Categories: エッセイ雑記

またまた引っ越し

 さて、ようやく少し落ち着いてきました。ものすごくバタバタしていたからな……。


 ということで引っ越しです。そう、またまた●●●●引っ越したのです。仙台から八王子に移ったのが2024年の3月だったから……1年と9ヶ月くらいいたことになる。もちろん仙台に移る前に7年1ヶ月ほど八王子に住んでいたので、合わせると……8年10ヶ月か。いやあなかなかの歳月ですね。その間浅川沿いの(ほぼ)同じコースをいつもランニングしていたから、あの光景はかなりしっかりと僕の意識に――身体に――染み付いている。いささか長くい過ぎたかな、とも感じているのですが……。


 八王子というのは東京なのに山が見えて、川があり、自然があり、いのししが出て、鹿しかも出て……という結構素敵な場所です(もちろん市の面積は広いので場所にもよるのですが)。田舎から出てきた僕にとってはなかなか住みやすいところだった。うん。一応東京都だから最低賃金は47都道府県で一番高いし、中央線一本で新宿まで行ける(1時間くらいかかるけれど……)。接客業をしていたから分かるのだけれど、いろんな人たちが住んでいて(入れ替わりも激しく)、面白いと言えば面白い。日本語学校があるおかげでアジア系の留学生も多い(そのうちの何人かと仲良くなった)。


 そして●●●、そこから引っ越しです。いやはや。今回はそんなにネガティブな理由ではなくて(仙台に移ったときはちょっと心が折れかかっていたけれど)、ちょっとした理由で別の仕事に就くことになったのです。はい。仙台時代を含めれば全部で9年3ヶ月ほどずっとコンビニ店員をやっていたのですが、ついに別のことをやることになった。夢でもレジ打ちをしているくらいだったので(夢の中では大体何かしらの問題が起きて冷や汗をかくのですが、とにかく……)その仕事は身体に染み付いている。バタバタと動き回って商品を陳列し、揚げ物を揚げ、公共料金を支払い、ご老人とコピー機を操作し、宅急便のサイズを測り……という感じです。自分の中では動きはかなり「自動化」されていたと思う。そしてそのせいもあってなかなか他の仕事に就こうという気になれなかった。自分にとって重要なのはいている時間を使って小説を書くことだ(プラス、筋トレとランニングと料理)。だから余計なことは考えず、欲を出さず、この仕事をやりながらコツコツとできることをやろうぜ、と。


 実際仙台に行く前にさすがに同じことばかりやっているのに飽き飽きして(給料の安さも相まって)別の小売業に3ヶ月半ほど挑戦していたことがある(「辞めたい」と伝えたのは入って2ヶ月半くらい経った頃)。正社員ではなかったけれど、覚えることが多くて(関わる人も多くて)結構大変だった。先輩たちにはかなり良くしてもらったのだけれど、途中で「電池切れ」状態になってしまって(僕はたびたびこれを経験している。突然エネルギー不足になって、なにもかもどうでもよくなってしまうのだ)仕事を続けることができなくなってしまった。いや、本当に●●●我慢すればできたのかもしれない。2ヶ月半というのはちょうど疲れが溜まってくる頃で、張り切り過ぎた最初の日々の「反動」が来る頃である。そこを乗り切れば結構順調にそこで働くこともできたのかもしれない。でもそのときの僕は「たかが『生活費を稼ぐ』だけのために、こんだけのエネルギーを使って新しいことを覚えるというのは馬鹿馬鹿しいぜ!」と思ってしまったのだ。悪魔の囁き●●●●●。うん。きっとそうだったんだろうな。今思えばそれが分かるのだけれど、当時はそうは思わなかった。そして一度そう思い込んでしまうと気持ちはなかなか変わらない。ということでものすごくビクビクしながら店長に打ち明け(勇気が出なくて3日ぐらいぐずぐずと迷っていた気がする)、思っていたよりもあっさりと聞き入れてもらい(すみません……)、その1月後に辞めることになった。その時期に浅川をものすごい勢いで下ってくる鹿を見た記憶がある。休みの日で、ランニング中で、その最後の方だけを動画に収めることができた。近くにいた40代半ばくらいの男性と思わず目を合わせた記憶が残っている。「すごかったっすね」と彼は言っていた。僕は「そうですね」と答えたのだった……思う。たしか。


