が多過ぎると、我々は往々にして迷ってしまいます)。ネットのどのサイトを見ても「今この瞬間の自分自身」については載っていないしね。スマホのカメラを自分向きにクルッと反転させるみたいに、視点を「こちら向き」にするしかないのかもしれません。そうすれば何をすべきかが見えてくる……はず。たぶん。とにかく小さなことを積み重ねていこう。結果のことは気にするな。行為そのものに意味が――喜びが――宿っているのだから……。

 そう言い聞かせてなんとか生きております。それでは皆さんも、お元気で。

八月末の空、とさび
村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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