 そんなことはまあどうでもいいのだけれど(あの鹿はどうなったのだろう……?)、そのようにして仕事を辞め、いろいろと思うところあって一度仙台に帰ることにした。ママチャリを2日漕いで帰り、翌日だったか翌々日にはバイトの——同じ系列のコンビニの——面接を受けて採用された。そこでは10ヶ月ほどお世話になった。そのときの常連さんの顔もまだ覚えている。そしてその後また思うところあって八王子に戻り、同じコンビニで働かせてもらっていたのだ。


 常連さんたちの中には僕の顔を覚えていてくれた人も何人かいて、そういう人は声をかけてくれた(まあ毎日来ている人とは週に5回は顔を合わせるわけだもんな……)。そういう経験は結構心を温めてくれる。ただのコンビニ店員と客との会話に過ぎないのだけれど、人間としての僕はそういう「触れ合い」をなんとか滋養にして生きてきたようなふしがある。生活費を稼ぐためだけにやっているとは言え、ほんのちょっとした交流はやっぱり必要なんだな、と――この歳になって――しみじみと感じている次第であります。はい。


 しかしずっと同じことをやっているというのもなかなか辛いもので、そろそろ環境を変えたいとは(潜在的に)思っていた。普通の34歳はコンビニでバイトをしていたりはしないんだろうけど、僕としては一番の目標(作家になること)を隠して面接を受け、正社員になったりするのは「ずる」のような気がして、なかなか挑戦できずにいたのだ。待遇に釣られて転職したはいいものの、またすぐに「電池切れ」状態になってしまうのではないか? 僕にはそうなっている自分をかなり鮮明にイメージすることができた。自分の正直な気持ちに反することはやめた方がいい。そう僕の本能が告げていたのだ。


 それでもまあいろいろあって、どうも小説家を目指しながら別の仕事をできそうな環境が整ったので(かなり幸運な状況なのですが)、ちょっと悩みながらも引っ越しをさせて頂くことにした。常連さんたちの顔を見られなくなるのも、知り合いたちから離れるのも、新しい環境に適応するのも、かなり不安ではあったのですが(こればっかりは仕方ないか……)、それでもそのような新しい状況の中で自分に何ができるのか・どんな言葉が浮かんでくるのか、見てみたいという好奇心があった。おそらくはそういうことだと思います。はい。


 いずれにせよ引っ越しに際しては僕の「捨てられない」性格が災いし、またまた荷物はかなり多かった……。引っ越し屋の(ちょっと強面こわもての)お兄さんに「事前に段ボールに全部詰めてもらわないと困るんすよね。僕らも次があるんで……」というような文句を言われながら、ひたいに汗をかきながら必死に荷物を詰めました。それで……なんとかトラックには載った。そのあと超高速で掃除をし(結局やり残したけど)、電車に飛び乗って移動して(もし遅くなったら延滞金を取られることになっていた)、ドキドキしながら車窓を眺め、眠い目をこすり、乗り換えの駅の出口を間違えて急いで戻り、無事間に合ってなんとか乗り込み……その後なんとか作業中に到着できて、ふうと胸を撫で下ろしました……。


 そうそう、自転車が2台あり(ママチャリとロードバイク)、両方とも乗って移動することにした。浅川・多摩川の河口方面へ50kmほどの道のりである(浅川は多摩川に注いでいる)。もしかして頼めば載せてもらえたかもしれないけれど(焦り過ぎていてトラックの余裕がどれくらいあったのか確認していない……)、むしろ僕にとってサイクリングは「楽しみ」なので、前々から乗っていくことは決めていたのです。ママチャリの方は引っ越しの前日に。ロードバイクの方は引っ越しの翌日に(その日が退去日だった)。結局ママチャリでは4時間強、ロードバイクでは(積み忘れた傘をくくり付けて)3時間20分くらいだったかな。それで着いた。浅川・多摩川沿いはずっとサイクリングロードが整備されていて(もちろん歩行者の方が優先ですが)、ほとんど信号に止められずに進むことができる。サッカー場とか、野球場とかいっぱいあって(野球場はこんなに必要なのか? というくらいある。日本人は昔から野球が好きだったんだろうな。きっと……)、開放的でなかなか素敵な道です。ロードバイクで帰ったときは途中で日が暮れてしまった。真っ暗な中(遠くに街の明かりはありますが)事前に買っていた補食を食べる。風が吹いてきて、寒い。でも警戒して着込んできたからまだ大丈夫だ。2月に宮城まで帰ったときは酷い目に遭ったからな……。


 誰もいない河原の野球場のベンチで黙々と甘ったるいカロリーメイト(の偽物)を食べていると、なんだか不思議な気持ちになってくる。およそ10年前に東京に来たときは今よりもさらに不安だったんだよな……と。一人暮らしをした経験もなくて、生活が成り立つのかも分からなくて、でも小説家にはなりたくて、その可能性がかなり低いことも分かっていて……。


 あれから9年と9ヶ月と17日が経ったんだな、と思う。本当は――理想を言えば――30歳前後でデビューして、34歳にはリッチになっているはずだったんだけれど……そうはなっていない。それでもまだ生き続けている。それなりに健康で(睡眠不足の中、3日間で2回も50kmの道のりを漕ぎ)、まだ諦めずに書き続けている。これからいつまで生き続けられるのかは分からないけれど……うん、なんだか不思議だな、と思う。僕はかなり心配性で、いろんなどうでもいいことをあれこれと考え込んでしまう性格なのだけれど、それでも時が過ぎるとほとんどのことは忘れてしまう。意外となんとかなるじゃん、というのが正直な感想である。自分という「容れ物」が残っていて、その中を何かが――透明な何かが――移動している。そういう感覚がある。あるいは60歳とか70歳とかになったときに(そこまで生き延びられたら、ですが)今この瞬間のことを——このベンチに座っている、まさにこの●●光景のことを——懐かしく思い出すのかもしれないな、とか感じる。いずれにせよ人間は「今この瞬間」を生きていくしかない。時を所有していると考えるのは幻想だ。そう言い聞かせてまた出発する。河口に近付くにつれて多摩川は川幅を大きく広げていく。高いビルが光を放っている。上流の浅川はあんなに狭かったのにな、と思う。そして引っ越し先のマンションに着いた。

 それからもいろいろと足りないものを買ったり、要らないものを処分したり、大量の荷解きをして、本棚とかメタルラックを組み立てて……とバタバタしっぱなしでした。マイナンバーカードの住所変更もしなくてはならない。警察署で免許の住所変更もして……。


 そのあと川沿いを走った。広くて、よく整備されていて、なかなか素敵な道です。新しい景色の中を走れる、というのはやはり気持ちのいいものです。不安はそう簡単に去ってはくれませんが……まあなんとかなるでしょう。川沿いでは猫も見た。逃げなかったから誰かが餌付けしているのかもしれない。僕は普段からかなりの量を食べる人間なのですが(ランニング・筋トレ・肉体労働でかなりカロリーを消費してきた)、ちょっと仕事が変わる関係でその量も調整しなくてはならない(しないと間違いなく太る)。初日は減らし過ぎて、頭が朦朧もうろうとして、慌ててチョコレートバーを買って食べたのですが……。何事もやり過ぎはいけませんね。長い目で見て「継続可能なライン」を見極めなければならない。

目つきが素敵ですね……。


 ……ということでまだまだ新しい環境に適応するには時間がかかるみたいです。それでもなお、心の中心には「作家になって独立して生計を立てたい」という思いが居座っています。ただ「売れたい」というだけでなくて、どうも自分の心のために――精神のために――書かなければいけないような気が、しています。この後どんな気持ちが自分の中に湧いてくるのか、楽しみではありますが……。それを汲み上げるためには耳を澄ませていなければなりませんね。きちんと眠って、栄養を取って、運動をして……。


 ちなみに一応23区内ではあるのですが、なんだか都会に来たという感じはしないです。デカい真新しい工場とかもあるけれど、古い店とかもちらほらあって、なんだか不思議な感じです(自転車のご老人たちも多い)。八王子の人たちは区民になると言うと「じゃあ都会人になっちゃうんですね」と言っていたのだけれど……。


 このあとどれくらい生きられるのかは分からないけれど(誰でもそうですが)、まあとにかく今ある時間を大切に生きたいと思います。それはやりたいと思ってもなかなかできないことではあるのですが……とにかく。僕にはAIほど文章を上手く書くことはできませんが、下手に書くことはできる気がする(笑)。決して意図しているわけではありませんが……その下手さに「味」が出てきたらしめたものだな、と思っている今日この頃です。

 寒いので風邪などひかないようにご自愛ください。それでは。また。

なかなか素敵な……橋です。はい。

 

村山亮

1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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